飛田新地の「嘆きの壁」を探して|おいらんだ国酔夢譚 番外編|

飛田新地嘆きの壁ブログ大阪史
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飛田新地の「壁」

その飛田遊郭は、周囲をグルリと「壁」に囲まれていました。

飛田遊郭の門と壁

飛田遊郭には東西南北の門が存在していましたが、普段は西にある大門から出入りすることになります。今も大門前に交番がありますが、これは飛田遊郭が出来た時からのもの。出入りの客を鋭い目で見張っていたと言います。
ついでに、大門のそばにある郵便局も同じ場所あり、当時からあったものだと推定できます。

犯罪者は、大金を持ったり大事を起こした後は、女の懐に潜りたくなる本能(?)があるそうです。後ではなく前ですが、女の子大好きだった伊藤博文も、攘夷の事を起こす前は常に遊郭に駆け込んで馴染みの女を抱いていた、つまり懐でゴロニャンしていたという話もありますし。
しかし、そういう人は変なオーラでも持っているのか、遣手や娼妓も「あやすぃ」と感が働くらしい。そして臨検という形で警察に踏み込んでもらうと…客はお尋ね者の凶悪犯だった!ということがちょくちょくあったそうです。
元々江戸時代に遊郭が許可されたのは、「犯罪者逮捕のゴキブリホイホイ」という役目もあり、人間の心理、いやオスの本能というものは、時代が進んで文明が進化しても変わらないということだろうか。
また、交番は地元住民が金を出しあったり、維持費を地元が出す条件で作られることもありました。東京の戦後の玉の井や武蔵新田にあった交番は、治安維持のため赤線の組合が金を出して警察を駐留させたものでした。飛田大門前交番も、おそらく遊廓側が陳情して、維持費を出すという条件で作られたものかもしれません。

で、何で壁なんぞ作る必要があったのか。それは…。
一つは、ここで働く遊女の脱走を防ぐため。もう一つは、娑婆(俗世間)との境界
ここに限らず、全国の遊里は壁や溝、あるいは自然(川など)で仕切られた所が多く、「ここからは俗世間ではないですよ」ということを示していたものと思われます。

吉原お歯黒どぶ地図

東京の吉原遊郭を囲ってた、「お歯黒どぶ」と言われた堀は、説明不要なほど有名です。そのお歯黒どぶと同じくらい有名だったのが、この飛田の壁。周囲をぐるりと囲んだ城塞都市のような壁は、誰が、いつから呼んだか、通称「嘆きの壁」と地元では言われています。

かつて、阪堺電車が平野区まで走っていたころ、恵美須町から出た電車は今池から大きく左へカーブし平野方面へ向かってました。そのカーブを曲がり終えかけの所に、かつて「飛田駅」が存在していました。

平野線飛田駅と嘆きの壁

飛田駅の写真の後ろには大きな「壁」が君臨していますが、これがかつて南側にあった壁です。写真は戦後の昭和40年代の写真ではないかと思います。

飛田駅の開業は昭和2(1927)年ですが、飛田遊廓の南門に近い所に作られたので、位置的におそらく遊郭の客のために作られたのではないかと。

飛田嘆きの壁東側

新地の東側には、今でも壁が残っています。ここが現在、一般的に「嘆きの壁」と呼ばれており、壁の向こう側は高台になっており道路の土台のようですが、これもれっきとした壁の一部です。
何でこれだけ段差があるのかというと、「上町断層」という断層の影響。見てのとおりかなり落差があります。
ちなみに、この「嘆きの壁」が大阪市の西成区と阿倍野区の境目になっています。断層で地形に落差があるので、境目としてはわかりやすいせいか。「千と千尋の神隠し」のキャッチフレーズ風に表現すると、「壁の向こうは阿倍野区でした」と。

飛田嘆きの壁

東側は天然の壁といっても、昔は写真のように壁の上にまた「壁」があったようです。

また、ここには「壁」の他にスタンド・バーが並んでいました。

赤線跡を歩く飛田新地

(『赤線跡を歩く』より)

「壁」に沿ってずらりと並ぶ一杯飲み屋。1990年頃の風景だそうです。飲み屋もまるで「壁」のごとし。聞いた話によると、この飲み屋でも売春行為が行われていたといいますが、真偽は定かではありません。

飛田の嘆きの壁東側

そんな「飲み屋の壁」も今はすっかり消え失せ、整備され、毒を抜かれたクリーンな姿となっています。実は私もスタンド・バーが並んでいた時期を知りません。なのでこの左側に…と想像もできません。

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21世紀に残る「嘆きの壁」を探して

飛田嘆きの壁

まずは、飛田新地の大門から商店街沿いに進むと、早速壁の一部が残っています。

飛田嘆きの壁

大門から道一本分北の方にある所の門柱と壁です。

更にこの壁を追って釜ヶ崎の奥へと進むと…

飛田嘆きの壁

これは旧遊廓の北門にあった門柱及び壁の一部です。
隣のアパートとほとんど一体化しておりよ~~~く見ないとわからないですが、奥に壁が残っていることがわかります。

商店街の奥のこんな小さな穴のような小道を奥へ進むと。

飛田嘆きの壁

かなりはっきりと壁が残っています。これが当時のままの壁なら、剥き出しになった骨組みから鉄筋コンクリートの強固な壁であったことがわかります。壁だけなら刑務所かベルリンの壁か外国の城塞都市の城壁ですね…(汗
そんな城塞都市ならぬ「城塞遊郭」が大阪にあり、今でも「城壁」が残っている…何も知らない人が見たらただのコンクリートの壁ですが、見る人が見たらものすごい歴史の遺物なのです。
偶然か、「ベルリンの壁」と「飛田の壁」の高さはほぼ同じ約5mです。もしかして、科学的か習慣的に「人に登る気を失わせる威圧感がある、かつ向こう側が見えない高さ」というものがあり、それが「約5m」なのかもしれません!?

飛田新地嘆きの壁

壁を遠くから見てみると、こんな感じになります。壁の前の建物と比較しても、壁がけっこう高かったことがわかるでしょう。
資料の通り5mくらいかなと思いますが、実際に見たらそれ以上の大きさを感じます。それくらい「威圧感」…そんな存在感は今でも残っています。

飛田嘆きの壁

逆に、大門より南にも、わずかながら壁の跡を見つけることができます。戦前の昭和初期の地図を見てみたら西側には壁がないっぽいけれどど、まあそれはあり得ないでしょう。

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おわりに

飛田嘆きの壁

廓と娑婆を分けた境界線は、運河や川などが中心ですが、飛田の「嘆きの壁」は現存する仕切りとしては非常に珍しいもの。実際に見てもこれといった特徴もないただの壁ですが、耳を澄ませると数々の名の知れぬ遊女たちの「嘆き」が聞こえてくるかもしれません。

廓は「一度出たら二度と生きて出られぬ」などと言われていました。実際は、特に飛田遊郭が設立された大正時代にはそんなこと全然ないのですが、それでも病気などで出られず死んでいった名もなき遊女たちの薄幸の人生に思いを馳せるのも、遊郭・赤線跡探偵としての思いの一つであります。

他の遊郭のお話はこちらでありんす

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