イスラエルの英雄が見た浜寺俘虜収容所
明治38年1月(推定)、旅順で捕虜になった一人の青年が浜寺に収容されました。
彼の名はヨセフ・トランペルドール(Joseph Trumpeldor)。ロシア系のユダヤ人でした。捕虜の中には約500人のユダヤ人も含まれていましたが、彼もその一人でした。
1880年、ロシアに生まれたトランペルドールは25歳で戦争に参加、ユダヤ人初の准士官にまで上り詰めたものの、彼は戦いの最中に片手を失います。が、義手をつけて引き続き戦いに参加し、捕虜になり浜寺俘虜収容所へ。
一ユダヤ人捕虜が見たニッポン
トランペルドールは、今風にいえば非常なる「意識高い系」でした。
彼は所長と直談判し、ユダヤ人向けのロシア語・イーディッシュ語の新聞を発刊。収容所内の社会活動に従事しました。
所長も、
何もさせないと、『小人閑居して不善を為す』の言葉のとおり、かえって問題が起きる。
管理上支障がない限り、俘虜の活動に任せる。
という方針のため、活動を公認していました。
外出許可日には学校に参観し、所長の許可を得て一般家庭への1日ホームステイも行い、日本社会をつぶさに観察しました。
彼が驚いたのは、日本人の規律正しさと識字率の高さだったといいます。
ロシア兵は農民出身が多く、字が読める人はごくわずかでした。
ユダヤ人社会は、宗教上の理由で13歳以上に達した男子(女子は12歳)は必ず文字を読めないといけないのですが(よって大人の識字率は100%)、ロシア人社会はさにあらず。
当然、学校はあっても行ける人などごくわずかでした。
対して、日本では児童が積極的に学校へ通い、それをベースにした識字率や知識欲の高さに感銘を受けました。そもそも、農民が本を所有し、読むなんてロシアでは考えられないことでした。
この体験からか、トランペルドールは収容所内に、学のないロシア人のための「読み書きそろばん」の学校を建設。二つ返事でOKを出してくれた所長には、終生感謝を忘れなかったそうです。
収容所内には、明治38年4月より日本語講座も設けられていました。約100名の捕虜が参加、ポーランド系は覚えが早かったがロシア系は発音に四苦八苦していたという記録まで残っています。
トランペルドールが開設したという記録はないですが、もしかして何らかの請願はあったのかと考えると、なかなか面白い。
トランペルドールを尊敬しているというエリ・エリヤフ・コーヘン元駐日イスラエル大使によると、ユダヤ人としての意識に目覚め、国を創りたいという夢が芽生えたのも、浜寺で受けた日本に対するインプレッションだったそうです。
特に「公」という精神に感銘を受けました。
日本人将校より、「公とは私利私欲を捨てより大きなもの(社会・国)のためにみんなで協力すること」と教わり、「公」のために生きるという新しい価値観を見出したと。
彼はのちに建国の志をもってパレスチナに移住するも、1920年3月に開拓村を襲われ死亡します。最期の言葉は、
「国のために死ぬほど、名誉なことはない」
日本で学んだ「公」を胸に、彼は「祖国」の土となりました。
現在は「建国英雄」の一人として、イスラエルでは小学校で習うレベルの人物だそうです。
春秋の筆法をもってすれば、浜寺俘虜収容所はイスラエル建国の基礎の柱の一本となったとも言えなくもない。
コメント
今回も楽しく読まさせていただきました。地元千葉県習志野市にもロシア人捕虜収容所があったので、イメージを繋ぐことができました。習志野も宗教別に分かれていたと想像がつきます。線路のが写真がありましたが、現在の南海高師浜線の前身となっていたのかどうか、興味はつきないです。