飾磨遊郭の歴史ー港と共に発展した遊郭
飾磨の港は、「思賀真江」として万葉集にも出てくる古代からの港で、その歴史は非常に古い。
江戸時代には姫路藩の港として整備され生野銀山からの銀の積み出し港となったものの、浅瀬のために高砂や室津などの近隣の港に比べ、いまいちパッとしない小さな港でした。
そこを開発し、北前船などの大型船が入れるよう、藤田祐右衛門維昌という人物が中心となり、飾磨津の拡張を行い船着場を設置、そこを湛保(たんぼ)と呼ぶことにしました。
これが現在の飾磨港となりました1。
遊郭としての歴史は、天正年間(1573-1593年)には遊女がいたと伝えられています2。
が、近代につながる飾磨遊郭は、地元の古書によると飾磨港を造った藤田祐右衛門が飾磨港の拡張の際、4〜5名の女を使って船から船へ「営業」させたのが始まりと伝えられています。
彼女らを、地元では「総稼」と呼んでいました3。
飾磨港へ立ち寄ったある船乗りが船へ帰ったところ、後ろに何やら人の気配が…。
振り返るとそこには一人の着飾った女が。

あら、御免やす
女はそう言って船頭の元へ。ありゃなんだと後で聞くと遊女だったとか。

あれがウワサの飾磨の総稼ってやつか…
と好奇心で見てみると、顔の小ささに反比例して結った髪の大きさが印象に残ったといいます
そして1900年(明治33)、その営業スタイルが禁止されたのをきっかけに貸席を設けたとされています4。
『全国遊廓案内』には
宿場が現在の様な遊廓に成ったのは、判明しないけれども、多分明治三十年頃だらうと思はれる。
『全国遊廓案内』飾磨町遊廓 p363
と書かれていますが、「自信はありません」と前置きしつつも誤差は3年。ほぼビンゴとみていいでしょう。
1920年(大正9)刊の『兵庫県飾磨郡飾磨町志』によると、飾磨遊郭は「貸席十戸 娼妓六十六名」とあり、そこそこ栄えている感があります。
1930年(昭和5)刊の『全国遊廓案内』も10軒、統計書の数字も10軒と変わらずだったので、これがこの遊廓のキャパだったのでしょうね。
数字ばかりじゃ面白くないなーとネタを探していたところ、こんな記事を見つけました。

1932年(昭和7)に楼主の待遇に不満を持った遊女たちが一斉ストライキを実施したというニュースです。
大正末期からの慢性的な不況な上、とどめの「金解禁」で世間は大デフレ時代へ。遊郭で遊ぶどころではなくなり、商売としてはかなりしんどくなったようです。
国も緊縮財政なら遊郭もお国のために緊縮だ!とばかりに楼主たちが「緊縮」をし出したところ、遊女たちの逆鱗に触れてストライキを起こされてしまったとさ。
さて、楼主たちの言い分は正しいのか。
実際、『兵庫県統計書』で数字を見てみたところ、
| 遊客数(人) | 消費金額(円) | |
| 昭和2年(1927) | 28,481 | 87,382 |
| 昭和3年(1928) | 32,249 | 96,779 |
| 昭和4年(1929) | 35,661 | 107,283 |
| 昭和5年(1930) | 30,430 | 82,042 |
| 昭和6年(1931) | 31,838 | 79,152 |
| 昭和7年(1932) | 30,493 | 66,914 |
1929年(昭和4)から32年(昭和7)の落ち込みがかなり激しくなっています。
特に1930→1932年は、客数の大きな変化はないのに、売上はがた落ち。つまり客単価が減っているわけで、客の財布の紐が相当キツくなったことが数字だけで明白です。
これは楼主も締め付けを強めざるを得ない。
しかし、世間は1932年のアベノミクスならぬ「タカハシノミクス」による積極財政により景気は翌年より回復、1935年(昭和10)には遊客数約4万人、売上約8万円まで少し回復しました。
さらに、「教科書が絶対に教えない幻の昭和景気」が板についてきた翌年には、遊客数約44,000人、売上も一気に1万円アップの約94,000円。当時の1万円アップは3000万円くらいアップという見方でだいたいOKです。
景気回復による経済の「モノ」の血液である流通の回復で、港が復活したのでしょう。港あっての、海運流通あっての飾磨遊郭ですから。
なお、そのまた翌年の1937(昭和12)がこの遊郭の数字的なピークなのは、他遊郭の例に漏れずです。
戦後の赤線と飾磨遊郭の大捕物
飾磨遊郭は、戦後もそのまま赤線として継続しました。
そんな遊郭→赤線へ移行しつつある戦後の混乱期、姫路である殺人事件が起こりました。
1947年(昭和22)10月23日、飾磨にあった銭湯兼タバコ屋の女将が殺されるという事件が起こりました。
現場検証から売上の現金や売り物のタバコなどが奪われていたので強盗殺人として捜査を開始、風呂場の従業員などの証言から二人の朝鮮人A、Bが容疑者として上がりました。
しかし、目撃情報だけで証拠がない上に本人に事情を聞いても犯行を否認したので、止むなく釈放となりました。
が!事件は意外なところから進むこととなりました。
姫路市のある質屋に、女物の衣服を売りにきたという男が来たという情報があったのです。
質屋の勘で、これは例の殺人事件の盗品じゃないかと察した主人が警察に連絡、刑事が駆けつけると盗品に間違いなし。
しかも、売りに来た男が身体的に大きな特徴(片目が不自由)を持った朝鮮人だったので、心当たりがある刑事がすぐにその朝鮮人Cを連行、事情を聞いたところCはAに頼まれたことを自供。
これで、いったんは嫌疑不十分で釈放されたAこと李東俊が犯人だと確信した刑事たちは、李が飾磨遊郭によく登楼していたという情報を聞きつけ、署を挙げて一斉臨検を開始。
妓楼「幸栄楼」で李を発見して大捕物となりました。その格闘で刑事1人が怪我をしたものの、無事李を逮捕したと。
事件自体は他に共犯者が3人ほどおりうんぬん…と続きがあるのですが、本編とは関係ないので省略。
『兵庫県警察史』によると、飾磨の赤線は遊郭時代と同じく10軒からスタートしたようです。
筆者が持っている9年後の1955年(昭和30)のリストによると業者数は8軒。2軒減っています。
そして、売春防止法完全施行寸前の1958年(昭和33)2月時点で、業者5軒、接待婦23人となり、翌月には3軒18人。この数字のまま赤線廃止を迎えたと思われます。
廃止後の飾磨港は…
赤線が廃止になっても、当たり前ですが飾磨港は動き続けました。

姫路から飾磨港へは、かつては「飾磨港線」と呼ばれた播但線の支線が走っていました。

1895年(明治28)に開業したこの駅は、港への貨物輸送の集約駅とともに、遊郭への最寄り駅でもありました。
私の造語「駅前遊郭」と言っても過言でもない位置に港と遊郭がありました。
戦前は1時間に1本の割合で列車が運行されていたので、姫路からこの遊郭まで通うことも不可能ではありませんでした。
しかし、戦後のモータリゼーションの影響を受けたか、旅客・貨物共にどんどん衰退。1974年(昭和49)には旅客列車は1日2本だけに。
メインだった貨物輸送もトラックに奪われていき、1980年(昭和55)にはすでに開店休業状態だったといいます。

そして国鉄の合理化政策で、JRを待つことなく1986年(昭和61)に路線ごと廃止になりました。
そんな廃線寸前のニュース映像に、ほんのちょっとだけですが飾磨遊郭が写っていました。
港沿いに並ぶ元妓楼、中もTHE妓楼って感じで、この時代に戻れるなら中を見てみたかったですね。

現在の飾磨遊郭跡をゆく
さて、現在の飾磨遊郭跡を歩いてみましょう

まずは国鉄の飾磨港駅の跡。駅の跡は現在、姫路 みなとドームとなっています。
ドームの前にあるがらんどうとしたスペースが、かつて海運で栄えた鉄道の名残とも言え無くもない。

1975年(昭和50)の航空写真をもとに、駅と遊郭の位置関係をわかりやすくしてみました。
飾磨港駅から遊郭は、駅前とは言えないものの、徒歩なら1〜2分の距離。歩いてすぐの位置なので立派な「駅前遊郭」と言えましょう。
当時の家の建て方を見ると、遊郭の妓楼は港沿いに位置していたと思われます。赤線廃止寸前でも10軒の妓楼があったと言うので、おそらくは上の航空写真の赤塗りの家々かなと推定できます。

2026年時点での、妓楼が並んでいた遊郭のメインロードを撮影してみました。
昭和50年の航空写真ではまだまだ元妓楼が港沿いに残っているのが確認できますが、それから50年経った現在では跡形も残っていません。
妓楼目当て…という目的では、もはやここに来る価値はないかと思います。
が!
一軒だけ…なんか怪しいなという建物が残っていました。

関係ないかな?いや、なんか直感がここだと言ってる感もあるのだけど、結論は出しません。

飾磨港には、「海神社」という名前の神社があります。大綿津見神という海の神様を祀る神社で、地理的に遊郭の組合や妓楼単位で玉垣が奉納されていてもおかしくない。いや、あるはずだ。
…と探してはみたものの、それらしきものはありませんでした。

飾磨港の南側には、姫路港フェリーターミナルがあります。
四国の小豆島や、行政区分としては同じ姫路市になる家島へのフェリーが発着しており、筆者訪問時はお盆休みの2日目だったこともあり、フェリーの切符売り場は行列、特に家族連れが多かった印象でした。
撮影機材📷:Fujifilm X100VI

飾磨遊郭の場所・位置
・兵庫県姫路市飾磨区須加
・最寄り駅
①山陽電鉄飾磨駅から徒歩約40分
(※物理的に距離が遠すぎなので、おすすめしません)
②姫路駅北口から神姫バス94番(姫路港行)で終点「姫路港」下車 徒歩2分
関西・近畿地方の遊郭・赤線跡の記事まとめ(リンク集)です。


・『姫路市史』
・『庫県飾磨郡飾磨町志』
・『全国遊廓案内』
・『兵庫風流帖』
・『兵庫県警察史』(明治・大正編、昭和編)
・『兵庫県統計書』
・『全国遊廓案内』
・『全国女性街ガイド』
・『刑事捕物座談會記録』
・『廓清 22(12) 昭和7年』
・『目で見る姫路市の100年』
・『姫路市住宅地図全産業住宅案内図帳 飾磨区南部 1958年』
・『観光と産業の姫路市住宅地図 1965年』
・飾磨町遊郭 湛保ー花街ぞめきブログー

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