宮ノ下駅、謎の留置線
こうして「宮ノ下駅の怪」は、私の中では解決しました。が、資料をさらにまさぐっていくと更に変なものを見つけました。
戦前の資料記載の宮ノ下駅の線路配置図なのですが、そこに一本、ニョキッと線路が盲腸のように伸びているのがわかります。これ、引込線なのですが、宮ノ下駅なんかにそんなのあったっけ?と疑問が。
現在の状態を見ても、引込線の残滓なんてないどころか、一体どこにあったのか見当もつきません。汗だくになって周囲を探してもわからない。
果たして本当にあったのか?と宮ノ下駅関連でいろいろググってみると、あるブログに決定的な写真がありました。
(画像提供:のり様より)
渡り線と一緒に、途切れているものの留置線がはっきりと確認できます。そうか、ここやったか!
(Google mapストリートビューより)
現在はガラクタ置き場…もとい砂利(?)置き場となっているこちらが、留置線があったところでした。この私の不覚、ここは盲点だった…。
(画像提供:のり様より)
南側(東玉出駅側)から撮った写真ですが、画面左側に引込線がはっきり見て取れます。
画像主様より聞いた話によると、引込線先は保線で使用する砕石の置き場で、引込線から砕石を載せて大阪軌道線の各地に運んだと。
そこあたりの詳細は、写真のリンク先をご覧下さい。
さて、これで解決!
かと思ったところで、mixiの阪堺コミュでこんなコメントを見つけてしまいました。
かつて(いつやねん)宮ノ下行きの電車が…実は、なんかどこかで、それを聞いたことがある記憶が、脳の片隅にあるのです。何か証拠をお持ちの方は、TwitterのDMか直メールでお願いします。
…と書いたら、
以前、こんなの見つけました!
と貴重な情報が!
(提供:Twitterフォロワーさん)
あびこ道駅で行われた阪堺のイベントでの展示物だそうですが、戦前の方向幕に「宮ノ下」が!これぞツイッター知。
戦前の神社の大祭の臨時列車として走っていたという情報もあったのですが、それを現物が証明するという素晴らしい結果となりました。やはり「発信する」行為は、正しく発信すると波紋となって拡散していくものです。
おわりに
街中に残るコンクリートの塊と化した廃駅…しかしその歴史と謎を掘り進めるとここまで面白いことがわかるものです。正直、この記事は「はいそうですか」で終わらずさらに調べ、こうして書いているとウキウキとした気分になります。
その歴史の種は、あなたのすぐそこに隠れているかもしれません。歴史の勉強とは、かくもワクワクドキドキしたいものです。
こんな鉄道史の記事はどうですか?
・『南海鉄道発達史』南海鉄道編(1937年)
・『開通五十年』南海鉄道編(1936年)
・『南海70年のあゆみ』南海電気鉄道編(1957年)
・『南海電鉄百年史』南海電気鉄道編
・『阪堺百年』阪堺電気軌道編
・『大阪春秋 第144号』
・『西成区史』
・『明治大正大阪市史 第四巻 経済編中』
・『大正大阪風土記』
・『大阪市全住宅案内図帳 昭和31年』
・『大阪市全商工住宅案内図帳 昭和35年』
・昭和20年代~30年代の西成区地図いっぱい(大阪市立図書館蔵)
・ブログ:阪堺線宮ノ下駅跡 その1(のり様)
・ブログ:大阪市内の廃駅 阪堺線宮ノ下駅 廃止の理由が明らかに! Kumokyu99様
・他Twitterのフォロワー様一同
コメント
大作、拝読させていただきました。
綿密な調査をされたようで感激しています。
阿倍野神社が大切にされたのは、皇国史観により南朝を支えた重臣を祀るじんじゃが崇敬され、北畠親房・顕家父子を祀るこの阿倍野神社も(楠木正成公を祀る湊川神社と同様「別格官幣社」に列せられました)その影響が大きかったと思われます。
「宮ノ下」については阪堺サイドにも資料がほとんど残っていないようで、廃駅になった年代も経緯もほぼ不明のようです。昭和30年頃までの都市地図にも停留所名が記載されているものも見受けられます。
ただ、昭和26年に発表された映画「めし」に天神ノ森で電車を待つシーンが出てきますが、そこに見える駅名標「かなり読みづらいのですが…)には、隣接駅の字数が多いように見てとれますので、「みやのした」ではなく「ひがしたまで」となっているようですので、このころにはすでに廃駅となっていた可能性があります。
また宮ノ下の渡り線についてですが、今から50年ほど前までは、天下茶屋天満宮の夏季祭礼の際に恵美須町・天神ノ森間を折り返す臨時便が出ていたそうで、その折返便に使用されていたと思われます。臨時といっても30分に一本程度のかなり緩い臨時だったと聞きました。ここの渡り線は保線用の引込み線絡みだったとも思われますので、その臨時便はここまで足を伸ばしてこの渡りを使用して折り返していったものでしょう。
もっと古く戦前には宮ノ下止まりの電車もあったのかもしれませんが、ある写真集に阪堺の古い方向幕の写真が出ており、そこには「宮ノ下」という表示はなかったと記憶しています。
いずれにしましても謎の多い電停ですが、阪堺電車自体古いものに関しての謎が多い電車ですので、それがまた魅力なのかもしれません。
迂闊でした。
申し訳ありません。
確認しましたところ、戦前の幕に「宮ノ下」がありますね。
コメント、お詫びして訂正させていただきます。
戦前は南朝の重臣たちをお祀りした神社をことさらに崇敬したようですので、阿倍野神社も相当大切にされ、その祭礼も臨時を出すほど賑わったのかもしれませんね。
>のりさん
ご訪問いただきありがとうございます(^^)
さらに詳細な情報もありがとうございます。
宮ノ下駅の幕は、まさにTwitter知といったところで、時折「実は…」とフォロワーさんがこっそり情報をくれたりします。
今回のはまさにホームランでした。
あとは、休止にしても廃止にしてもお役所に出した公文書が残っているはずなんですけどね~。本文のとおり、私は南海と阪堺が分離した時にまとめて廃駅にしたと見ていますが、証拠がないんで…。私はお次のミッション、「海道畑」へと進むことにします。
また何か情報がありましたら、宜しくお願い致します。
先日大阪市立中央図書館にて、上町線の運行について調べるため「南海鉄道発達史」を閲覧しておりますと、とても興味のある記述(311〜313ページ)が出てきました。
それによりますと、大正時代からこの本が発刊された昭和13年現在、朝ラッシュ時(7〜9時)に恵美須町・宮ノ下間を約7分間隔(当初は5分間隔)で折返電車を運行していたことが明記されています。
また、堺市内区間も高須神社と大浜海岸・御陵前間で、当初は4月〜11月で20分間隔でしたが、昭和13年当時はほぼ終日6分間隔で運行されていたようです。
昭和13年当時、阪堺線は最大3分間隔運転という今ではとても信じられない状況だったようです。
宮ノ下駅は私の実家のすぐ近くで、子供時代に阿倍野神社へ遊びに行った際によく行きました、廃駅の上歩いたり、引き込み線の中入ったり。運転士の人は何故か警笛一つ鳴らしませんでした。
阪堺には今は有りませんが、謎の引き込み線がもう一つありました、恵美須町駅と霞町(今の新今宮駅前停留場)の間の西側にかなり長い引き込み線がありました。今から50年近く前でしたがその頃からもう使われていませんでした。
当時恵美須町の平野線のホームに一両分の引き込み線がありましたが、これはひょっとして阪堺本線の引き込み線だったのか、それともあたりに当時倉庫がたくさんあったので貨物線だったのか、今でも不明です。こりについて書かれた文章はネットで探しても見つかりませんでした。
>月夜さん
こんばんは。拙ブログにコメントありがとうございます。
>謎の引き込み線がもう一つありました、恵美須町駅と霞町(今の新今宮駅前停留場)の間の西側にかなり長い引き込み線がありました
これはかつてその西側に車庫がありました。大正時代に現在のあびこ道の車庫にメインが移りましたが、車庫自体は戦後も残っていたようです。
車庫自体はたぶん昭和30年代にはなくなったと思いますが、その残滓が「長い引込線」で、昭和60年くらいまで残ってたようです。