■現在の猪崎遊郭跡
さて、事前の下調べによると、猪崎に当時の建物はほとんど残っていないという情報でした。が、実際に現地調査してみると…
早速古めかしい建物発見!これは幸先がよろしい。さらに奥へ踏み込むと。
これはもう文句がつけられない。
手前の玄関が写真より立派な作りになっており、昔の面影を色濃く残している感じがします。
これもいい感じの建物ですね。ちょっと歩いただけで既に3軒GETだけれども、喜ぶのはまだ早い。ここの遊里跡には、少しビックリな建物が残っているのです。
この風貌、この貫禄…これは100%間違いない元貸座敷の建物です。
少しリフォームはされているものの、昔の風格を残しつついい感じでリフォームされている気がします。
特に玄関の屋根が豪華な唐破風のもので、猪崎遊廓内でも一二を争う大妓楼だったことが想像できます。
しかし、この建物で驚くのはまだ早い。
上の建物のリフォーム前…ではありません。全く別の建物です。
上の建物とは姉妹建築なのか、玄関の屋根瓦の色に違いはあるものの、その他はほとんど双子的な建物です。更にこちらは、紅色に塗られた壁の色からして当時そのままの姿を留めています。
玄関の部分をアップで撮ってみると、堂々とした風格を漂わせる建物であったことはもちろん、この紅色の壁が何とも艶めかしいというか、視覚にドカンと飛び込んできてすごいアクセントになり、見る者への印象を強くしています。
元貸座敷の外壁は赤なことが多いのですが、目に飛び込ませる視覚効果もあったのかしらん。
こうして似たアングルで写した写真を並べてみると、この二つの建物が如何に「双子」かよくわかると思います。
昔はこんな「双子」が遊廓内でも少なからずあったと思われますが、21世紀でも二つそろって残っているのは極めて少ないと思います。私も全国の遊郭・赤線跡を渡り歩きましたが、こんな立派な建物が、それも「双子」の状態で残っているのを見たのは初めてのことです。
で、どっかから拾ってきた、戦前(時期不明)のある建物の絵葉書です。これ、上の画像とよく似てませんか…いや瓜二つやん。
この絵ハガキには「近波楼 全図」と書かれていますが、その「近波楼」は恐らくこの遊廓の建物のどちらかと思われます。
「双子」なのでどっちがどっちか区別がつきませんが、自動車が乗り入れている所を見ると、かなり規模が大きい建物やったと思われ。
『遊郭をみる』という本には、猪崎のちょっと変わった所が書かれています。
江戸時代・明治時代の遊郭は、女性が格子越しに座り客を直接取る「張り見世」がふつうでした。さながら生きるマネキン状態、客が「ウィンドウショッピング」したり遊ぶ女性を見定めたり。
大正時代に入り、人権向上が意識される中それは全国的に廃止されました。その後は店の前に写真を飾る「写真見世」や、店の奥に女性が立ってて直接見定める「陰店式」がメインになりました。
が、猪崎は密かに(?)「張り見世」を続けていたと。なくなったはずの「張り見世」が今も見られると、神戸や姫路などから車で来る人もいたと。
車が当たり前の現代と違い、大正時代はおろか昭和初期でも車で来る人など超がつく金持ち連中です。車で乗り付けてくるということは、「近波楼」は格式が高い貸座敷だったと推定できます。
また、猪崎遊郭は芸妓も100人いたというので1、近くのブルジョアや陸軍の高級将校が芸者遊びをしていたのかもしれません。
で、この建物にかんして、後で仕入れた情報があるのですが…それはまた後で。
同じ猪崎地区で見つけた、何か異様というか興味深い建物です。
1階と2階部分がリフォームされているのですが、3階部分はそのまま。このアンバランスさもさることながら、よく見たらお城みたいな形になっているような!?
昔は木造3階建てやったことが容易に想像できます。昔の木造3階建ては非常に珍しく、おまけに旧遊廓の敷地内。
まあ、証拠はないので読者の皆さんの想像にお任せします。
山中の祠に残された遊里の印
そして、私の足は猪崎地区の裏手にある山へ。写真右手の、駐車場になっているスペースはかつてのタクシー乗り場だったそうで、交通の便は決して良いとは言えないどころかかなり悪い郊外にある猪崎へは、タクシーに乗るのが今も昔もベスト。赤線時代、遊ぶ帰り際にはタクシーがずらりと並んでいたんだとか。
と、ちょっとその前に、写真の中に何やら怪しい建物が。私の妖怪アンテナ…もとい遊廓アンテナがピンと反応しました。
和風の建物が立ち並ぶ街角に、いかにも場違いというか何というか、明らかに町の雰囲気から浮いてる洋風の建物があります。
その分存在感は一度見たら忘れられないほどあるのですが、遊廓の検番か?それとも赤線時代に建てられたカフェーの生き残りか?
昭和40年代前半の住宅地図を紐解いても、そこは一般の人の住宅になっています。
空気を読まないこの建物の謎は深まるばかりですが、表も怪しいのにこの建物の裏手に回ると。
めちゃ和風だったりします。そして外壁の紅色…これは怪しい、怪しすぎる。
写真には撮りませんでしたが、この建物けっこう奥行きがあり、表の「洋風」に惑わされるとついスルーしてまう、一風変わった建物です。
こんな怪しすぎる建物に後ろ髪をひかれつつ、異常気象の猛暑の中、何で登山なんかせなあかんねん!?と拭いても拭いても流れ出る汗をぬぐいながら、奥の山を登ります。
ところで、この山には戦国時代、猪崎城という山城が築かれていました。
福知山界隈を治めた豪族の塩見氏が、明智光秀の軍勢に対し最後の抵抗を試みたのがここ猪崎城。城主の塩見播磨守家利は周囲の城の落城を見届けて自ら城に火を放ち逃亡を図ったが、討ち取られたと伝えられています。
猪崎城の落城をもって丹波を平定した明智光秀は、横山を福知山と改め、城を築いたという歴史の流れです。
歴史上そこそこ重要な城な上に、空堀などが比較的良い状態で保存されていると「城攻めマニア」の中でも有名らしいのですが、私は別に「城攻め」に来たわけではありません。
そして着いた所は。
城跡の中にある古びた小さい祠。どこにでもありそうな神社、これと遊廓がどういう関係があるのだろうか。
鳥居のとこに「稲荷大明神」と書かれとるのがわかると思います。遊里とお稲荷さんはある意味一セットのようなもので、昔から遊里で働く遊女たちの信仰を集めていました。
このお稲荷さんも、その昔遊女たちが山を登って願掛けしに来たのかもしれません。が、登山道の獣道と化した草ぼうぼうさや、祠自体の荒れっぷりからして(今は整備されているかも)、地元の人にも忘れ去られているのでしょう。
夏草や つわものどもが 夢の跡
松尾芭蕉の有名な句がありますが、
夏山や 廓女(くるわめ)どもが 夢の跡
と思わず詠んでまうような、少しさびしい気分にさせる祠でありました。
お稲荷さんの境内には、これまた朽ち果てそうな灯篭が何基か残っているのですが、そこには…
貸座敷組合、つまり遊郭が寄進したらしい灯篭が残されていました。この灯篭ははっきり字が読みとれて、「大正十年九月 遊廓中」とはっきり書かれています。
大正10年(1921)は今からほぼ100年前。当時皇太子の昭和天皇が摂政(天皇代理)に就任し、総理大臣の原敬が暗殺され、世界に目を向けるとソ連の支援でモンゴルに人民政府が出来たり、共産主義が日本にも芽生えてきた頃でもありました。
そんな頃の灯篭がまだ残ってるんやなーと、少し感慨深い思いでした。どんな思いでこの灯篭を寄進したのでしょうか。
遊女たちの思いが詰まってそうなお稲荷さんに少しお賽銭を投げ、旅の安全を祈りつつこの忘れ去られた遊里の遺物のような神社を後にしました。
で、山を下りて一息…といきたいところですが、この地区は今は静かな地方の住宅街。喫茶店はおろかジュースの自動販売機すらロクに見つからない始末。
おまけにものすごい暑さで体力も限界…ってところで、飲み物を売っている所を聞いてみようと地元のおばちゃんに声をかけてみました。そして、古くから住んでそうなこのおばちゃんに、
昔、ここに遊郭があったそうですね。
とジャブを放ってみました。
昔から住んでいた人ではなく、猪崎が赤線ですらなくなった後に住み始めた人だそうですが…
私、赤線がなくなった後に来たからよくわからへんねん
というのは過去何十人がおっしゃっています(笑)
警察官の取り調べではないので、そうですかーとうなづきつつ、
そういうことにしとこか
と心の中でそっとつぶやきました。
しかし、「よくわからへんねん」と言いつつ売防法施行の年まで知ってるって、なかなか通やんか(笑
というのも、私のような遊廓跡を訪ねてくる物好きがたま~~に来るようで、数か月前にも何人か訪ねてきたらしい。まあ、そういうことにしといたろか(笑
で、飲み物の居場所を聞こうと思ったらとんだ遊廓話になったわけですが、ここで面白いことが。
この「双子」の建物、赤線時代には「ニッシン」「第二ニッシン」と呼ばれた建物だったそうで、リフォームされた方が「ニッシン」、紅色の壁のが「第二ニッシン」だったそうな。
「ニッシン」の漢字をどう書くか聞くのを忘れてしまいましたが、「日新」か「日進」かどちらかと思います。
この名前で、ピンときたことがあります。
『昭和前期日本商工地図集成』という、昭和初期の市町村の商業地図があるのですが、そこの福知山の裏面に、猪崎遊郭の貸座敷の名前が並んでいます。その一つに「日進楼」というものがあったはず。その「日進楼」と「ニッシン」との因果関係は不明ですが、おそらく同一のものだと思われます。
この二つは、やはり同じ時期に建てられた建物で、昔のオーナーも同じ。今は別の人が住んでるらしいけれども、2階にはいくつもの小さい部屋に仕切られていたとか。これは1階は楼主の家族の住居兼妓楼の事務所、2階が遊女たちの仕事部屋というのが貸座敷のテンプレですが、「ニッシン」もその形態そのもののようです。
そして、話を聞いていくともっと衝撃的な話が。
この「ニッシン」の建物の近くにある家も、今は建て替えられているものの、30年ほど前は典型的な遊廓建築だったそう。
そこには地下室があり、そこは何に使うかというと…その昔、結核や梅毒などの病気に罹った遊女がそこに隔離され、ロクな治療も受けられないまま死ぬまで出られなかった「死の部屋」とか!?
聞くだけで身震いがしそうですが、その地下室は「死の部屋」だけではなく、遊廓から逃げだそうとしたり、しきたりを破った遊女が「お仕置き」を受ける「お仕置き部屋」も兼ねていたのではないかと想像出来ます。
結核とか梅毒は、今じゃ抗生物質でケロリと治る病気ですが、当時は治療法なしの不治の病だったのは周知のこと。特に結核は伝染力が強く、隔離しないと周囲の人がみな伝染してまう怖い病気でした。2020年に猛威を振るっている新型コロナウィルスとはまた違った怖さです。そういう意味では隔離もやむを得ないのですが、地下室というのが妙に怖い。
遊里史を勉強して思うのは、建物とかの「表」「光」の部分だけではない、こういう「闇」「裏」の部分にも目をそむけずに刮目し、きちんと記録に残すことが大切ということ。
そして、ここで死んでいった名もなき女性たちの霊のために、彼女らゆかりの神社や無縁仏に手を合わせることもこの旅の意義の一つではないのだろうか。
特に女性は、思わず耳を塞ぎたくなったり泣きたくなる話もあるけれども、それも現実。現実は現実として「歴史」として考えて欲しいと切に願ったりします。
歴史というのは、事実を事実として、事実のまま伝えることであります。
で、ここで関係ない与太話を。
遊女たちの死因のトップは「梅毒」と「肺結核」でした。が、調べてみると「丹毒」という病気で亡くなった人も多かったとか。
丹毒…今ではほとんど聞かないですが、急性の皮膚感染症の一種で昔は日本髪を地毛で結っていた人に多かった病気でした。
かんざしとかは先が尖っています。それで頭の皮膚を傷つけ、そこから菌が入り髄膜炎などで亡くなることがありました。
今は抗生物質、内服剤であっという間に治る病気だそうですが、抗生物質などあるわけがなかった戦前は、治るのを祈るしかありませんでした。
死亡率100%ではないものの、顔が中心に膨れ上がって直視できない状態になることもあったとか。
そういう意味では、抗生物質とは「魔法の弾丸」なのだろうなと思います。
■おまけ
福知山市の町のど真ん中には、御霊神社が鎮座しています。宝永2(1705)年に作られ、大正時代に現在地に移動した神社です。
名前の通り誰かの御霊を祀っているのですが、それは何と明智光秀。光秀は丹波と福知山の地を平定した後は、前述のとおり民にベクトルを向けた施策を行い、民からたいそう慕われました。
その御霊神社には、遊郭にまつわるあるものがあります。
「昭和三年」と書かれた古い灯籠です。これをよく見ると。
「猪崎新地」の文字が!そう、これ猪崎の遊郭が寄進した灯籠だったのです。
名が刻印されている人は、おそらく当時の貸座敷の楼主だったに違いありません。昭和40年代の住宅地図には彼らの名前はなかったですが、遊郭があった痕跡はこのように少し離れた場所にも存在しています。
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コメント
こんにちは!はじめまして(^^)
私の母は、福知山の出身です。
3歳〜4歳の頃まで福知山で過ごしたらしく。
生家は、武家屋敷だったそうで、トイレの便器は木製で漆塗りで。
便器の周囲には小型の畳が敷き詰められていたことを覚えていると言ってました。
母の父親(私からみたら母方の祖父)が早くに亡くなり、祖父の弟と共有名義だった屋敷を祖父の弟が相談なく売却した事で、生家を離れたそうです。
母方の祖父は、当時の国鉄で働いていましたが、実家の家業が人買いだったそうで。
その家業がイヤで、家業を継がず国鉄で働くに至ったと母から聞きました。
何故、京都府内とは言え京都からも随分離れている福知山で家業が人買いだったのか、ずっと謎だったのですが貴殿のレポートを拝見してし納得ができました。
>香久夜さん
はじめまして。コメントありがとうございます。
>実家の家業が人買いだったそうで。
>その家業がイヤで、家業を継がず国鉄で働くに至ったと母から聞きました。
遊里史を研究していると、「妓楼に二代目なし」という言葉に当たります。
貸座敷、つまり遊女屋ですが楼主も遊女屋が穢れ仕事だと自覚しており、子供には堅気の仕事に就かせ後は継がせないことがほとんどでした。
実際、貸座敷の二代目ってほとんど聞いたことがないですし(親戚が継ぐならあるのですが)。
遊女屋の人買いこと女衒(ぜげん)も同じだったと思います。