山岡順太郎、最後の謎
そして、最後に残る謎があります。
なぜ、順太郎は「美章」と父親の名前を会社につけたのか?
それにまつわる証言や記録は残されていません。が、彼なりに思うものがあったのでしょう。さもなければ、40年も前に亡くなった父親の名前をつけるわけがない。
実は、晩年の順太郎は糖尿病を患っていました。糖分を絶つなどの荒療治(当時はこれしか治療法がなかった)もあって体調は一時戻ったものの、美章土地を設立する前から背中に癰(できもの)ができて体調が悪化、一時は生命が危ない状態に陥ったそうです。
この癰、糖尿病によって免疫が低下した患者あるあるの合併症だそうで、記録に残る日本史上初の糖尿病患者である平安時代の藤原道長も背中にお椀くらいの癰ができ、これが原因で死亡しています。
奇しくもちょうどこの年(1921年)、犬の膵臓から分泌されたインスリンが血糖値を下げる作用があると海の向こうで判明、打つ手なしだった糖尿病治療に一筋の光が差した記念すべき年でした1。
美章土地株式会社を設立したのは、死の淵をさまよってなんとか快復した直後。彼なりに人生の終焉が見えてきたのかもしれません。そして、人生の締めくくりの事業として、それで開発された住宅地に父親の中である「美章」をつけたのは、彼なりの親孝行だった…と勝手に推測しています。
先日、ガンで治療中の小倉智昭氏へのインタビューが「スポーツ報知」に掲載されました。
氏は「三途の川で親父と対話した」と語っていますが、順太郎も生死の境をさまよった間に、三途の川で父親と再会したのかもしれません…。そして、会社名に「美章」をつけたと。
大阪財界のビッグボス、山岡順太郎が人生最後に手がけた事業名…それは父親だった…なんだか物語のようなロマンを感じさせます。
この美章土地株式会社が、順太郎の人生最後の事業となりました。
彼の糖尿病は一歩進んで二歩下がるように確実に身体を蝕み、美章土地株式会社設立の6年後の昭和3年(1928)11月26日、糖尿病性腎症による尿毒症で静かに息を引き取りました。享年62歳。これも皮肉ながら、同じく糖尿病で亡くなった藤原道長と同い年で亡くなりました。
死後、関西の経済界に多大な貢献をしたことから、大阪の経済界や関西大学から受勲の話が出たのですが、「余は山岡順太郎で可し」という遺言で葬儀しか行われませんでした。それがかえって、山岡順太郎という傑物を歴史の埃の中に埋もれされたのかもしれません。
順太郎の死後、社長は空席のまま取締役の合議で経営していたようです。
昭和12年(1937)の『大阪商工名録』に掲載されており、翌々年の大阪の不動産会社一覧にも名があったのでそこまでは存在していたようですが、私がたどれたのはここまで。資料を断片的に見ていくと、倭も戦前内に亡くなっているようで、美章土地のそれ以降の消息は不明です。
最後に
「シン・美章園をつくった男」こと山岡順太郎の人生を追っていきましたが、何のネタもなさそうな美章園を調査兵団してみると、実に面白い展開になって筆者本人も少し驚いています。
が、実は「美章園をつくったのは山岡美章ではない」というのは、平成8年(1996)の日本建築学会論文で明らかになっています。直接「そうじゃない」と書いているわけではありませんが、精読すれば私のように頭の上にクエスチョンマークがつくはず。
しかし、「美章園をつくったのは山岡美章にあらず」は約30年間ほったらかしにされ、阿倍野区HPやWikipediaに書かれたように「美章園をつくったのは山岡美章だ」が一人歩き。他のサイトが伝言ゲームのようにコピペを繰り返し、誤情報がやがて定説になってしまったようです。
ちゃんと調べると、定説もこうもあっけなく覆る…いや、30年前には覆っていたのです。
そして、ここまで読んでくれた方への最後のおまけに。
この世に残る、山岡美章(彌五郎)唯一の写真です。真ん中が幼い時の順太郎、左が美章です。右は順太郎から見た叔父とのこと。
順太郎がこの世に遺した父親の名前。それが現在の我々が地名・駅名としてふつうに使っている…順太郎の本心は当然わかりませんが、親の名前を大阪の地に遺し永遠にそれを刻すという親孝行であったのであれば、こんな粋な親孝行はないでしょう。
お次は、美章園に残る「美章園」のかけら、「シン・美章園」を。
・『山岡順太郎伝』
・『山岡順太郎と住宅経営論』(1996年論文)
・『山岡順太郎と大阪住宅経営株式会社』(1996年論文)
・「関西大学百年史』
・関西大学HP
・『帝国銀行会社要録 第18版(昭和5年)』
・『大阪商工名録 昭和12年』
・『大日本帝国商工信用録] 昭和14年』
・『工業界 13(6)(133) 山岡順太郎論』(1922年)
・『Chamber (198) 歴代会頭物語』(大阪商工会議所編 1967年10月)
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