戦後の東岡町
時代はいきなり戦後に飛びます。
戦後は昭和21年にGHQから公娼廃止のお沙汰が出て遊郭は形だけ廃止になり、そのまま赤線に移行しました。もちろん東岡町も赤線としてほとんど戦前とそのままの形で営業なり。昭和28年編纂の『大和郡山町史』には、「業者数29軒、接待婦150名」の記載があり、業者数は昭和30年当時の関西の「それ系」の組合員の数と一致します。この数字、だいたい昭和一ケタのビッグバンが落ち着いた後の数字に匹敵、賑わいはほぼ戦前並に復活といったところでしょう。
そして、遊里史の中では「その時歴史が動いた」になる、売防法刑事罰執行猶予期間切れ(施行じゃないよ)の昭和33年4月1日を迎えます。
売防法が国会で成立した時の東岡町の反応は、洞泉寺遊廓編で書いたローカル新聞によると、
法案が決まるまで反対したが、成立すれば法治国民であり法を守るべきである。
マッカーサーの指令により占領の始まった時に吾等は廃業を覚悟したが、軍隊に慰安婦を出せという政府の要求があり、吾等も一般婦女子の防波堤の積りで協力した。その後次官通達で黙認ということで今日まで営業してきた。
(中略)まだ二ヶ年猶予期間があるので、今のところすぐにどうすると言うことはないが、一日も早く目鼻をつけた方が良いと思っている。組合の廃業によって飲食店などは寂しくなるだろう。
(当時の組合長のコメント)
特に当たり障りのないコメントですが、赤でアンダーラインを引いた文を暗記しておいて下さい。後でこのコメントに激しくツッコミが入ることになります。
■業者の転業(24軒中)
旅館:16
料理店:4
カフェー:1
廃業:3
■接客婦の動き(33年1月市調べ 101名)
結婚:18
転職:35
帰郷:38
一時収容:5
就職希望:5
順調に赤線廃止へと向かって行っています。そして4月1日そのまま赤線の灯は消えました。

こうして色街の歴史の幕を閉じた…とそうは問屋が卸さない!
東岡町の歴史、まだ続きます(笑
コメント
米澤様
いつもながらサスペンスを読むようにドキドキさせて頂きました。
仕事の関係もあって大和郡山にはよく行きますが、奈良県警の関係の方や源九郎神社の社務所の方々皆さんここを「おかまち」と呼んでおられました。住居表示とは別の俗称なんでしょうね。
ここらか道路を挟んで北側にある『紀元二千六百年記念碑』の先の一画と、南側に広がるバラック住居群もいつも気になります。
また近鉄の向う側の妙な建物については旧川本邸の案内の方から、この地に生まれた『日本少女歌劇座』の本拠地だと伺いました。
そろそろこの街も見納めのようですね。
>東京YSさん
ここ、「岡町」と呼ぶ人がいて、ブログによっては敢えて「岡町」と書いている人もいるのは知っているのですが、私はあくまで公式として「東岡町」としておきました。
「日本少女歌劇座」のことは初めて知りましたが、調べてみるとなかなかネタになりそうな歴史ですね。もし本当に西岡町の建物がそうなら、なかなかの文化財ですね。今ふつーの民家になってますけど…
はじめまして。街ブラを趣味としている者です。
「吉乃」の看板がある物件ですが近隣の方にお話を聞くことができました。
その屋号で営業を予定し取り付けられたものの、営業されず終わってしまった名残だそうです。
全国遊廓案内などに記載がないのもその為と考えられます。
>えにさん
はじめまして、拙ブログをお読みいただきありがとうございます。
「吉乃」の件、情報をありがとうございます。未完の店でしたか、そりゃ載るわけがないですね。
この件、本文に追記させていただいてよろしいですか?
はい、是非お使い下さい。