下関稲荷町・裏町遊郭(山口県下関市)|おいらんだ国酔夢譚|

下関稲荷町遊郭中国・四国・九州の遊郭・赤線跡

下関と言えば、今から千年前に源氏と平氏が戦った「源平の戦い」のハイライト、「壇ノ浦の戦い」の地でもあります。
学校で習った通り、この戦いで一時の栄華を誇った平氏は正式に滅び、源氏の天下が確定したんやけど、平氏が連れてきた数多くの女官が戦いの後で残りました。
男が海の藻屑と化して残された女官たちは、貴族的生活をしていたために技能なんてものはなく、生きる糧のために「春を売る」こととなりました。下関は、そんな女たちの起源の地とも伝えられ、ここが「遊女発祥の地」と言う人もいます。

今回の稲荷・裏町遊郭は、そんな遊女たちをルーツに持つとされる遊里でした。

近代以降の遊郭の遊女は、公の娼婦ということで公式には「公娼」「娼妓」と言われていました。が、世間一般には女郎(じょろう)でした。
平安時代、高級の女官のことを上臈(じょうろう)と呼ばれていました。壇ノ浦で庇護者を失って浮浪者同然になった平家の高級女官らは、こっそり平氏の菩提を弔うために、最初は人のツテを頼ったものの、最後は生きていくために春を売るしか手段が残っていませんでした。そんな彼女らを、「上臈」と呼んだという伝説があります。
『売笑婦論考』(道家斎一郎 著)にもその言われが書かれており、漁夫相手に春を売っていた「上臈」たちは、それが習慣になって地元で「上臈=売春婦」と呼ばれ、それがいつしか訛って「じょろう」と言われ、当て字で「女郎」になったという説があります。
また、吉原や関西では大夫(だゆう)と呼ばれていた遊女の最上位を、戦前の下関や小倉の遊郭では「上臈」と呼んでいたとそうで、嘘か真かはさておき、平家伝説が本当に戦前まで残っていたと言えます。

江戸時代、稲荷遊郭は吉原とか京都の島原、大阪の新町に並んで遊郭の免許地になり、元禄時代(1700頃)に書かれたという『傾城色三味線(けいせいいろじゃみせん)』という浮世草紙には、稲荷遊郭は前頭12枚目に位置しています。

諸国遊所競

また、1840年代に作られたとされる全国の遊郭の番付表「諸国遊所競」では、稲荷町遊郭は東前頭5枚目にランクイン。この時の大関(当時の最高位)は東は京の島原、西は大坂の新町、西の前頭5枚目は四谷新宿でした。

あれ?吉原は?

と思った方もいるでしょうが、吉原は「行司」になっています(笑

井原西鶴の『好色一代男』にも稲荷遊郭のことが書かれており、実際にここにも立ち寄った記録も残っています。平家伝説が由来とされる稲荷遊廓は、遊女の方が客の上座に座り、白足袋も許された格式高い遊里。「高級」どころか、その前に「超」がついてもおかしくないような感じでした。

そんな格式の高さを売り物にした稲荷遊郭も、近代に入ると方向転換を余儀なくされます。あまりにお高く止まりすぎたか、客足は明治後期になってから鈍り始め、より大衆的というか「お手軽」な豊前田や新地遊郭に客の足が移ってしまったようです。
さらに運の悪いことに、下関駅の開業などで人の流れが180度変わってしまったせいか、特に新地遊郭の急激な発展ぶりとは裏腹に、稲荷・裏町遊郭聯合(?)は娼妓中心から芸妓中心へと方向転換したようです。
端的に言えば、稲荷町や裏町は「祇園化」していったとも言えます。

明治16年(1883)の『山口県統計書』によると、

稲荷遊郭:貸座敷数13軒 娼妓数48人 芸妓数32人
裏町遊郭:貸座敷数13軒 娼妓数11人 芸妓数4人

引用:『山口県統計書』明治16年

引用:『山口県統計書』明治16年

と、どっちも娼妓優位の数に。

明治30年(1897)になると、

稲荷町:貸座敷数10軒 娼妓数48人 芸妓数75人
裏町:貸座敷数11軒 娼妓数27人 芸妓数48人

引用:『赤間関市統計書』

引用:『赤間関市統計書』

娼妓と芸妓の数がここで逆転しています。明治30年以降は芸妓優位のまま推移しています。

統計書の数字を、金にもならないのに(笑)せっせとでExcellで編集していると、おや?と思うことがありました。明治45年(=大正元年。1912年)から大正2年にかけての、稲荷町&裏町遊郭の客数の激減ぶりでした。

☆明治45年(=大正元年)の客数
稲荷町:9,737人 裏町:8,312人
☆大正2年の客数
稲荷町:3,807人(前年比-5,930)  裏町:4,258人(前年比-4,054
☆大正3年の客数
稲荷町:3,047人(前年比-760)  裏町:3,111人(前年比-1,147

引用:『山口県統計書』

引用:『山口県統計書』

客足が2年間で約3分の1、この数年間はかなり閑古鳥ものだったことでしょう!?

さて、この数字の減りっぷりをどう説明すれば良いのかと頭を抱えているのですが、明治45年→大正3年の2年間は、下関の他の遊郭の客足も減少、しかし新地遊郭だけが激増、新地遊郭の一人勝ちみたいな状態です。
この2年間に減った客足は、他の遊郭は大正3年(1914)→4年の増減を見たると、元に戻っています。が、稲荷町と裏町遊郭の客足は明治時代の数字に戻らず、そのままズルズルと3000人台に留まっています。
視野を広げて世界情勢を見てみると、大正3年に第一次世界大戦がヨーロッパで勃発、日本が戦争景気になり、翌年後半くらいから「大正バブル」でにわかブルジョアが大量発生。「成金」という言葉が生まれたのもこの時期です。
「大正バブル」に足を突っ込みつつある時に客足が伸びない…何が原因かわかりませんが、何か必ず原因があるはずです。

『関の廓盛衰史』には、20世紀が始まったばかりの明治34年(1901)~明治38年(1905)の客数の増減が記載されていました。
それによると…

      稲荷町         裏町
明治34   17,375     17,315
明治35   19,532     18,561
明治36   6,610      5,550
明治37   8,632      7,762
明治38   7,632      7,989

明治35年を境に、客足がどちらも3分の1に落ち込んでいることが、目に見えてわかります。明治37年にはいったん回復するものの、それでも往年の数には及びもしません。
上に書いた『山口県統計書』の明治45年のデータと照合すると、稲荷町・裏町遊郭の客足の激減ぶりは明治35~36年に始まったと言えます。

その原因は、明治34年に開業した下関駅と関係があるかもしれません。
下関駅が開業することによって山陽鉄道(今の山陽本線)が全線開業。レールが東京から下関が一本でつながったわけで、鉄道の利用者がかなり増えたと思われます。それによって客の流れがガラリと変わった…そう推定できないこともない。
同じ統計資料で新地遊郭・豊前田遊郭の客数を見てみましょう。

       新地     豊前田
明治34    13,338      18,124
明治35    13,564      19,002
明治36    41,268      41,659
明治37    43,519      41,484
明治38    36,740      38,393

出典:『関の廓 盛衰史』

と、稲荷町・裏町に反比例するかのように客足が激増しています。
これは何故か?下関駅の開業で人の流れが変わり、駅近の両遊郭に客が移ったのではないか!?と推測してはみたものの、それにしては同じ資料でより駅に近いはずの竹崎・今浦両遊郭の客数がほとんど伸びておらず。これはちょいと宿題やな。

それでも、稲荷町・裏町の格式の高さ、プライドの高さは相変わらずだったようでした。当時の新聞記事にはそのプライドの高さを残す記事が書かれていたので、意訳してここに書いておきます。

大阪の芸妓300人が特別列車をチャーターし、別府温泉へ旅行に行くことになりました。
それを聞いた稲荷町・裏町の芸妓・娼妓全員が下関駅に大集合、大阪の芸妓をお出迎えすることになりました。
当時の新聞記事はこう記されています。

「因に下関芸妓はこの美人団に()して、きらに飾れるさま一段光彩を放ち、
いささか大阪芸妓より見栄えしは下関芸妓以て鼻を高うしたり」

引用:明治44年10月3日 馬関毎日新聞より

引用:明治44年10月3日 馬関毎日新聞より

これを書いた新聞記者は、大阪芸妓に見栄を張る下関芸妓のプライドの高さに半分呆れた調子で書いており、「そこまでせんでええやん」的なことを書いておりました。

そして、更に気になることが。稲荷町遊廓は「歴史に残る女郎発祥の地」という、遊郭としては由緒正しい超老舗だというのに、かの『全国遊廓案内』には未掲載ということ。
現存しない遊郭という制度や場所を調べるのに、この書物は貴重な資料です。が、これとて完璧ではなく、なぜかいくつかの遊郭の記載が抜けています。以前アップした山形県天童の遊郭もその一つ。
確かにマイナーな遊里はいくつか歯抜けにはなっているのですが、稲荷町が未掲載とは驚きです。厳密に言えば、上述の「平家上臈伝説」は書かれているものの、その「子孫」的存在の稲荷町遊郭の「い」もない。てっきり書いてると思い込んでいたので、かなりの驚きでした。
裏町遊廓のことはサラっと1行だけながら書かれているので、ここで考えられる仮説は、

■仮説その1
稲荷町遊廓が裏町に吸収されて「裏町遊廓」として合併した
■仮説その2
稲荷町に娼妓や貸座敷がなくなり、純粋な「花街」になった
■仮説その3
『全国遊廓案内』に云う裏町遊廓=稲荷町+裏町のこと
■仮説その4
著者(か編集者)が単に稲荷町のこと忘れてたor調査不足

仮説1と2は、『全国遊廓案内』発行の前年(昭和4年)内務省警保局のデータには「稲荷町遊郭」「裏町遊郭」が別々に記載されており、仮説その1と2はボツ。

いちばん可能性が高いのは「仮説3」。この2つの資料を照らし合わると、

☆内務省警保局の資料(昭和4年末現在) 稲荷町+裏町遊郭の数
・貸座敷数:18軒
・娼妓数:16軒

☆『全国遊廓案内』 「裏町遊廓」としての記載
・貸座敷数:12軒
・娼妓数:約80名

娼妓数には差があるものの、貸座敷数はまあ誤差以上間違い未満かなと。やはり、『全国遊廓案内』の云う「裏町遊廓」は稲荷町+裏町遊郭のことかなと!?

そして昭和20年(1945)7月2日の空襲で、稲荷町近辺は焼夷弾の炎に消え、遊郭もすべて消え去ることとなりました。
その後、下関の他遊郭は赤線・青線として戦後も営業することとなりましたが、稲荷・裏町遊郭は当時の住宅地図を見る限り、営業していた形跡はありません。おそらく空襲を契機に「足を洗った」のでしょうか。

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