川本楼の遺物たち
町屋物語館には、旧遊郭の遺物も数多く残され、一部は常時展示されています。
昭和初期頃と思われる「遊客名簿」。登楼し遊んだ客はすべてこのノートに記載され、警察のチェックを受けることとなります。私が遊里史においていちばん信用できる数字として統計書のものを挙げるのは、警察が遊客名簿や帳簿から人数や売り上げを割り出し、数字として計上しているから。
興味深かったのがこちら。昭和一ケタの頃の川本楼の値段表です。事細かい時間帯に区切られていることがわかります。この値段表、作家の半藤一利が赤線時代に通った「鳩の街」のを書斎に飾っているのは知っていましたが、レプリカではない現物を見たのは初めてです。
昔ながらの花代(線香一本が燃え尽きるまでの時間。江戸時代からの花街の時間単位)と、西洋式(?)の時間制が並立しているのが興味深い。1時間あたりが「花(代)」の倍ということは、おそらく花一本30分くらいだったのでしょう。
わかりにくいのが、「継花」と「紋日」。継花はいわゆる「花」の延長料金で、紋日とは遊郭の祝日のことで、盆・正月など、紋付きを着て客席へ出たことが由来です1。
さて、この値段表と、これと同時期に書かれた『全国遊廓案内』の記述を比べてみましょう。
店は写真店で、(中略)遊興は時間制、又は仕切花制で、(中略)一時間遊びが二円位で仕切は午前八時から正午迄は五円、正午から日没までは七円、日没から一泊して翌朝七時までが十二円である。
(太字が一致している部分)『全国遊廓案内』より
『全国遊廓案内』より
「泊まり」の時間が少しずれていただけで、他はすべて一致します。『全国遊廓案内』、デタラメと書くと可哀想だが、適当な記述も多く参考にするには裏取りが必要ですが、この記述に関してはほぼ当たりでした。
上記の値段は、果たして高いのは安いのか。
同じ奈良の木辻と比べると、時間料金が倍の設定となっており、大阪の松島・飛田よりも50銭高い。「夕刻より朝まで」と比べても、木辻の12円、東岡町13円、松島の10円25銭2に比べると、15円とはえらい強気の値段設定やなと。おそらくかなり格式が高く、客層も高めだったと推定できます。
その間接的な証拠に、川本楼の主の川本氏は洞泉寺遊廓組合の代表をしていたことが、戦後の資料ですが判明しました。言うなれば洞泉寺の色街代表だったのです。おそらく、洞泉寺色街一の大妓楼だったからこそのお値段だった…そう推定できます。
帳場のおしゃれな装い
入口正面には、旧帳場があります。帳場とは帳簿をつけたりお会計をする場所のことで、日本家屋の商家では入口の横に置かれるのが普通でした。
しかしさすがは川本楼か、ここにちょっとした仕掛けが施されています。
帳場の擦りガラス障子にぽっかり開いた、ハート型の透明な部分…これは♥ではなく、「猪目」という厄除けマークなのですが、なんでこんなところに!?
(画像:『知の冒険』様より)
入口から入ってきた客を、このようにチェックするためのものだったのです。外からは見えにくいものの、帳場側からは外が丸見えということが、このアングルの画像からわかります。
また、帳場には四角いスペースもあります。これは何でしょう?
妓楼で遊んだ客は、帳場の前で精算して帰るのですが、その時顔が見えないように気を遣った工夫なのです。これだと手だけを出してお金を払えば、お互い対面せずとも支払いOK。Win-winの設計。
上手く作ってあるものだなと、私は感心しきりでした。
帳簿の端に凹んだ意味深な部分が…。
何のことはない、ここにはかつて電話が置かれていたそうです。前回の山中楼の際にも書きましたが、昔の電話はそれだけでひと財産だったほどの高価なもので、庶民がおいそれと持てるものではありませんでした。遊郭の妓楼は、営業ツールとして持っていることが多かったものの、なかったところもあり、昭和30年時点での木辻遊郭の電話所有率は、ざっくり6割くらいでした(玉の井カフェー街は3割ほど)。
ちなみに、川本楼の電話番号は「奈良の215番」だったようですが、山中楼編で紹介した「139番」は「木島屋」という屋号でした。
少し話は外れますが、同じ洞泉寺赤線には栄えある(?)「4番」があります。つまり奈良県で4番目に電話を引いた主が洞泉寺にいたということで、おそらく近代における洞泉寺遊郭のパイオニア、少なくても洞泉寺の中でいちばん最初に電話を引いた主です。
また、東岡町には「6番」が。その主は、前回の東岡町編で書いた、大正14年からの「ビッグバン」のきっかけとなった「錦水楼」。錦水楼は遊郭・赤線、そして「その後」も生き抜いた老舗中の老舗でしたが、その跡はマンションとなり、往時をしのばせるものは何もありません。
帳場の端には、こんなものが置かれていました。
これは一体何なのか?実はこれ、ここで働く女の子たちのお茶碗・湯飲みの収納棚でした。ちょっとしたロッカーみたいなものでしょう。
この棚、元々帳簿にあったものではないようでしたが、果たしてどこに置いてあったのか。
予想外のこんな人が、こんなところでこんなことを書いてくれています。
船に乗り組んでいる人はみな若い人で、もうこれが日本の訣別であるから、浦賀に上陸して酒を飲もうではないかと(中略)陸に上がって茶屋みたいなところへ行って、さんざん酒を飲んでさあ船に帰るという時に、(中略)その茶屋の廊下の棚の上に嗽茶碗が一つあった。これは船の中で役に立ちそうだと思って、ちょいと私がそれを盗んできた。
(中略)大そう便利を得て、アメリカまで行って、帰りの航海中も毎日用いて、とうとう日本まで持って帰って、久しく私の家にゴロチャラしていた。聞けばその浦賀で上陸して飲み食いしたところは遊女屋だという。(中略)そうしてみるとあの大きな茶碗は女郎の嗽茶碗であっただろう。引用:『福翁自伝』福沢諭吉
引用:『福翁自伝』福沢諭吉
1万円札の若い頃のエピソードです。「日本への訣別」とは咸臨丸に乗ってアメリカへ向かう前のこと。その前に大いに遊ぼうぜと若い衆で壮行会をした時の様子のようです。
高額紙幣になって久しく、某有名義塾大学では神か聖人扱いの福沢大先生が、「遊女屋に行って」「茶碗を盗んだ」という告白。なお、諭吉先生は適塾時代、料亭の皿も盗んでいます。
「へーあれ遊女屋だったんだ」
と諭吉先生はすっとぼけていますが、私には見えるぞ…その語尾に隠れる「www」を(笑
それはさておき、諭吉さんは「廊下の棚」とサラリと書いてくれています。これはけっこう重要なヒント、旧川本楼がどうかはわかりませんが、この遊女のお茶碗入れの棚も、廊下に置かれていたのかもしれません。
棚には、女性の名前も残されています。棚自体は遊郭時代からのものかもしれませんが、名札と女の子の名前は戦後の赤線時代のものかと思います。遊郭時代の源氏名は芸妓に準じていたので、こんな俗っぽい名前はつけません。
…とガイドさんを差し置いてドヤ顔で説明してしまいましたが、名古屋市立図書館所蔵の中村遊廓の全遊女の名簿3を見てみると、そんなことありませんでした。町屋物語館のスタッフの皆さん、ここにて訂正及びお詫び申し上げます。
井戸と中庭と大広間
旧川本楼の美は、この坪庭に凝縮されている。そう言っても過言ではないでしょう。
坪庭といえば京都の町家の代名詞ですが、和風建築の狭いスペースにも憩いの場をという知恵の一つ。奈良にも坪庭はありました。
真ん中に井戸がありますが、現役時代の水はここで賄っていたそうで、現在は枯れてしまっているものの、満々と水をたたえていたとのこと。
中庭の奥には実質14畳ほどの大広間があり、また奥には広々とした裏庭を見ることができます。
欄間には川本家の家紋を見ることもできます。
大広間にある黒い一本の柱…おそらく漆で黒く塗られているとは言え、異様な存在感があります。
これは「えんじゅ」の木だそうで、漢字だと槐。木に鬼と書きます。鬼が見張っているぞ、悪いことするなよ!という魔除けとして、商家では重宝されていたそうです。
風呂
続いてお風呂を見てみましょう。
…といっても、特筆すべきものはありません。ご覧の通り。
奥のコンクリ剥き出しの部分が浴槽だったそうですが、妓楼の風呂にしてはやけに浴槽が小さいなと感じてしまいます。浴室自体はそこそこな広さなのに。
浴室の天井には、川本家の家紋が残されています。浴槽でお湯に浸かりながらぼんやり天井を見ていると…「この紋所が目に入らぬか!」となるこの演出は何なのだろうか、川本さんの自己顕示欲が少し垣間見れたかもしれません。
ところでこの家紋は何か。
答えは丸に三葉柏。『土佐柏』ともいい、土佐の山内家の家紋として有名です。ここから派生したマークが…
三菱のスリーダイヤなことは、知っている人は知っているでしょう。
川本家と土佐柏との関係は何か。それはわかりません。川本家が土佐出身などという縁かもしれませんが、家紋に著作権はなくただの偶然の可能性もあります。
今度川本楼に行った時に突っ込んでみようかと思いますが、それか、誰か突っ込んで私にこっそり連絡下さい。
妓楼は便所も豪華だった!
1階の奥に鎮座するは、便所です。そのまま便所なのですが、同じものが3つある。これって意味あるの?と。意味があるから分けているという前提での私の勝手な想像ですが、やはり他の遊客と顔を合わせないよう、個室形式にしたからではないかと。
昔はほぼ公然と女遊びができたとは言え、顔見知りと鉢合わせるとやはりバツが悪い。会社の同僚とラブホのエレベーターでばったり…なんてイヤでしょ?それと同じことです。
そして、トイレ前の床を見てみましょう!
(画像:『知の冒険』様より)
ただの床でした(笑
しかしここ、かつては3分の2がガラス床だったそうで、その下には水槽があり金魚が泳いでいたとか。修繕が始まった時はガラス床にヒビが入り、危ないと写真の床に替えられたそうな。思い出せば、最初の訪問時ここあたりは立入禁止、用は他の所でやれだったのですが、ガラス床との関係があったかもしれません。
そのガラス床の一部が、裏庭に展示ならぬ放置プレイされています。人間の重みに耐えられるほどの厚みたるやすごいもの。ガラスの床に金魚だけでもびっくり仰天ですが、このガラスだけでもけっこうええ値段しまっせ。
そこで、一緒に回っていた方がつぶやきました。
淀屋の逆張りやな…
「淀屋」とは、江戸時代初期の大坂にいた豪商、淀屋辰五郎のことで、「淀屋橋」という駅名で現在にその名が残っています。
淀屋は商売で大もうけし、大阪を「天下の台所」たらしめた一人でしたが、贅沢三昧が幕府の逆鱗に触れ4、全財産をボッシュートされてしまいました。赤穂浪士による討ち入りの数年後のことでした。
その贅沢の一つに、「天井金魚」なるものがあります。
▲イメージ画像
淀屋は「夏座敷」と称して大広間の天井をガラス張りに替え、その上に水を入れ金魚を泳がせたというのです。有名な話ですが元ネタは『元正間記』という書物、それくらいの贅沢ができたほど淀屋は財をたくわえたというのです。
さて、これで川本楼のお話は終わ…
あれ?2階と3階は?
1階だけでこれだけのボリュームになってしまったので、2階より上は【後編】へ!