史上空前の好景気と共に
信太山ゴルフリンクスが完成した昭和11年、日本は暗い時代でした…と思っていませんか?そう思っても仕方ありません。学校ではそう習うのだから。
しかしさにあらず。実は日本史上空前の好景気でした。
昭和11~12年の経済成長率は、24%とも言われました。不景気日本を覆っていたエログロナンセンスのダークな雲は完全に吹き飛び、東京や大阪などの都市では、ネオンの灯りが消えぬ不夜城の繁栄を見せました。二・二六事件という冷や水もあったものの、そんなもの効かぬわの絶好調ぶり。
経済史という視点からこの時代を見ると、日本史の中でこれだけ輝いていた時代があったのか!?と思えるほど、キラキラしていたのです。当時の写真を見て、
「活気があるな、明るそうだな」
という感覚を持つことがありますが、これ、気のせいではないのです。ただ、この好景気、富の分配が都市と中産階級以上に偏っていたのが玉に瑕でした。
ゴルフのさらに追い風となったのは、大衆化。
金持ちの道楽だったゴルフを、格安で誰でもプレイできる「パブリックゴルフ」の動きが、昭和6年頃から広がりつつありました。
それが形となった一つが、昭和10年(1935)に作られた千里山田ゴルフ場です。現在は千里ニュータウンとなっている敷地を大阪府が借り受け公園としたのですが、その一部を気軽に楽しめるゴルフ場として開放しました。
府営なので、1ラウンド(9ホール)50銭、2ラウンド以上は1円と料金は激安。ゴルフ場の価格破壊に来場者が殺到したといいます。
昭和初期にはこんなものも出来ました。「ベビーゴルフ」と名付けられたミニゴルフです。
今でいうパットゴルフですね。
信太山ゴルフリンクスができた昭和11年と同時期の、女性ゴルファーの写真です。
この時代には、今まで蚊帳の外だった女性にもゴルフを愉しむ余裕が生まれ、大衆文化が戦前最後の花を咲かせようとしていた時。それが、史上空前の好景気の時代にあったのです。
ただ、やはり生まれた時代が悪すぎた。
戦争とともに消えた信太山ゴルフリンクス
翌年から起こった支那事変が泥沼化し、贅沢は敵だの掛け声のもと、ゴルフは「ブルジョアの遊戯」扱いされ軍部の標的にされてしまいます。
ゴルフに対する締め付けは厳しくなり、昭和15年から30歳以下のゴルフは禁止1。。兵隊さんが異国の戦場で泥水飲んで頑張っているこの非常時に、ゴルフなんてやってる場合か!というわけです。
さらに運の悪いのは重なるもので、親会社の阪和電鉄が昭和15年12月に南海に吸収され「南海山手線」に。泣きっ面に蜂とはこのことです。
昭和16年刊行の『南海沿線厚生施設篇』では、「兄弟」となった大阪ゴルフクラブと並んで掲載されています。
が、アメリカとの戦争に突入した昭和17年になると様子が一変します。
昭和17年(1942)の南海鉄道の案内ですが、赤丸の部分には「大阪ゴルフ場」と書かれています。しかし、本来黄丸の箇所に書かれているべき信太山ゴルフリンクスが何も書かれていません。
そして翌年の昭和18年(1943)…
3月30日に信太山ゴルフ株式会社は解散しその短い命を終えることになりました。
信太山のゴルフ場はどこにあったのか?
ところで、信太山ゴルフリンクスがどこにあったのか?
信太山は信太山ちゃうのん?とツッコミを入れたい気持ちはわかりますが、信太山と一言で言ってもなかなか広いのです。
上の地図のように、「信太山にゴルフ場ありましたで~」と書かれた資料は複数存在するのですが、どれもこれも地図がざっくりすぎて、場所が特定できないのです。
その中でも、『和泉市の歴史4 信太山地域の歴史と生活』という地元の郷土史には、
「野砲兵第四聯隊の横にあった」
と具体的な場所が書かれているのですが、うーん、「横」ねぇ…。
それならばと、戦後すぐの航空写真を引っ張り出してきました。
戦後の航空写真は国土地理院のHPから容易に検索可能です。目を皿にして航空写真とにらめっこすると、「横」という本の記述から、野砲兵第四聯隊の右側の更地らしき部分がにおう…私の長年の直感が申しておりました。
しかし、それ以上の確証が得られず調査が頓挫してしまったまま少し月日が経ったところ、意外なところからそれが判明することに!
コメント
米澤様
いつも楽しく読ませていただいています(阪和線沿線住民ですので)。
信太山の会員名簿二枚目の、一番右の「渡辺節」氏は、住所もダイビルですし、直感で申し訳ありませんが、それこそ「大阪ビルディング(ダイビル)」、「神戸大阪商船ビル(商船三井ビル)」や、「綿業会館」の設計者である「渡辺節」氏ではないかと。
確かにウィキには載っておりません。
貴殿のエッセイに直接関係しないかもしれませんが、なんとなく気になりましたのでコメントさせていただきました。ご笑覧ください。
>竹内修さま
はじめまして、拙ブログをご覧いただきありがとうございます。
>信太山の会員名簿二枚目の、一番右の「渡辺節」氏は、住所もダイビルですし、直感で申し訳ありませんが、それこそ「大阪ビルディング(ダイビル)」、「神戸大阪商船ビル(商船三井ビル)」や、「綿業会館」の設計者である「渡辺節」氏ではないかと。
なるほど、その可能性は大ですね。新しいネタが出来るかもしれないのでちょっと調べてみます。ご指摘ありがとうございました。
ウチの母親は子供の頃『藤沢の別荘地』と呼んでいたそうで、今も残ってると思いますが、野外活動センター内にあるんやと思いますが、プールがあってそこを『藤沢のプール』と読んでいたそうで夏になると入りに行っていたんだとか。長らくプールもやってないようで、自分が子供の頃に30年位前で既にプールもやってなかったので、いわゆる『廃プール』となっているようです。
母親が言うには「昔はあそこは別荘地やって、金持ちの別荘がめっちゃ建ってたんやで」って言ってました。
>信太山には「ノドカワイーター」という魔物が棲んでいます。信太山を登る人間から水分を奪い取る、怖い魔物です。
なんか、日曜日の朝8時半からやっている某幼女(と大きなお友達)向け番組に出てくる敵の怪物みたいですね・・・ああ、そういえばその番組の過去のシリーズに阪和沿線(というよりも水間鉄道沿線)出身者がヒロインのひとりを演じていましたね。
いつも楽しく拝読しています。
私が通う某ハム大学にてこの地域の研究を行うことから「黒鳥郷土史」という資料が手元にあるのですが、そこに信太山ゴルフ場についての記述がありました(以下要約)。
信太山地域の開発事業として、阪和電鉄と結びつきの強かった藤沢樟脳及び南組による住宅地及びゴルフ場開設があった。阪和電鉄は現在の山荘町から高津池、旧伯太藩屋敷跡(丸笠神社)までの台地(長さ約1000m幅100m)を買い占めた。しかしこの土地は水不足のために住宅には向かないことが発覚。樟脳を作るためにクスを植えるも成長せず、土地の大半をゴルフクラブ用地に転用した。なお残りの土地は”藤沢のおばあさん”(恐らく親族のこと)の別荘地として残した(タケウチ様のコメントにある「藤沢の別荘地」のことでしょう)。ゴルフクラブは18ホールあり、市内のゴルフ族をクラブハウスまで運ぶためのバスが信太山駅ー伯太屋敷ー山荘間で運行した。戦争の激化によりゴルフのような遊びはできなくなったのでゴルフ場用地は大阪府に売却、府は鍛錬道場を建設するために購入したが更なる戦争の激化による食料不足解消のため疎開者や和泉町内の軍需工場などがこの土地を借用しサツマイモ畑となった。
また、ゴルフ場南の土地は同時期に黒鳥の立石吉右衛門氏により宅地造成され、高級住宅やバンガローなどが建てられた。
とのことで、タケウチ様のコメントにある「藤沢」はゴルフ場の造成などに関わっていた藤沢樟脳のことですね。またこの土地には高津池、平池、中津池、新池という溜池が当時から今まで(現在は一部惣ヶ池水源池になっています)あるため、この池をそのままゴルフコースにそのまま取り入れたのだと思われます。
信太山のゴルフ場についての記述を見て真っ先に思い浮かんだのが当記事でしたのでコメント失礼します。
自衛隊の正門近くで生まれ育ちました
少し山の方に歩いていくと、大阪市立の野外活動センターがあります
そのあたりの電柱の識別プレートには「ゴルフジョウ」と書かれていました
いまでもあるかな