鳩の街赤線街(東京都墨田区)|おいらんだ国酔夢譚|

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かつて鳩の街に残っていたカフェー建築たち

上述のとおり、私は2009年に一度、鳩の街を訪れています。その時はまだカフェー建築がまばらで残っていました。現在の姿になったのを見ると写真に撮っておいてよかったと感じます。
下記は、眼福にその時に残っていた建物たちを。

鳩の街の赤線カフェー建築
かつて鳩の街にあったカフェー建築(2009年撮影。現存せず)
鳩の街の赤線カフェー建築
かつて鳩の街にあったカフェー建築(2009年撮影。現存せず)

この独特の建て方に柱にタイル、まさに「カフェー建築」のお手本。『赤線跡を歩く』にも同じ建物の写真がありますが、本にはあった独特の斜め格子は、私の訪問時にはなくなっていました。
しかし、赤線時代の建物の雰囲気が色濃く残っていた建物でした。これが現存しないとは、もったいない、実にもったいない。

鳩の街赤線にあったカフェー建築
かつて鳩の街にあったカフェー建築(2009年撮影。現存せず)

かつては、こんなものも残っていました。「ケバい」というしか言い様がないタイルの色の使い方も、「カフェー建築」の特徴の一つです。
私が見た当時も建物自体はボロボロで、これは風前の灯火だろうなと感じたのですが、ちょっと手入れしたら綺麗にもなりそうな建物だったたけに残念です。
ところが、2011年の雑誌1によると、この建物、2009年に火事で焼け、すぐに解体されたのだとか。私が訪問したのも同年(の夏)、ギリギリセーフというか、あと数ヶ月遅かったらこの建物を見ることはなかったのです。

鳩の街の赤線カフェー建築
かつて鳩の街にあったカフェー建築(2009年撮影。現存せず)

赤線独特ではないけれども、赤線華やかな当時に流行したという、斜めについた二重の取っ手のドア。
『赤線跡を歩く』の写真はドアが開いていたので、当時は人が住んどったんやろなと思うものの、私の訪問時は人が住んでる気配はなく、じきにこの建物も立て替えられる運命にあるのだろうと。

しかし、他の方の写真を見比べていると…

「香ばしい町並みブログ 〜昭和レトロな町並み〜」様より

ドア周りに円柱もあったとは!
さすがは駆け出しの頃、写真の撮り方一つ見ても角度も本体の視野も最初のカフェー建築のタイルのように青すぎて、13年前の青二才ぶりがよくわかります。

東京鳩の街赤線跡のカフェー建築
かつて鳩の街にあったカフェー建築(2009年撮影。現存せず)

こちらは逆に、最近(2020年)まで残っていたカフェー建築。2020年、関西から東北へ居を移す際に東京へ寄り、時計とにらめっこしながらここと玉の井を急ぎ足で見たのですが、その時は残っていました。
写真には残っているので、目の前で見て撮影したことは確かなのですが、なぜかこれを見た記憶が全くない…いつもなら、

筆者
筆者

っしゃー!残ってたぜ!

とガッツポーズくらいしているはずなのに…。あのときは真夏だったので暑さで少し頭がやられてたに違いない、うん、そういうことにしておこう。

そんなこのカフェー建築も、今年(2022年)に訪問時にはすでに跡形もありませんでした。いちばんカフェー建築の面影を残していた建物だけあって、なおさら残念です。しかし、写真に遺しておいただけでもOKとしておきましょう。形あるものはいつか消える運命なのだから。

かつて鳩の街にあったカフェー建築(2009年撮影。現存せず)

赤線時代の建物は、何もケバケバとしたタイル張りのものだけではありません。何気ない、どこにでもあるような建物にも、さりげなくその痕跡が見えたりします。
建物の庇の独特の曲線も十分「臭う」のですが、

2階にあったこういう「遊び心」も東京の赤線なりの粋なのか。

半藤一利は赤線を振り返り、「人情があった」と表現しています。赤線に行くには何ら恥ずかしいことはなし、昔は新入社員歓迎会などの二次会は、女はさっさと帰して男だけでピンクのネオンの渦へ…なんてのは半ば常識。今はコッソリ行かないといけない分、今の方がかわいそうだねと、当時を知る人は口を揃えて言います。

赤線は、金はかかるけど「お泊り」もOK。女性も部屋に住み込みなので、「仕事部屋」はその女性の個性が溢れて派手に飾っているところもあれば、地味な生活の跡が垣間見れる部屋もあって、女性の素顔が覗けるとこでもありました。日本人形が飾ってあったり、イケメン俳優の写真が壁に貼られていたり。経験者は言います、赤線はヤるというより、「なんちゃって彼女」の下宿へ遊びに行く気分だったと。
すごーく俗な書き方をしたら、今の風俗は「入って出して、はい終わり」で、機械的かつ事務的になって味気もクソもなく、そこには心が通ってない。欲の処理も「コンビニ化」してしまった…ということか?
その点、赤線は女性と男性の間に「血と心」が通っていた、あたたかい場所だったのかもしれません。当たり前ながら、私は当時の空気を経験したことがないので、それ以上のことは言えません。でも、諸先輩方が「今の風俗と赤線は全くの別物」と豪語している以上、現在でも制度としてあれば、「お泊り」を一回くらいは体験してみたいなーと思ったりもします。いや、もし現在でも「お泊まり」があれば、週2〜3回は赤線から出勤しているだろうな〜と(笑

嗚呼、OFF LIMITS…

全国のおいらんだ国探検家の探検心をそそり、かつ2009年探索時に見逃していた「大物」が、かつて鳩の街には存在していました。

「東京まちの記憶 昭和レトロ研究会」様ブログ 「鳩の街」を歩く③ 衝撃の「OFF LIMITS」 2013年 より

何の変哲もなさそうですが、赤矢印に部分に書かれた文字に注目。

「東京まちの記憶 昭和レトロ研究会」様ブログ 「鳩の街」を歩く③ 衝撃の「OFF LIMITS」 2013年 より

”OFF LIMITS”…これは一体なに!?
”OFF LIMITS”とは「立入禁止」という意味(逆にon limitsは「立ち入り自由」)ですが、いったい何が、誰が立入禁止なのか。

ここが特飲街(赤線)と認められる前、RAAという進駐軍のための慰安所、要は進駐軍専用遊郭だった時期がありました。
アメリカ軍兵士も性欲処理をしないと、町中の大和撫子を襲ってしまう危険性がある。実際、ヨーロッパ戦線では動く女は皆襲われたという酷い有様。敵のドイツ人だけでなく、「味方」のフランスや中立のベルギー人まで襲われたのだからひどいものです。
そんな現状もあり、日本女性襲われ放題を防ぐべく、旧遊郭など既存の売春街を使って「性の防波堤」を作ろうという作戦でした。これ、政府がまじめに考え、新聞に求人広告も出した立派な国策でした。
旧洲崎遊郭を探索中、上皇陛下と同い年のご老体に話しかけられたのですが、遊郭・赤線時代のこと覚えてます?と聞いたら、遊郭のことは覚えてねーとしながらも、RAA時代の洲崎のことは覚えていました。

昼も夜も道路のアメさんのジープがここ(洲崎の大通り)にずらりと並んでね〜

などと笑って話してくれました。
鳩の街も、おそらくGIがジープで乗り付け、押せや押せやの大盛況だったことでしょう。
その一端を示すものがあります。それが便所の水洗化。鳩の街の特飲店は早々に水洗便所となっていたのに対し、RAAの指定を受けなかった(という記録がない)隣の玉の井は水洗なんて夢のまた夢。玉の井界隈の水洗化が始まったのは昭和40年代に入ってからといいます。
おそらく、早々にRAAに指定された鳩の街は、GI御用達として水洗化が優先されたのでしょう。

そんなRAAも、早々に頓挫することとなりました。利用者の兵士の間に性病が流行ったのです。性病では死なないものの、RPGの「どく」か「まひ」のような戦闘困難or不能になってしまい、兵士として役に立たなくなります。

GHQ
GHQ

お前ら、遊びすぎじゃ!

昭和21年(1946)3月26日、「進駐軍ノ淫売窟立入禁止ニ関スル件」が発せられ、RAAは廃止。兵士の立入を禁じられました。
この法令を俗に「オフ・リミッツ令」といい、その残滓が実は”OFF LIMITS”。日本語ではなく英語で「立入禁止」と書かれたその意味、おわかりでしょうか。

昭和24年(1949)の鳩の街の写真にも、「OFF LIMITS」の文字が確認できます。

この”OFF LIMITS”、2009年に探索時にはけっこう探したのですが、結局見つからないまま涙を呑みました。

「東京まちの記憶 昭和レトロ研究会」様ブログ 「鳩の街」を歩く③ 衝撃の「OFF LIMITS」 2013年 より

”OFF LIMITS”の文字はこの建物の壁にあったのですが、

筆者
筆者

あれ?この建物のドア、見た記憶があるぞ…

マイPCのありんす郷データベースを改めて見てみると、驚きの発見が!

鳩の街赤線カフェー建築とoff limits
2009年撮影(現存せず)

なんや、やっぱし写してるやん!しかも、デジカメ構えた13年前の自分がガラス越しに写ってるし。若いな~、腹出てないし(笑
あざやかに移る自分の格好を見ると、探索が真夏というのがわかるでしょう。私も覚えています、タオルを握りしめながら吹き出る汗を拭い、次の探検地の玉の井でぶっ倒れたので(笑

鳩の街カフェー建築にあったoff limits
鳩の街カフェー建築(2009年撮影。現存せず)

もう一枚、自分が現地で写した写真を。”OFF LIMITS”の建物写してるやん!
灯台もと暗しとはまさにこのこと。鳩の街、いや遊郭赤線界最大級のお宝を目の前にして見逃しているという、13年後に知る大チョンボ。オイランダ国探偵人生最大の失態でありんす…。
しかし、他の方の写真に比べて、私の時は”OFF LIMITS”が書かれたぶ部分が草ぼうぼう。そうだ、草で見えなかったんだ…うん、そういうことにしておこう。「合理化」してマグマのように噴き出る悔しさを紛らわせようと思います。

おまけ

鳩の街赤線

かつて派手な色で飾られた赤線小路の突き当たりに、ふと視界に入るものがありました。

東京の吉川英治旧居跡

作家の吉川英治の旧居跡の看板でした。

鳩の街界隈には幸田露伴や榎本武揚など、歴史に名を残す著名人が住んでいたことがあるようで、吉川もその一人でした。かなり古くから住宅街が成立し、花街もあったので向島界隈は住みやすかったのでしょうね。

鳩の街に住んでいた吉川英治の居住地と向陽荘

この看板があるところには、昭和初期には「向陽荘」というアパートがありました。空襲も焼けなかったせいか、戦後の赤線時代、そして売防法施行で赤い灯が消えた後も、地図にその痕跡を残しています。地元の方によると、その跡はそのまま保育園の敷地になっているというから、当時としてはかなり大きなアパートだったのでしょう。
説明文によると、吉川英治がここに移り住んだ時代は、「鳩の街」どころか商店街すらなかった時代、もちろん赤線とは何の関係もありません。しかし、歴史小説の帝王とも言えるこの人物を無視するわけにはいかない。
文学者や小説家の「聖地巡礼」をしている人もいると思いますが、「聖地」探検のついでに「性地」探検、もしくはその逆もいかがでしょうか。

東京の他の赤線の記事はこちら!

・『墨田区史』
・『すみだ史談』
・『消えた赤線跡を歩く』
・『原色の街』
・『春情 鳩の街』
・『私の昭和史』安岡章太郎著
・『昭和色街美人帖 私の赤線時代』広岡敬一著
・『東京特飲街めぐり』
・『全国女性街ガイド』渡辺寛著
・『赤線涼談』同上
・『赤線の灯は消えても 大衆紙が伝えた売春防止法と東京の特飲街』
・『写真集 昭和の肖像〈町〉』小沢昭一著
・『赤線恋しや(『昭和史は面白い』内蔵)』半藤一利他
・『火災保険特殊地図(戦前)』
・『東京都全住宅案内図帳 墨田区 昭和36年』
・『戦後日本の売春問題』神崎清 昭和29年
・ブログ『deepland』ー【鳩の街・赤線】社会現象にまでなったアプレ派・鳩の街のカフェー建築巡り! -鳩の街⑶
・ブログ『レトロな風景を訪ねて』ー商店街裏の赤線跡「鳩の街」
・ブログ『香ばしいブログ』ーザ・鳩の街 SINCE1948
・ブログ『The ギロウズ 色街ファイナルツアー』ーギロウズ色街ツアー 鳩の街編
・ブログ『東京まちの記憶 昭和レトロ研究会』ー鳩の街」を歩く③ 衝撃の「OFF LIMITS」 2013年

  1. 『荷風!』27号(2011年3月)『鳩の街再訪』木村聡
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