現在の「柳町」を歩く
現在、「柳町」という名は現存しません。そもそも「柳町」は俗称のようで、「柳町遊郭」があった所は馬場町と呼ばれ、現在は朝日町と名を改めています。
堀川沿いの道が、かつての「柳町遊郭」のメインロードであったと言われています。川側には「柳町」の名の由来となった柳の木が植えられており、それが風流さを醸し出していたそうですが、現在はそれも伐られ往年の「遊郭」の面影は何もありません。
当然、ここの左側には「置屋」がずらりと並んでいました。赤線廃止後間もない住宅地図でも「料亭」の名が並んでおり、おそらく元「置屋」だったと思われます。
右端にある豆タイルは、当時の残滓なのだろうか、元「置屋」だったところ。
一畑電鉄の「柳町踏切」。この踏切名が唯一、ここがかつて柳町と呼ばれていたことを示す名称となっています。
踏切の向こうには、「武志家旅館」があります。ここには戦前、「カフェー黒猫」というカフェーがあったそうです。それにしても当時の流行だったのか、カフェーの名前には「黒猫」がすごく多い。
「柳町遊郭」のメインロード、武志家との対極にある、現在は美容室(いや、理髪店か?)になっているところには、「カフェー曙」があったそうです。
「柳町遊郭」メインロードから西へ伸びる道にも、左右に「置屋」が並んでいたようです。もちろん、現在は静かな住宅街となっています。
が、赤線現役当時からあったと思われる「やっこ(奴)食堂」が、唯一の目印となりました。ここがなかったら、たぶん「柳町遊郭」の場所は特定できなかったかもしれません。それほど、昔の隆盛ぶりは微塵も残っていません。
現在空き家になっているここは、地図によると「三ヶ月旅館」となっていました。おそらく元「置屋」だと思われます。
戦前、大社への参拝客を愉しませた劇場「行楽館」の跡です。現在は公民館と駐車場となっています。ここは売防法による赤線の廃止と共に廃れ、いつの間にかなくなっていたそうですが、赤線廃止後にはまだ「行楽館」の文字が地図上にくっきり残っていました。
さすがに昔の「柳町遊郭」の遺構は残ってないか…
そんな時に、奇跡(?)は起こりました。
こちらの家、「亀山荘旅館」だった建物ですが、意識していないと見落とすくらいの細い裏道が横に伸びていました。昭和36年の地図にも載っていましたが、現在はそれがあまり確認できないほど、自然に還ってしまっている感があります。はて、ここ道だったよね!?と。
裏道に入ると、やはりかつての「置屋」の片鱗を見せる雰囲気が…ここまで来て奥には何があるのか…と久しぶりにワクワクした気分になりました。
やはり「柳町遊郭」栄えし頃の面影を残すものが、道の奥の奥、最後の最後に残されておりました。
これだけを見ても、「亀山荘旅館」の規模の大きさをうかがうことができます。
大社の「柳町遊郭」は、遊里史探訪者の数多けれど、穴場だったせいかネット上ではほとんど見向きもされてきませんでした。が、今回私が資料をほじくり返してここまで書いたのですが、先人の足跡がほとんどない遊里跡を巡る気分は、正直な気持ちを書かせてもらうと爽快です。
遊里史なんてほじくって何になるの!?と思われるかもしれませんが、人間の探究心が絶えない限り、こうして知らない知のピースを埋めていくのは、人間に備わった快感なのです。
『大社の史話』第29、50号
『ゼンリン住宅詳細図 1961年度版』
他複数
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