八王子田町遊郭(東京都八王子市)|おいらんだ国酔夢譚|

八王子田町遊郭東京・関東地方の遊郭赤線跡
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八王子田町遊郭の跡をゆく

八王子田町遊郭

現在の田町は、会社のビルや倉庫・住宅が立ち並ぶ静かな町となっています。ここが遊郭だった時代には、この道の両側に貸座敷が並び、中央線には桜が植えられていました。新吉原遊廓の話でも述べたように、遊郭の大通りの真ん中に桜の木(など)を植えるのは、吉原の真似から全国へ広まった慣習のようなものになっていました。

八王子遊郭の航空写真

ちょいと珍しい戦前の航空写真(昭和19年)の航空写真を見てみると、広い通りの両側に建物(妓楼)が並んでいるのがわかると思います。現在は倉庫や商店になっているところにも、四角の形の妓楼が並び、戦争で焼けなかったこの遊郭の、明治からの姿がよくわかります。
なお、通りの中央線にあったとされる桜並木は、写真を見るとなくなっているようです。

八王子田町遊郭

今から12年前、2010年に訪問した時の大門通りはこうなっております。基本的な風景は、10年が経ってもほとんど変わっていません。

八王子遊郭の大門

遊郭時代には、写真のとおり大門が入口に鎮座していました。吉原大門の話でも述べましたが、大門は「ここから別世界ですよ」というシンボルで、一部の例外を除き基本的に扉はありません。
『全国女性街ガイド』によると、この大門は明治32年10月建立と刻まれており、遊郭がここに移転された時に建てられたことがわかります。

八王子田町遊郭

『赤線跡を歩く』によると、上の建物は「蓬莱」という屋号の妓楼の建物とのこと。しかし、私が持っている大正時代の地図によると、ここは「弥生楼」。「蓬莱」という屋号の建物は地図のどこにも見当たりませぬ。
どっちが合ってるかはさておき、たぶん建物自体は変わってないと思うし、屋号が後になって変わった可能性は十分ある。真偽はもう、あの世の世界で聞くしかありません(笑
今回は、『赤線跡を歩く』に敬意を表して、この建物は「蓬莱」で統一します。

八王子田町遊郭

2階部分の丸い電灯が、いかにも妓楼という感じですね。もう少し大きく、そこに屋号が書いてあったらもう「そのまま」やんと。建物自体は築何年か不明でかなり老朽化しているのは否めませんが、やはり何かしら「オーラ」を出しています。

八王子遊郭の写真
航空写真で確認してみると、現在の姿ほぼそのままの形で存在していることがわかります。少なくても戦前からの生き残りですな。

ちなみにこの建物、まだ「現役」でアパートになっています。洗濯物も干してあったので、まだ住人がいるようです。

八王子遊郭の写真

その横にある、現在は酒&業務スーパーになっているこちらの区画にも、かつては貸座敷が建てられていました。赤線廃止後の地図には「旅館 福萬(万)」と書かれているので、旅館に転業したのでしょう。
もちろん、元々旅人が来ないようなド郊外の新地に旅館を作っても、泊まりに来る客はたかが知れています。なので、立ちゆかなくなって下宿屋(アパート)に再転業したり、土地や建物を売ってこの地を離れたのでしょう。昭和40年代の地図でも、空き地・空き家だったろう空きスペースが歯抜けのように存在しているので。

八王子遊郭の妓楼

そして田町に残るもう一つのビッグな妓楼がこれ。
堂々とした玄関もさることながら、こちらも奥行きが深く、かなり大きめの建物です。

八王子遊郭の元遊郭

こちらも、戦後すぐの航空写真にその姿を確認できるので、遊郭時代の建物の生き残りで間違いありません。しかし、一軒一軒がデカい。

2010年訪問時は、右側の駐車場に車も止めてあって、明らかに誰かが住んでいる形跡があったのですが、11年ぶりに訪ねてみるとまるで抜け殻。家が手入れされていない感が視覚ではっきりとわかり、荒れるに任せたその姿に時代の経過を感じざるを得ません。

田町遊郭跡にはもう一つ、気になる建物があります。

八王子田町遊郭の八百福

この建物は割烹だったようで、前回訪問した2010年にも存在していました。が、写真左側の玄関横にあった屋号の看板がなくなっているので、おそらく閉店してしまったものと思われます。

八王子田町遊郭の八百福

「八百福」という屋号が書かれた街灯(?)が、わずかに残されていました。
昭和40年代前半の住宅地図によると、「八百福」の位置には旅館があったようです。しかも、屋号はそのまま「八百福」…12年前の探訪では、建物の存在は確認しつつもスルーしていたこの建物も、元妓楼の可能性が高い。

いまいちど、昔の航空写真を確認してみましょう。

八王子遊郭の航空写真

「八百福」の建物の場所に同じような建物を確認できます。現存の建物がイコールこれかは断言しかねますが、少なくても赤線廃止後は旅館だったことは確かなので、おそらく間違いないと思います。ただし、建物は建て直されている、あるいはリフォームされている可能性は高いと。

現存しない元貸座敷の建物

八王子田町遊郭

2010年当時、八王子にはこんな建物も残っていました。過去形ということは現在は残ってません。

八王子遊郭

玄関には「旅館 松屋」と書かれていましたが、私が訪れた当時もすでに蔦に囲まれ、人が住んでいる気配もなく廃墟と化していました。しかし、役目を終え抜け殻になっても、建物から醸し出すオーラはハンパではなく、理屈抜きでこれは貸座敷の生き残りだなと感じました。

八王子遊郭

玄関横は、ちょっぴり洋風だったのが印象に残っています。
以前貝塚の「深川」で高級料理を食べた時に中を見物させてもろた時も、純和風の建物の玄関横に洋風の「待合室」があったのですが、これも恐らくは待合室だったのかなと、想像を旺盛にさせます。

八王子遊郭を語る本

『八王子遊廓の変遷』という、ここの詳細が書かれた本があります。
遊廓の前で食堂を経営していた女将さんが見た、明治→大正→昭和、戦前→戦後、遊廓→RAA→赤線と変化していく歴史をずっと見続けていた人だからこそ語れる、遊廊の素顔を記述した貴重な資料でもあります。

田町遊廊には大門があったことはすでに書きましたが、昔は遊廊の周りに幅4尺(≒120cm)の溝というか堀があり、吉原などと同じように溝に囲まれた遊郭だったことが、この本の記述からわかります。
この本には、「(溝は)まだ残ってる所もある」と書かれていましたが、私が周囲を確認した限りでは、全く確認できずでした。幅が1mもあったら、目視以前に今ならGoogle mapですぐわかるはずですしね。

廓の話となると、悲しい話ばかりがクローズアップされますが、悲しいことばかりでもありません。無事ここから抜け出し、幸せな結婚をした人もたくさんいたといいます。この話で興味深かったのが、

商売女と結婚するなら芸者はいけない。女房にするなら遊女が良い、と昔はよく言ってたものよ

という下り。語り部の女将さんいわく、

「遊郭の遊女は日ごろ質素で節約もしているので貧乏にも耐えられる。
それに遊女だって恋をする。好きな男のために自分が働いて(男に遊廊に来る)お金を立て替えたり、他の客に金を落としてもらったり、深い情がある。芸者は金があるうちはチヤホヤするけど、金がなくなったらはいさようなら、縁が切れてしまうことが多くて情がない、と昔からよく言われているのよ」

引用:「八王子遊廓の変遷」

偶然なのか、札幌の白石遊郭の近くで働いていた質屋の主人が、場所柄遊女と芸者を見てきた感想として、女将さんとほぼ同じことを言っていたのは興味深いことでした1
芸者は「芸」を武器にし、遊女は「体」を武器にする。「芸」より「体」の方が情が生まれやすいのもあるかもしれませんが、貧乏人は芸者遊びできないので、客は金持ちとか身分が高い人、そして軍人が中心。
芸者はキャバクラ嬢、遊女はフーゾク嬢に例えると、

キャバ嬢と風俗嬢、どちらと結婚する?

って言われると…うーむ、「今までの経験」から考えたら後者…かな?
まあ、女将さんの言葉を私流に解釈すると、普通に付き合うなら芸者、結婚するなら遊女かな!?

女将さんのこの話、妙に説得力があって、「うーん」とうなってしまいます。私も人生経験上、いろんな人間を見てきましたが、女将さんの言うことはまんざらでもない。

他にも色々裏話に近いことを書いているのですが、他のことは実際に本を読んでね。

世界屈指のメガロポリス東京の西の片隅に、遊郭時代の建物が残っている奇跡。東京は空襲でことごとく焼け野原にされ、遊郭時代の建物はほぼ残っていないだけに、八王子のレアさが余計に引き立ったところで、今回の話はこれまで。また次の遊郭のお話まで。

東京の遊郭・赤線跡はこちらもどう

  1. 『ものいわぬ娼妓たち』p104
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コメント

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