遠野遊郭ー遠野物語の遊郭(岩手県遠野市)

岩手県遠野の遊郭 遊郭・赤線跡をゆく

岩手県の遠野。遠野と聞くと、柳田国男の『遠野物語』でお馴染みの民俗学・民話の故郷をイメージする人が多いかもしれません。また、「河童」や「ざしきわらし」などの妖怪をイメージする人もいると思います。

そんな場所にも、遊郭が存在していました。

遠野遊郭は、かつての裏町に形成された遊里です。
明治期には貸座敷免許地として整えられ、8~9軒ほどの貸座敷が存在しました。昭和に入ると急速に衰退しそのまま消滅。
現在、往時をしのばせる建物は残っていませんが、市史や統計資料、商業地図からその輪郭をたどることができます。

今回は、民俗学や民話好きにとっては聖地とも言える遠野の遊郭のお話。

遠野遊郭の要点

  • 場所:現在の仲町通り周辺(旧裏町)
  • 性格:貸座敷・置屋・料亭が集まる複合型遊里
  • 明治期:貸座敷免許地として整備
  • 規模:最大で8~9軒ほどの貸座敷
  • 昭和期:急速に衰退
  • 戦後:赤線としては確認できない
  • 現在:遺構はほぼ残っていない
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遠野遊郭の場所

遠野遊郭は、現在の仲町通り周辺、かつて「裏町」と呼ばれた一帯に形成されていました。

この地域は、城下町として発展した遠野の中心部に位置し、商業・交通の要衝でもあったことから、旅人や商人が集まりやすい場所でした。

そのため、貸座敷・置屋・料理屋などが集まり、いわゆる遊郭と花街の性格を併せ持つ遊里が成立したと考えられます。

遠野にあった遊郭の場所の地図。

遠野遊郭は、『遠野市史』や戦後すぐの商業地図(後述)などの資料を見た結果、市街地のこの時期にあったと推定できます。

江戸〜明治時代:遠野遊郭の誕生と発展

そもそも遠野は江戸時代、遠野南部藩15,000石の城下町として隆盛を極めていました。

元禄の頃にはすでに出合茶屋があったとされ、天保年間の頃には昼でも客引きしていたほどの遊女屋が存在していたと伝えられています。

遠野に来る人は、商人も旅人も必ずここで一休みし泊まりとなります。そうなると遊女屋で女のぬくもりを味わいながら一泊…となるのがオスの本能。
遠野の遊里が非常に繁盛したと1
江戸の南部藩時代には、盛岡・宮古、そして遠野が「三大遊郭」だったと伝えられています。

そして明治と時代が変わっても、遠野遊郭は繁盛を続けます。
明治初期にも大慈寺前などの門前に、茶屋という名目の遊女屋が8軒存在していたと市史には書かれています。明治10年(1877)には、岩手県が布告した貸座敷娼妓取締規則第二条により遠野は貸座敷免許地、近代法制下での遊郭として認められました。

ところが、明治11年(1878)の火事で裏町(現在の中央通り)が焼けてしまい、同18年(1885)に茶屋をここに集約。遠野の遊郭は事実上これにて始まりとされています。

上述したとおり、遠野遊郭の貸座敷は茶屋として営業しており、当時存在していた茶屋は以下の通り。

大橋楼、菊一楼、三海楼、寿楼、旭日楼、吾妻楼、福田楼、恵比寿楼

これに後年、紫明館が加わり9軒となりました。
この数字は、『岩手県統計書』の数字にもだいたい一致し、明治23年(1890)の遠野遊郭の貸座敷の数は8軒となっています。
それ以降はところどころ虫食いのようなデータなしが存在しているのでなんとも言えないですが、だいたい6~8軒で推移しています。

遊女の数も、『遠野市史』には『百人を超えた』と表記していますが、『岩手県統計書』の数字では2~30人を行ったり来たり。統計書の数字の方が正しいと思われます。

ところで、柳田国男が編纂した『遠野物語』の続編と言える本には、以下のことが書かれています。

遊ぶ人 綽名と屋号
二五二 青笹村の関口に、毎日毎日遠野の裏町に通って遊ぶ人があった。その遊女屋の名が三光楼であった故に、土地の者は此人をも三光楼と呼ぶやうになったが、しまひには其が家号になって、今でも其家をさう謂うて居る。

引用:『遠野物語拾遺』

遠野の遊郭について書かれた数少ない文章ですが、問題は三光楼という貸座敷は存在したことがないということ。
おそらく「三階楼」と呼ばれた恵比寿楼をもじって「三光楼」と呼んだのではないかと、拾遺の注釈には添えられています。

福田楼…明治の貸座敷に記載がある妓楼の一つです。
日本史ではなく台湾史の方に名を残す遠野出身の民俗学者、伊能嘉矩の資料にあった妓楼の広告です。

大正〜昭和初期:遠野遊郭の衰退

そんな遠野の遊里も、時代を経るにつれ徐々に衰退していることが、統計書の数字を追っていくとわかります。
数字としての遠野遊郭のピークは、19世紀から20世紀に時代が移行した明治30年代。貸座敷の数も7~8軒、娼妓数も40人以上を数えていました。

そして大正時代、貸座敷や娼妓の数は減るものの、売上や遊客数は大正前期、特に第一次世界大戦による「戦争バブル」の時期に遊郭は大きな光を放ちます。隣…とは言いがたいけれど、近くの花巻遊郭もこの時期がピークとなっています。
遊郭だけではなく、遠野自体がよほど光景に湧いたのだろうと、容易に予測できます。

しかし、そのバブルの夢がはじけ、一転戦後恐慌に陥ると、数字は坂道を転げ落ちるように下降線を辿ります。
関東大震災という不幸も続き日本経済が慢性的な不調に陥ると、遠野遊郭の売上はバブル時代の半分に落ち込みます。遊客数に至っては3~4分の1と、不況の津波を大いにかぶってしまったようです。

そして昭和へ。昭和は上記の慢性的な不況から始まり、さらに金融恐慌で泣きっ面に蜂のようなどん底の時代を迎えます。

その時の遠野遊郭のデータはどうか。

昭和5年:
■貸座敷数3軒
■娼妓数:9名
■遊客数:2,695人
■売上:5,369円

(出典:『岩手県統計書』及び内務省警保局内部資料より)

翌年も、数字はほとんど変わりません。
残念ながら昭和7~9年の統計書が存在しないので、この間の数字はわかりません。

その後、満洲事変による軍需景気や高橋是清による金融政策で、日本経済は息を吹き返します。
が、東北は大豊作による米価暴落や真逆の大凶作、地震による津波などで踏んだり蹴ったりでした。

昭和10年(1935)の遠野遊郭の数字は、

昭和10年:
■貸座敷:1軒 
■娼妓数:4名
■遊客数:537人
■売上:1,160円
(出典:『岩手県統計書』)

衰退著しい状態に。翌年からは娼妓数も1人だけとなり、遊郭は実質死亡と言っても過言ではありません。
そして、そのまま戦争へ。これ以後の数字としての記録は存在しません。

戦後の遊郭はどうなった?赤線化したのか?

戦後に遠野遊郭がどうなったのか。赤線となったのか。それを物語るものは何もありません。

売春防止法完全施行がカウントダウンに入った頃、地元新聞に7回にわたり赤線の特集コラムが組まれました。岩手県の赤線地帯のリストもあるのですが、そこに遠野の名はありません。
青線として生き残った可能性も考えられますが、少なくても赤線としては残らなかったことが、この新聞記事からわかります。

そんな中、昭和29年(1954)の遠野市街地の手書き商業地図を見せてもらい、遊郭があったとされる場所を目を皿にして見てみました。
貸座敷が立ち並んでいたとされる通りには、お菓子屋や醤油屋、そして劇場に電話局など、遊里跡とは思えないふつうの通りと化しています。屋号も「○△菓子店」とごくふつうです。

が、その中に決定的な名前を発見しました。

遠野紫明館遊郭

市史に記載されている「紫明館」の文字が!
もちろん、屋号そのままに転業済みの可能性もあるので、これだけで遠野に赤・青線があったという証拠にはなりません。

また、屋号からは何屋かさっぱり見当がつかぬ店も数軒捕捉。場所が場所だけになんか怪しい…。
残念ながらとどめとなる資料は見つからなかったのですが、これが見つかっただけでもラッキーとしておきましょう。

遠野遊郭跡を歩く

前述のとおり、遠野の遊郭跡は下記の場所にあると推定できます。

遠野にあった遊郭の場所の地図。

それをベースに、遊郭跡を歩いてみました。

現在の遠野遊郭跡

現在の遠野遊郭跡です。
現在は仲町通りと呼ばれているところですが、その西半分はかつては裏町という町名で、そこに貸座敷だけでなく、芸妓の置屋・料亭が集まっていました。
遠野遊郭は規模ゆえに、花街と融合した「複合型遊里」だったと推定できます。

他の遊里跡の例に漏れず、遠野も遊里があったという面影は何もありません。
往時をしのばせる建物もなく、観光地化された広い道だけが、ここの両端に妓楼が並んでたんだろうなと想像させるにすぎません。
『遠野物語』に記されたごくわずかな紙片を残し、遠野遊郭は現在も歴史の地層の中に埋もれて静かな眠りについています。

まとめー遠野物語の地にあった遊郭

遠野遊郭は、現在の仲町通り周辺、旧裏町に形成された小規模な遊里でした。

明治期には貸座敷免許地として整えられ、8~9軒の貸座敷が存在した時期もあります。昭和に入ると不況と東北の困窮のなかで急速に衰退し、戦後は赤線として確認できません。

現地には往時の面影はほぼ残りませんが、市史・統計書・商業地図を丹念に見ることで、遠野にもたしかに遊里が存在したことが見えてきます。

岩手県の遊郭の記事は、以下をどうぞ!

👉盛岡八幡宮の門前遊郭、八幡町遊郭跡(歴史編)
👉盛岡八幡宮の門前遊郭、八幡町遊郭跡(現地探索編)
👉宮沢賢治も見ていた色街、花巻の遊郭跡

👉東北地方の各遊郭のまとめ記事は、こちらをどうぞ!


 

・『遠野市史 第三巻』P547
・『遠野物語拾遺』 二五二 柳田国男著
・『遠野物語研究 第六号』
  1. 『続・新遠野物語』p116より ↩︎
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コメント

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