現在の東岡町はどうなっているのか@2020年
東岡町へのアクセスは、近鉄の郡山駅が最寄りとなります。前回紹介の洞泉寺遊郭は、JRの郡山駅と近鉄駅どちらからでも同距離という絶妙なポジションを取っていましたが、東岡町へは近鉄が便利です…私のような物好き以外、今行く用事もないと思いますが。
(奈良県立図書情報館所蔵)
昭和47年(1972)、近鉄郡山駅の写真ですが、方向がビンゴなので奥の黄色のところにわずかに東岡町を望むことができます。
東岡町は、近鉄郡山駅から南へ5分くらいの位置にあるのですが、そこまでの道筋にはスタンド形式の飲み屋や、その抜け殻のようなものが並んでました。
その昔はここにズラリと呑み屋なんかが並び、まずは一杯ひっかけて理性を麻痺させ、赤い顔を掲げながらお目当ての女の子へと向かっていた光景が、容易に想像できます。
駅から遊郭跡へ、その入口にあたったところで頭に浮かんだことがあります。
「入口がやけに狭いな…」
東岡町は、上記で述べたように大正時代後期に事実上開発された遊郭です。それ以前がどのようなものだったかは不明ですが、ビッグバンを起こすほどの拡張ぶりなら大通りの一つくらい作ってもよかろうと。
しかし、遊郭へと通じるの入口は至って小さい。ストレートに言ってしまえば、かつて奈良県一の規模を誇った廓の入口にしては貧相。もしかして、大門とそれに通じる通りを作ろうとしたけれど、周囲に反対された…などという事情があるかもしれません。
航空写真の赤線の部分が、東岡町への入口及びメインの大通りだったと思われますが、実際に訪れてみても広くもなく、むしろ狭く感じるほど。
しかし、この光景、なんだか見たことがありません?
実は滝田ゆうが描いたところだったのです。私が上記写真をこの角度・距離から撮影したのは全くの偶然。撮影した時はこの挿絵の存在すら知らなかったのだから。
写真と絵を並べて比較してみます。
50年の月日はむごいもので、赤い灯で街が照らされていた頃の面影はほぼ皆無。まったく静かな住宅街になりましたが、少し曲がった道筋、そして黄色矢印で示した電柱の位置は変わっていません。
この位置の決め手になったのは、赤色矢印の位置にあったタバコ屋さん。
画像はGoogle mapのストリートビューからですが、ここの角にタバコ屋がある…いや私が行った時には閉まっていたので、もう営業はしていないでしょう。
タバコ屋は、ある範囲の販売独占権が法律で定められており、その範囲内での他の店の販売は禁止です。このタバコ屋は旧遊郭内唯一だと仮説を立て、住宅地図で他のタバコ販売店を探してみました。結果は写真の1店舗のみ。これで場所が特定できました。
わざとかどうかは知りませんが、滝田ゆうもさりげなく、しかしすごい目印を絵に遺してくれていたものです。
もののついでなので、他の2点も答え合わせしておきましょう。
実は2枚目と3枚目は一つの絵となっており、上はそれを合体させ原形に戻したものです。
ここにも、右端に「タバコ」の文字が見えます。上記のとおりタバコ屋の場所は判明しているので、場所の特定はもう楽勝です。
Google mapのストリートビューを使って、できるだけ「滝田ゆうアングル」を心がけてみました。面影がないように見えますが、左側の暗渠にコンクリの蓋で塞いだと思われる道は、50年の月日が経っているものの、なんとなく残滓のようなものが見えます。
そして、絵に描かれているヒントを、昭和50年(1975)の住宅地図を使ってピンポイントで探していきます。
電柱に赤々と書かれた「スタンド安全地帯」、「ヤマト」と書かれた求人の張り紙、そして「旅館三光」。
その電柱の前にあった散髪屋。
さて、住宅地図と照合すると!
すべて実在を確認。
この寿司屋も、実は現存していました。寿司の看板の左にある、「う」しか認識できなかった看板の店は、「うどん 品の家」という店であることが判明。最初はうなぎかと思ったのですが、違いました。
とどめはこれ。
半分が壊れ蛍光灯が剥き出しになっている電灯広告、「旅館 美X」と書かれています。当時の地図と照合すると、「美」がついた旅館は唯一一件、
「旅館三光」の隣にあった「旅館美福」のみ。ここの看板で間違いないと思います。
これにて答え合わせ終了。これでブログ記事を終わらせることができれば感無量なのですが、そうそう問屋は卸してくれないようです。
東岡町探検は続く
東岡町の色街跡には、10年前に一度足を踏み入れたことがあります。
当然、すでに「現役」ではなかったものの、まだピンク色の臭気が漂っているような妖気を感じました。片側だけになってしまったものの、木造3階建ての「木の摩天楼」も朽ちつつも残り色街としての風格がまだ消えていませんでした。
そして10年後、再訪した時の感覚はどうだったのか。
東岡町でいちばん目立つ建物がこれ。一見トーチカに間違えられそうな、コンクリの洋風の玄関口の上に和風の建物が乗った建物。その姿のあまりの異様さに、カメラのシャッターを切らざるを得ない風格を漂わせています。
当然、こちらも元妓楼。赤線時代の屋号は不明ですが、その後は地図により「朝日」だったり「㐂(七が三つ)美」だったり。
10年前訪れた時には住人がいた、ある意味現役の家であったのですが、現在は「貸家」の看板が貼られ新しい主を静かに待っている様子でした。10年前にあった表札も現在はなくなり、主の不在を知らせてくれています。
ん?待てよ?「貸家」ということは賃貸か、借りることができるのか。元妓楼を家にするのも悪くないが、家賃はおいくらくらいであろうか。そして、中の状態はどうなっているのであろうか。そこが気になるところであります。
2020年(令和2)2月末現在、取り壊し中の元妓楼。ここは赤線廃止後は「やまと旅館」として営業していたところでしたが、赤線時代の屋号が不明。少なくても「やまと(大和)」という屋号の店は存在しません。
実に哀れな姿を晒していますが、これが逆に作用し中に入らずして中の構造が拝見できる状態になっています。
中が丸見えの状態になっていますが、左の角部屋が6畳くらい、右が3~4畳というところでしょうか。貸座敷(赤線時代のカフェーも含む)の部屋は、和風建築がそうかのか、理由はよくわかりませんが、角部屋は常に広いんですよね。
しかし、こちらも存在は風前の灯火。このブログがアップされる頃には全壊して跡形もないかもしれません。また一棟、妓楼が消えたということ。
2010年訪問時に撮影した同じ場所を、2020年に同じアングルで撮影してみました。
10年前は道の左右に高層木造建築が家が並び、「現役」時代の面影をわずかながら遺していました。歩いていると、家から
「お兄さん、いい娘いるよ」
という鼠鳴きが聞こえてきそうな雰囲気すらありました。が、10年の月日はそれをほぼ消し去ってしまいました。左の木造3階建てがまだ面影を残しているものの、10年前には住んでいた住人も今はなく、ほぼ朽ちるに任せることになるでしょう。
同じ大和郡山の遊郭でも、洞泉寺はどこか「明」を感じたのに対し、東岡町はまさに「陰」でした。かつての「郡山新地」でも、前者が「表」に対し後者は「裏」だったのか、それはわかりません。が、洞泉寺との対象としての東岡町に感じる「陰」を感じることは確かです。
在りし日の東岡町の偉容を伝えるいちばんの証明は、この建物でしょう。
こちらは、昭和43年(1968)の住宅地図では「豊田」と個人宅になっていますが、赤線時代の組合員名簿によると豊田の名字の店は「豊栄(楼)」。ここは赤線時代、「豊栄」という屋号だったはずです。そして昭和50年(1975)になると旅館になっています。
10年前にもすでにシャッターが閉まり、人が住んでいる気配もない廃墟と化していました。ぱっと見あまり変わっていなさそうに見えます。が、今年の方が朽ち具合がまた一歩進んでいる感があります。
とはいえ、元々良い木材を使っているのか、格子などはまだまだ朽ちておらず当時の繁栄の姿を伝えています。
以前来訪時には気づかなかったことが、この建物でありました。
シャッター正面から左の小窓、2010年の時には格子がついていたのですが、今年にはそれも無くなっていました。そのせいか、
今年になってやっと、窓の上の牡丹(?)のステンドグラスに気づくこととなりました。間近で見てみると、花の部分だけガラスの荒目を大きくし、花として浮きだたせる装飾が施されています。なんだかさりげなくありますが、これの制作費、けっこう高いかったと思うよ(ステンドグラスの制作費、けっこう高い)。
誰も見ないような、ある種どうでも良いところに金をかけて飾る…それがまがうことなき和の神髄だと思うのは、私だけではないはずです。
「吉乃」の謎
東岡町を象徴する一つが、この昔の屋号が入った灯籠です。レトロ感の強さが印象深いせいか、来訪者のブログやサイトには必ず掲載されていますが、今回来訪時には消えておりました…
この灯籠、果たして遊郭時代のものか、それとも赤線時代のものか。
昭和5年当時の妓楼は、
とあり、「吉乃」は見当たりません。
戦後の赤線時代、昭和30年当時の関西の赤線業者一覧表(非売品)にも、「吉乃」の記載は見当たらず。当然、赤線廃止後の地図を2種類チェックしたものの、結果は同じ。
これはペンディング事項やな…と最初は終わったのですが、この記事を見て下さった方から情報をいただきました。
「吉乃」の屋号でお店を始めようと、灯籠まで付けたがよかったが、結果的に営業されずに終わってしまったものだそう。「吉乃」は幻の屋号だったという予想外の事実でした。
東岡町、最期の時
新聞にも掲載されたとおり、洞泉寺遊郭跡の妓楼が取り壊しになります。東岡町も、建物も少なくなり現存のものも朽ちるに任せられているものの、まだ雰囲気が真空パックのように残っている感はあります。
が、洞泉寺町が「色街の抜け殻」なら、東岡町は「色街の死体の放置プレイ」といわんばかりの廃墟ぶり…10年前に訪れた際の感想は、
遊郭跡というより遺跡やな…
これに尽きました。
その「遺跡」にも新しい家やアパートがいくつも建てられ、まもなく終焉を迎えようとしています。
古代文明の成れの果てのようなこの「遊郭遺跡」こと東岡町。「男と女どもせめぎ合い」の夢の跡は人々の記憶からも忘れられ、自然の風化に任せて朽ち果てつつある木造3階建ての元妓楼が、最期の時を見届けている寂しさを漂わせた今回の探索でした。
大和郡山や他の遊郭の記事はこちら!
コメント
米澤様
いつもながらサスペンスを読むようにドキドキさせて頂きました。
仕事の関係もあって大和郡山にはよく行きますが、奈良県警の関係の方や源九郎神社の社務所の方々皆さんここを「おかまち」と呼んでおられました。住居表示とは別の俗称なんでしょうね。
ここらか道路を挟んで北側にある『紀元二千六百年記念碑』の先の一画と、南側に広がるバラック住居群もいつも気になります。
また近鉄の向う側の妙な建物については旧川本邸の案内の方から、この地に生まれた『日本少女歌劇座』の本拠地だと伺いました。
そろそろこの街も見納めのようですね。
>東京YSさん
ここ、「岡町」と呼ぶ人がいて、ブログによっては敢えて「岡町」と書いている人もいるのは知っているのですが、私はあくまで公式として「東岡町」としておきました。
「日本少女歌劇座」のことは初めて知りましたが、調べてみるとなかなかネタになりそうな歴史ですね。もし本当に西岡町の建物がそうなら、なかなかの文化財ですね。今ふつーの民家になってますけど…
はじめまして。街ブラを趣味としている者です。
「吉乃」の看板がある物件ですが近隣の方にお話を聞くことができました。
その屋号で営業を予定し取り付けられたものの、営業されず終わってしまった名残だそうです。
全国遊廓案内などに記載がないのもその為と考えられます。
>えにさん
はじめまして、拙ブログをお読みいただきありがとうございます。
「吉乃」の件、情報をありがとうございます。未完の店でしたか、そりゃ載るわけがないですね。
この件、本文に追記させていただいてよろしいですか?
はい、是非お使い下さい。