その昔、日本の港町は風待ちで長期間待機する船も多く、その時間つぶしのための遊郭が多く存在していました。
境港は古くからある港町、ここに遊郭があっても全然おかしくない。むしろ、あって当然。ネットで検索しても完全ノーマークらしく、データは全くなし。しかし、今まで遊郭跡を探してきたカンと境港の地理的状況を考えると、境港には絶対あったはずという確信はありました。
そして、ふとWikipediaサーフィンをしていると、境港市のとこで気になる記述が。
桜町(現・栄町)の遊郭より出火「境町大火」全焼338戸
Wikipediaより
やっぱりあったんやん!
しかしながら、それ以上の情報はググってもなし(1)、Wikipediaの出典元の方が間違ってる可能性があるということもあり得ないこともない。これは現地で情報手に入れるか…私の足は自然と境港へ向かっていました。
が、情報も何も持ってない。ひとまずは現地の境港市立図書館で情報収集。
遊郭の情報おまへんか?
と大阪弁丸出しで聞いても、「はぁ?」という反応。まあそれは仕方ない。わざわざ大阪からこんなとこまで来て調べる物好きは、そうそういないと思われ。
そんな中、境港の歴史資料の書物の海の中を窒息しながら泳ぎ回っていると、断片的ながらいくつか記述が見つかりました。
境港の遊郭
境港の遊郭は、江戸時代には北前船、北海道南部から日本海側の港を伝って関門海峡を通り、大阪が終点の航路の中継地点。昔から人とモノと金が集まる所には遊所あり、境港もその例に漏れず、宝暦13年(1763)には遊郭の設置か許可されました2。つまり江戸時代から遊郭が存在していたと。
『鳥取県警察史』にも、明治初期に鳥取県が発布した「人身売買禁令」の文書を引用し、「当時海上交通の要地であった境港(と米子)港に限って、港の繁盛策として遊郭を認めていた」としています。
ただし、遊郭といっても1ヶ所に固まってたタイプではなく、町の至る所に散らばっていた散娼タイプでした。それを集めるべく、明治4年埋立地に「遊亀町」という遊廓を建設しました。「遊亀町」はその10年後、地名ごと廃止され現存していません3。
そこから「櫻町」という所に遊廓が移ったと推定されますが、大正8年の『境興町五拾年史』の掲載広告には、櫻町にあったという店の一覧がありました。
・和田屋店 ・美喜和亭
・青木屋店 ・日の出楼
・梅原店 ・快楽亭
・眞木店 ・月波楼
・高知楼 ・旭亭
・山海楼 ・島屋店
・名月楼 ・高木店
・高橋店 ・大正楼
(順不同)
大正8年には遊郭が櫻町に固まっていたことがわかります。
「~店」は、推定ですが一般の商店で妓楼ではない可能性もありますが、「~楼」とか「~亭」はおそらく当時の妓楼かと思われます。その疑いがある数は10軒。
また、国会図書館のデジタルアーカイブにある『境港要覧(大正6年)』にも、「遊廓は櫻町遊廓と称し 料亭18件」と至って簡潔ながら、そこに遊郭があったことが記されています。
これだけかいな?とツッコミ入れたいほどのあっけない記述ですが、これでわかることは、
で、懲りずにあれこれ図書館の蔵書を探してみると、地元の図書館にも資料を発見。なんや、思いっきり「灯台下暗し」やん(笑
『改修竣工記念 境港案内』という、昭和5年11月1日に発行されたガイドブックが、何故か境港とは何の縁もない地元の図書館にあるとは、これも何かの縁。
貸出はおろか、あまりにボロすぎてコピーさえ禁止の本に、遊郭のこと書いていたらラッキーと、あまり期待せず見てみると、「娯楽」として遊郭のことが載ってました。
「遊廓は榮町内にあり櫻町と云ふて町の中央にあり道路は至って狭いがその狭いのが特長だそうである。同町の戸数は約24~5軒あるがその中には商店のみのものもある。娼妓はいつにても平均70余名を下ることなし、多い内には一軒に6~7名少ない内は2~3名といふ様な平均になっている。芸妓はいずれの検番からでも呼込する様になっている。(以下略)」
『境港案内』より
『境港案内』より
境港遊郭の組合は「櫻町置屋同業組合」と言い、昭和5年当時の妓楼の数は15軒。当時の境港の遊廓の妓楼は以下のとおり。
・日の出楼
(『境港案内』昭和5年)
・いろは亭
・高知楼
・竹の家
・大正楼
・快楽亭
・たつみ
・大古戸
・さヽ屋
・旭亭
・眞木
・高橋
・梅原
・茶屋
・高木
これを見てわかることは、大正8年のデータとさほど変わっていないということ。大正8年の店が全部女郎屋と仮定したら、大正8年は18軒だったものの、昭和5年(1930)には15軒と、3軒減っていると計算できます。
娼妓の数は具体的に書いていませんが、「70名はくだらない」ということは、最低70人はいたと解釈できます。
『境港案内』掲載の当時の櫻町遊廓の写真です。整地され「大廈高楼」が並ぶ「新地」という感じではなく、江戸時代の岡場所がそのまま遊郭になったような泥臭い趣が、この写真から感じられます。記述の通り確かに道は狭そうですしね…。
『境港案内』の巻末の「櫻町置屋同業組合」(遊郭)の広告です。シンプルですが、ここに遊郭があった、れっきとした証拠です。
また、上記したように芸妓の検番もありました。
・末広検番(芸妓5名)
・港検番(9名)
・高村検番(5名)
・朝日野検番(3名)
と5つの検番+事務所があり、末広町に集中していました。
『境港案内』によると、事務所以外の検番はイコール置屋で、芸妓は遊郭だけではなく町に散在している料亭に芸妓を派遣する仕組みだったそうです。
境港に訪れた災禍
そのままのんびり過ごすかと思われた遊郭にも、終戦までに2回災難が訪れます。
まず一回目は、昭和10年に起こった境町大火。Wikipediaによると遊郭から出火したとされています。が、『境港市史』などの郷土資料を当たっても、栄町から出火したことは確実なものの、遊郭から出火とは書いていない。幸いこの大火で死者はほとんど出なかったそうですが、町中心部がほとんど焼失しました。
そして2回目は、昭和20年4月23日に起こった陸軍徴用船「玉栄丸」の爆発事故。
火薬か弾薬を陸揚げ中やった船が突然爆発、消火作業中に更に誘爆して合計3回の大爆発が起こり、115人が死亡した事故です。
この事故で、再び町の中心部の3分の1が吹き飛び、当時の写真や被災地図を見ると、海沿いの町は壊滅と言っていいくらいの状態でした。まるで空襲で焼け野原になったような感じ。その爆音は、100キロ先の鳥取市でも聞こえたと言います。
これについては、以前別にブログ記事にしたので、詳細はこちらをどうぞ。
公から消えた遊郭
境港に遊郭があったことは、上の資料からして明らかです。そこで疑問に浮かぶことがあります。なぜ『全国遊廓案内』などに掲載されていないのか?
これが長らく(?)境港が全国の遊廓探訪者からスルーされていた理由でもあります。
遊郭自体は江戸時代からあり、更に大正時代にも存在していたことは資料で確証済み。しかし、『日本遊廓一覧』や『全国遊廓案内』などには載っていない。
『賣春婦論考』(道家齋一郎著 昭和3年)には大正後期のことが載ってはいるものの、『鳥取県統計書』も明治37年までの記載はあるものの、38年から記載がなくなっています。明治37年か38年に、何かがあったことは確かなようです。
これを解くヒントは、『鳥取県史』に掲載の「娼妓の私娼化」が関わってきます。
境港の公娼→私娼化はいつというと、何と明治時代の明治38年(1905)。ちょうど日露戦争が終わった頃になります。
それも、境港は自分から「遊郭やめた」と私娼街への格下げ(?)を志願したわけですが、その理由は定かではありません。
「遊廓の資料」に境港のことが書かれていない理由は、明治時代には公娼の看板を下げ私娼窟化したことにあったのだと。「貸座敷組合」ではなく「置屋組合」なのも、その理由からだったのです。
が、実際ガイドブックに「遊廓」と堂々と書かれているということは、実態は遊廓と変わらなかったと。
米子編でもチラリと書きましたが、鳥取県は昭和13年(1935)の鳥取衆楽園の私娼化を最後に、公娼が存在しない「廃娼県」となりました。もちろん、実態は物理的に遊郭がなくなったわけではありません。その公娼→私娼化の年月は、
■倉吉:大正13(1924)年~大正15(1926)年
※倉吉は最初から私娼窟として設立
■米子:昭和9(1934)年
■鳥取衆楽園:昭和13(1938)年
戦後の境港
これで滅んだかと思った遊郭、しかし生命力が強いのかしぶとく生き残るもの。戦後も赤線として売防法施行まで残っていたことが、『鳥取県史』『鳥取県警察史』に記されています。
・業者数:8軒
『鳥取県警察史』より。昭和31年3月時点のデータ
・接客婦数:15人
戦前と比べてこじんまりとはしたものの、きっちり生き残っております。
『鳥取県警察史』には、米子と同じく青線があったという記述があります。
・業者数:19軒
『鳥取県警察史』より。昭和31年3月時点のデータ
・従業婦数:71名
なんと!数字的には赤線より規模が大きく繁盛しているではありませんか。残念ながら境港のどこにあったかまでの情報はありませんが、赤線より規模が大きな青線があった…それだけ当時の境港にはまだ人・モノ・金が集まっていた証拠でしょう。
コメント
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