天王新地はなぜここに作られたのか

天王新地は、JR阪和線紀伊中ノ島駅からは徒歩6~7分ほどの距離。辺鄙と言い捨てるほどのものではありません。
が、かといって決して交通利便な場所と胸を張れる場所でもありません。
なぜそんな中途半端な地域にできたのか、素朴な疑問が残りました。
しかし、天王新地が隆盛をきわめていた戦後の売春防止法施行寸前のエリアを見ると、ヒントらしきものがうかがえました。

紀和駅は、かつては「和歌山駅」としての大看板を背負っていました。現在の「スリム」になった、いやなりすぎた姿を見ると到底信じられないかもしれませんが。
「和歌山駅」だったころの周辺地図を俯瞰してみると、戦後最盛期と思われる新地の範囲から紀和駅までそれほど遠くありません。実際に歩いてみても、大人の足で6~7分。全くの徒歩圏内です。
紀和駅前から南へ続く道は、和歌山市の繁華街や官公庁街へと続き、一時は通勤・通学客で賑わったそうです。が、夕方以降、東へ向かう別の流れも戦前から昭和中期にかけてあったはずです。
新地周辺に中小の工場(特に鉄工所)が結集し、金離れが早い労働者(潜在客)が集まっていたこともありますが、天王新地がここに作られた理由は、和歌山駅と紀伊中ノ島の両駅の中間に位置し、どちらの駅からでも集客もできるという利便性だったのではなかったでしょうか。
昔の天王新地はもっと大きかった!


現在の天王新地のエリアは、「コ」を時計回りに90度回転させた道沿いですが、昭和33年売春防止法施行直後と思われる住宅地図を紐解くと、現在の2~2.5倍の広さはあったことはほぼ確実です。今の範囲だと紀和駅(当時和歌山駅)からはちょっと遠く、最寄り駅としては不適格です。が、赤線、または戦前(推定)のエリアだと十分最寄り駅足り得ます。

昭和14年の和歌山市の地図にも「天王新地」の名前があらわれていますが、紀和駅の方が心なしか近い気がします。現在では紀伊中ノ島駅が最寄り駅になるのでしょうが。
「天王新地の玄関口は、むしろ紀和駅のほうだった」
という仮定で紀和駅から実際に天王新地の方向へ進んでみると。

紀和駅からかつての天王新地への入口に入ると、いきなり当時の生き残りの可能性非常に濃厚な建物を発見!

この装飾は、ただの民家ではあるまい…当時の住宅地図と照合してみると、残念ながらここの部分の字がつぶれて判別は不可でしたが、これは長年の勘的に、そして場所的に間違いないでしょう。
「昔の天王新地は今より大きかった」という仮定と、資料を照らし合わせた推測がはたらかないと、ここは間違いなく見逃すでしょう。少なくても、「今の天王新地の広さ」では完全に見逃す区域なので。

現在は場末の少しくたびれた下町の住宅地という感がある場所ですが、実はここもかつて天王新地の一部として店が軒を連ねていたと地図は語っております。

暗渠と化した川に沿う道は、東京の玉の井を思い出させます。
店はすっかりなくなったが、
「ちょっとお兄さん、寄っとくれよ」
という声が、今にも家々から聞こえてきそうです。実際に聞こえるのは家から漏れ聞こえるテレビの音声だけですが。


朽ち果てた看板にいわく「天王新地料理組合」ですが、現在それが本当にあるのかすら定かではありません。稼働中が数軒だと組合もへったくれもないでしょうが…。
しかし、かつては「天王新地料理組合」の前身の建物が存在していました。写真の場所がそうで、おそらく赤線時代の組合のままか、丸電灯だけが寂しげに家の前を見守っています。
全盛期は6~70件の店に100人近い娼婦が嬌声と嬌体を競った歓楽街、ここの賑わいも夜が更けると男と女の臭いがムンムンして盛んだったことでしょう。
もちろん、現在はここも空き家となり当時の面影は見る影もありません。
バス停名からも消え…

天王新地の前にはかつて、名前そのままのバス停が存在していました。「現役」をバス停名にしているのは、非常にレアなケースです。
すでに廃線になりましたが、飛田新地の前には南海平野線の「飛田」停留所がありました。設立時期と位置的から察するに新地への客を見込んだのでしょう。が、「飛田新地前」などとストレートに書くのは、さすがにはばかられたようです!?
天王新地バス停には、そんなためらいを全く感じさせません。
だが、見方を変えるとこれは吉事。天王新地が「穢(けがれ)」として忌み嫌われていたのではなく、現地コミュニティに溶け込んでいたあらわれだと、私は思います。そうでもないと、わざわざバス停名にはすまい。したらしたで猛烈な反対運動が起きるのは明白だから。
しかし、この「現地密着」にも終わりが訪れました。バス停が「地蔵の辻」に改名されたのです。新地の入り口があの有様なので、天王新地の終わりを和歌山バスに通告されたかのような措置でした。
あとがき
天王新地の現状を目の前にすると、黄昏などという美しい言葉では表現できません。
前述のとおり数店舗は営業しているものの、それは風前の灯火。
その灯が消え、歴史の固有名詞となるのはそう遠くないでしょう。その流れにいくら抗っても、かつての繁華はもう望めまい…。
ここがかつて嬌声で賑わっていたことを想像するだけで、寂しさ以上に虚しさを感じます。かといって往年の繁栄を想像するのは、死んだ児の歳を数えるようなもの。
これが私の率直な感想です。
私の見た新地の姿は、老いた蛍が絞り出している最期の光かもしれない。
「現役」には興味ないとは言え、その一つが灯を閉じる姿に後ろ髪をひかれつつ、ここで筆を置きます。この記事が天王新地最期の姿にならないことを祈りつつ。
天王新地の「誕生日」のソース

■東和歌山に花街-天王新地都檢番
阪和電鉄の開通をきっかけに和歌山市は東へ東へとその大動脈を延ばして日々に目ざましい発展をとげつゝあるが、●家作り丁の松林を背景に紀の川清流を臨む一帯、中の島村大字天王に今度天王新地都檢番と看板を立てゝ、和歌山では珍しい有料酌婦組合が生まれて五日から花々しく開業した。現在紅燈をかゝげたものは八軒、時節柄大衆むき料理もうんと安くして酌婦一時間の花代七十銭という規定で東番?廓に對抗しやうと鳴り物入りの大宣傳中である。
(●は文字が判別不能)
和歌山新報 昭和5(1930)年12月6日

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