南海本線の浜寺公園駅は、大阪府堺市にある南海本線の駅の一つです。
地元民にとっては「浜寺公園」と聞くと何かえも言われぬお上品な香りがし、お年寄りの世代には潮の香りすらただよってきそうな、少し特別感がある駅でもあります。
南北朝時代の後村上天皇の時代、現在の高石市にあった大雄寺というお寺がありました。かなり大きなお寺だったそうですが、吉野にあった日雄寺が「山の寺」と呼ばれたのに対し、大雄寺が「濱の寺」と呼ばれたことから、浜寺という名前が起こったと伝えられています。
浜寺の海岸は、古くから白砂青松の名勝の地として全国に知られ、夏目漱石も、明治42~45年の間だそうですが、ここを訪れ作品にも反映させています。
明治39年(1906)、大阪毎日新聞社がここを海水浴場として開発を始めました。遠浅の海岸は海水浴にはうってつけの環境で、夏の暑い時期になると、ここをめがけて関西中から人が訪れたリゾート地でした。
(1935年8月5日付『大阪毎日』より。前日の4日は日曜日)
夏の黒山の人だかりを、地元新聞は「人の津波」と形容したほどでした。これだけ人が来れば、泳ぐスペースがあるのだろうか。
現在の臨海工業地帯の姿しか知らない人には、ここに人がこれだけ訪れた光景など想像もつかないことでしょう。
戦前の浜寺公園駅には特急を含めた全列車が停車し、シーズンには臨時列車も多数運転されました。当時は阪堺電鉄も南海。浜寺公園、いや助松や諏訪ノ森、二色浜の海水浴場も含めた「大阪南部リゾート」の輸送は南海が独占。さぞかし笑いが止まらなかったでしょう。
昭和に入り、完全にあぐらをかいていた南海に冷や水を浴びせる「刺客」が現れます。ご存じ「また阪和線か」の前身、阪和電鉄です。
ここで歴史の秘話ですが、阪和もそもそも大正時代の草案では、浜寺公園駅の近くに線路を伸ばすはずでした1。国からの認可も受けていました。
が、南海は
お前ワシの縄張りに何入ってこようとしとんねんゴルァ!
と激おこしたのでしょう。
あまりの剣幕に怖じ気づいたか阪和電鉄。紆余曲折の末、現在の位置に「浜寺駅」、つまり現在の東羽衣駅ができたと。
ただし、阪和電鉄が鉄道大臣に出した変更届(上図)では、「工事の工期短縮及び建設費用の節減」2がその理由になっていますが、おそらくそれだけではあるまい…。
海辺は空気がきれいだから静養にも良いという考えから、明治後期から駅周辺は保養地・別荘地としても開発が開始されました。
明治初期から公園内には「一力亭」などの料亭が建てられ、東京の建物を見慣れたはずの江戸っ子漱石が、
と驚いたほどの大料亭でした。なお、漱石は堺名物の包丁を土産に買ったそうです。
相続税で軒並み敷地を削られ小粒となったせいで、数はかなり少なくなってしまいましたが、かつては豪邸も立ち並び、その姿は高級リゾート住宅地にふさわしい威風堂々としたものでした。
現在でも当時をしのばせる洋風建築が残っており、近代建築マニアたちのホットスポットになっています。
『おしん』や『渡る世間は鬼ばかり』で有名な脚本家の橋田寿賀子氏も、生まれこそ現在の韓国ソウルですが、育ちはここ浜寺。女学校卒業までの少女時代を、洋館で何不自由なく過ごしたと『私の履歴書』に記しています。
近隣の貧乏長屋で高級住宅街を片目で見ながら育った私から見たら、浜寺に住んでたらそりゃ何不自由しませんわなと、半ば嫉妬の目で見てしまいます。
浜寺公園駅の駅舎は、そんなリゾート地・別荘地にふさわしい、ゴージャスな駅として作られました。
ほら、こんなゴージャスなプレハブ…あれ?
実は、高架化工事の都合で現在は写真のとおりの仮駅舎だったりします。
浜寺公園駅の駅舎とくれば、やはりこれ。
この駅舎は明治40年(1907)に、東京駅を設計した辰野金吾によって設計されました。
ハーフティンバー様式(木骨真壁造り)という主に英国で用いられた木造建築様式で、当時の贅を尽くした洋風建築には、当時の南海の矜持が見て取れます。現在の姿を見ても、これは相当金をかけとるな的な高級感がムンムンします。
海が埋め立てられ往年の賑わいも消えた現在だけを見ると、なんでこんなところにこんな立派な駅舎が!?と不思議に思う人もいるかもしれませんが、昔の浜寺公園駅は、このような駅舎を建てる価値があった、否、建てないといけなかったほどの立地だったのです。
駅の改札口からは公園へまっすぐ伸びる駅前通りが見え、その奥は海水浴場。
海水浴場があったころは、おそらく駅から潮の香りがしていたでしょう。
海へ向かう人たちのワイワイ話す声や、すぐに泳ぎたい子どもに手を引かれる親の姿が想像できます。
駅舎は100年以上、浜寺のシンボルとして現役で使用されていました。が、高架化工事のために引退が決定。
2017年に建物ごとスライドする「曳家」という方式で、場所も少しだけ移動しました。
現在はカフェや多目的スペース等に使用され、第二の人生を送っています。
駅舎こそ引退しましたが、駅構内は往年の隆盛ぶりの面影がまだまだあちこちに残されています。
これぞ明治。かなりお金を使って作られた形跡があちらこちらに。
特に白っぽい色に塗られたこの待合室は、窓上の丸い装飾が上品さを出しています。この装飾は旧駅舎にもあり、ハーフティンバー造りに箔をつけているようなアクセントになっています。
待合室の中も、経年劣化により多少くたびれている感があるものの、昭和モダンや大正ロマンを越えた明治エキソジックの貴婦人ぶりをまだ残しています。
その古さは、「ホームの地層」でも見ることができます。
駅のホーム高が何回か嵩上げされている姿を目視することができます。いちばん下の石積みと思われる「層」が明治時代の開設当時のもの、その上のコンクリートがおそらく昭和初期に嵩上げされたものだろうと推測できます。そしていちばん上が現代と。
これは開設100年以上が経過せず、かつ移転も改築もない駅にだけ見られるもので、意外な駅の意外なところで残っていたりします。同じ南海では、堺東駅の方が「地層」をもっと間近に見ることができます。
しかし、高架化工事でこれは確実になくなる模様。写真に収めるならなら今のうちだと思います。
浜寺公園駅をこういう角度で捉えたブログやサイトは、それこそ山ほど存在しています。が、歴史学という観点からここを見ると、もう一つの側面が見えてくるのです…。
コメント
はじめまして。還暦前の者ですが、子供の頃は毎日、浜寺公園駅で遊んでいました。小学校時代の昭和40年代には5番線は確実に使用されていました。行き止まり式のホームで、そのとなりには6番線(?)の遺構も残っておりました。この5、6番線の切り妻式ホームの遺構はごく最近まで残っていましたが、高架工事にともなう移設工事の際に完全に破壊され、線路がひかれています。さて5番線ですが、浜寺公園折り返しの臨時電車の発着に使用されていました。となりの4番線は、浜寺公園折り返し電車が奥まで(南へ)行けるようになっており車止めがありました。定期運用の電車は5番線ではなく4番線奥まで突っ込んで停車していました。当時は夕方に1本だけ準急の浜寺公園折り返し電車があり、この電車が来ると家に帰る時間でした。和歌山市方面から来る、浜寺公園待避の電車は4番線ではずいぶんと難波側に停車するので、浜寺公園からこの電車に乗るときはずいぶんと歩かなければなりませんでした。電車が和歌山市方面から4番線に入るために、車両のカーブ分だけホームがえぐれているのが印象的でした。現在はホームも真っ直ぐになっていますが、えぐれていた部分を修正したところは今でも見られます。しかし、高架になると少年時代の浜寺公園駅の風景はすべてなくなってしまいますね。あと、3番線のホーム屋根に使用されているレールは大正時代のものではないでしょうか。南端の部分にその記載があります。
懐かしい浜寺公園駅の配線についてご調査の結果やご記憶を有難うございました。私
に取って、浜寺公園駅の改札口の木製の柵から身を乗り出すようにして母と電車を眺めていた想い出のある懐かしい駅です。私は昭和23年に羽衣小学校に入学し、昭和26年の7月に一学期の課業を終えてすぐに東京に転校したので、南海電車の記憶も小学校低学年時代のものしかなく、その記憶がどこまで正しいかは分かりませんが、確かに、今の(6月まで使われた)4番線ホームの西側に5番線と6番線に相当する線があり、そこに電車が入っていた記憶はないのですが、おぼろげな記憶では貨車が止まっていたような記憶らしきものがあります。4番線は行き止まりで、南端部に車止めがあり、今の上り本線からの渡線はなく、折り返し専用だったと記憶します。
亡くなった私の祖母の話では、戦時中、この5番線、6番線に終電後、難波に翌日早朝の仕業車を置かずに疎開させて来て、留置していたそうです。一時的なものか定例的なものかはわかりません。
旧3・4番ホームが途中から切り欠けになっているのは、浜寺駅が明治40年8月の浜寺電化から、明治44年11月の全線電化まで浜寺公園駅で、電蒸接続(電車からSL列車への)乗換駅で、難波方の4番線に電車を止め、和歌山方の3番線にSL列車を止め、乗り換え客は同一ホ―ムを少し歩くだけで、乗り換えができると言うことだと、私は理解しています。
その証拠に、東京では中央線の高尾駅の上りホームが同じように東京寄りが切り欠けになっており、高尾駅も電車と列車の乗り継ぎ駅であったと思います。
おぼろげな記憶の話で恐縮ですが何かのご参考になればと思い、コメントさせていただきました。