大阪には飛田新地という、現在でも遊郭という歴史的固有名詞の雰囲気を色濃く残す色街があります。往年の遊郭の面影を残す場所として不思議な魔力を持ち、近年は「観光地」としての顔も出てきましたが、「現役」だけにその扱いを頑なに拒否している秘められた場所でもあります。
そこにはかつて、「壁」が存在していました。今回はその「壁」を探す旅、Finding the wallなるものをやってみたいと。
英語で書くと無駄に格好いいですが、あまり知られていない飛田新地の近代史の顔を。
飛田遊郭
Google Earthから切り取った飛田新地あたりの俯瞰図。赤で塗った部分が、元々の飛田新地の範囲です。
飛田新地が出来たのは、第一次世界大戦が終わった大正7年(1918)、今の難波駅の北にあった「難波新地」が火災で全焼し、その乙部、つまり遊郭部門だけ郊外の飛田に移したことが始まりです。
「郊外」って…めちゃ市街地やん!と思うかもしれませんが、それは「今を見たら」の話。飛田新地が出来た時は畑が広がる農地、大阪市の観点で見たら、家一軒ない「ド郊外」だったのです。
大阪府立図書館で、飛田新地が出来る前の貴重な写真を見たことがあります。まぁ、昔のここって何もなかったのねんとうなってしまったほどの、のんびりとした畑でした。
ちなみに、今宮あたりはレンコンが名物だったそうです。
飛田の新遊郭設置は、廃娼運動が盛んだった時期もあって、蜂の巣を突くような大騒ぎになりました。結果的にはごり押しで作られたのですが、それから大阪ではおおっぴらに遊郭は作れなくなり、「花街」という形になります。今里新地とか港新地とか…ね。
ところで、遊郭時代の飛田新地の写真で、有名な絵葉書があります。
(AIによるカラー化を施したもの)
『大阪便覧』(大正15年刊?)にも掲載されており、ネットでも散見するので見たことがある人が多いと思いますが、飛田遊廓なのは絵葉書に書いてあるのでわかる。では写真の場所はどこか?
これが10年来の謎として私の中で消化不良となっていたのですが、偶然手にした資料で発覚することに。
昭和初期に発行されたある本に掲載されていた、飛田遊廓の航空写真です。整然かつ規則的に並んだ妓楼の数々に「美」を感じるのは、私だけでしょうか。
その写真の中に、絵葉書の草垣が移っています。これで場所が確定しました。
黒い四角の部分が遊廓の大門跡、絵葉書の草垣は赤丸の位置。絵葉書の写真は遊郭の大門前から大通りを写したものだったのです。わかって見ると実にあっけない。