福原遊郭と外国人遊客 |おいらんだ国酔夢譚|

神戸の福原遊郭と外国人関西地方の遊郭・赤線跡
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福原遊郭以外の外国人客数

福原以外にも、少数ながら外国人遊客の数字が散見される場所が、何か所かあります。

毎年コンスタントに数字があがっている遊里に、「新川」という場所が出てきます。
ここは神戸市内にあったもうひとつの遊里、「新川遊郭」のこと。明治13年(1880)に設置された遊里で、福原に比べれば比較的こじんまりとしている遊郭です。といっても、娼妓数250~300人もいれば全国的(マクロ)に見れば「中の中の上」くらいの規模です。

神戸新川遊郭地場所

場所は現在のJR和田岬駅のすぐ近くに位置した海辺の遊里。
三菱や鐘紡の工場が君臨する工業地帯を近くに持つため、工員御用達の遊里だったことが想像できます。地理的条件は悪くなかったものの、福原に比べて地味なまま推移し、遺構も全く残っていないせいか、深く調べる人は少ないようです。

なお、ここは昭和20年3月の空襲で全焼、兵庫の方へ移った業者もいたという情報もありますが、戦後の赤線・青線としては復活しなかった模様です。

ここの外国人遊客数の推移(昭和のみ)は、以下のとおり。

兵庫県遊郭の外国人遊客数

表には「その他」としていますが、西宮にあった遊郭も、さほどの数ではないですがコンスタントに外国人登楼者がいます。外国人居住者がいたせいでしょうか。明石や洲本は数年に一度、数人程度の登楼記録があります。
西宮は常連、明石洲本は出合頭的な一見さんでしょう。

その中で、興味深い数字を見つけました。

昭和7年(1932)、「多紀郡八上池上」という所での外国人遊客数が、168名と激増しています。同年の福原以外の外国人遊客数が189名のほとんどがここというわけです1
この場所は現在の丹波篠山市。つまり篠山の遊郭(八上新地)のこと。篠山の遊郭とくれば、あの阿部定が流れ着いた遊里として、知る人ぞ知る場所でもあります。阿部定が篠山にいた時期は、昭和6年(1931)から半年間2とされていますが、外国人激増の年は彼女がいた翌年のことです。

この遊里、いつもなら外国人遊客数は毎年ゼロなのですが、なぜかこの年だけの激増ぶり。その理由は何か。わかりません。ただ、異常な数の外国人が遊郭に登楼していることは確か。今でも外国人観光客とくれば少ないと思われる丹波篠山に、遊郭に登楼しただけでもこれだけの外国人、何かイベントでもあったのか!?
いろいろ考えてみたのですが、陸軍聯隊(歩兵第70聯隊)以外には外国人が、それも大量に押し寄せる理由が思いつきません。外国の陸軍が、大日本帝国陸軍と合同演習を行うために神戸から上陸。篠山聯隊を演習後、打ち上げに遊郭へ…
と考えてみたのですが、全く証拠はないただの想像です。
『篠山町75年史』や『篠山町100年史』を読めば、そのヒントになることが書かれているかもしれませんが、あいにく私ははるか遠くの地に居着く身。それは読者さんにお任せします。

過去の出来事について調べものをするときは、ネットの情報も含めて様々な資料を使うことになります。ブログであればWikipediaやネット情報のコピペでも別に良いかと思いますが、そんな中で統計書を使うと、記事やレポートの質に箔がつくこと請け合い。
「この人はちゃんと調べているのだな」
わかる人にはわかります。
彼らには、数字の海に溺れながら欲しいエッセンスだけ抜き取ることが、そう簡単ではないことをわかっているから。

神戸関連の記事は他にもあります。いかがでしょうか?

  1. 残りの21人は洲本遊郭
  2. 供述調書から、昭和6年初夏~昭和7年初旬くらいか。
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コメント

  1. 朝汐 より:

    新川遊廓の妓楼名の記載された地図資料(1894)がありましたので、勝手ながらgmailの方に、該当ページをお送りさせて頂きました。参考になれば幸いです。
    ※その資料のお送り出来なかったページでは、神戸の遊廓として福原遊廓・稲荷新地・新川の3カ所であると書かれています。
    ※地図資料のタイトルは『福原町及稲荷新地遊廓全図』で、その右上部分に『新川遊廓図』が載っています。(文字が潰れて判読できませんが)
    ※もっとも稲荷新地は地図の福原遊廓の一部(右下)の「字稲荷シンチ」とある部分だけのようです。

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