戦前の杉本町駅の駅舎は東側にあった!?を検証する
Wikipedia先生の杉本町駅の項には、こんなことが書かれています。
停留所としての開業当時は東側(筆者註:大阪市立大学がある側)に改札口が設けられた(以下略)
Wikipediaより
杉本町駅の出入り口は、ほんのごく最近まで西側の一ヶ所にしかありませんでした。
西側ということは、大学とは真逆の方向に改札口があるということ。つまり学生にとっては不便極まりない。
阪和線は、知る人ぞ知る西日本屈指の混雑路線です。朝夕ラッシュ時は電車が線路上で「渋滞」していることもしばしばで、鉄道マニアでは知る人ぞ知る名物になっています。
そんな路線なので、踏切がいったん下りると「開かずの踏切」となってしまいます。
待ちきれずに無断で遮断器をくぐる学生もあらわれ、猛スピードで走る特急や快速に轢かれてしまう痛ましい事故も起こっています。
遮断器をくぐって無断横断することは良くありません。が、大和川を隔てた向こう側の住人の間でも「杉本町の開かずの踏切」のことは知っているほどの悪評だったので、気持ちはわからんでもない。
そのせいか、市大前の踏切は今でも「警手」がいる有人踏切です。踏切なんて自動化されて無人やんというのが常識な現在ですが、有人踏切は今の時代もかなり珍くなりました。私がまだガキだった昭和50年代のここは、人がレバーを回して遮断器を下げる、本当の意味のマニュアル踏切でした。
杉本町駅の駅舎は、なぜ市大に尻を向けた方向に位置しているのか。
これはある意味杉本町駅の七不思議だったのですが、ちゃんとこれにも「理由」があったのです。せっかく杉本町駅が表舞台に出てきたので、もののついでにこれも解決しておきましょう。
Wikipedia先生の記述通り、昭和4年(1929)に駅が作られた時の駅舎は東側にありました。『官報』などの文書的な証拠を探してみたのですが、ありそうで見つからず。
仕方ないので、ビジュアルで確認することにします。
(《論文》「戦前期の大阪商科大学杉本学舎の状況および周辺地域の変遷」より)
大学資料室に保管されている、杉本町の現在の市大キャンパスが完成した全景を描いた記念絵葉書です。あくまで絵なので、航空写真ではありません。
その中に杉本町駅も描かれていますが、駅をよ~~く見ると…
東側、つまり今の市大生活科学部校舎の前に駅舎があることがわかります。
ついでにもう一つ、昭和17年(1942)の航空写真より。
この航空写真を限界まで拡大してみると、東側にあった駅舎がかろうじて確認できます。
航空写真を元にしてペイントで作成した図です。
商科大学が移転した直後にはなかった、駅から予科・高商科校舎への道も完成しており、改札口が東側にあったということを表しています。名実ともに「大学前駅」でした。
今に残る駅のホームと大学校舎の位置から、だいたいここあたりにあったと推定できます。
ところが戦後、連合軍(実質米軍)が大学を接収してしまいます。
基地の前に駅舎があることはセキュリティ上問題があるとのことで、時期は不明ながら西側に駅舎を「移転させられ」ます。
昭和23年(1948)には、西側に駅舎があることがわかります。
接収期間は上に書いた通り10年間続くわけですが、接収解除になったら元通り東口に戻せばいいのではないか。
どうやら、戻そうとした、あるいは学生用に東口を「復活」する動きはあったようです。しかし、「地元商店街の反対で西側のまま残った」という経緯で、不便な構造になってしまったわけです。
「地元商店街」といっても、あそこに「商店街」なんてあったっけ?!と思ってしまいますが、駅舎から阪和線の踏切にかけては、昭和20年代にはすでに米軍相手の飲み屋や店が並び、ケバい格好の女性やいわゆるパンパンもたむろしていたと、返還寸前に入学した学生の回想にあります。
この証言から、杉本町駅界隈はいわゆる米軍兵士相手の「青線」だったのではないかという疑惑もありますが、証拠は全くないのでひとまず記憶の底にとどめておきます。
現在は東口が作られていますが、これも出来たのはほんの最近。このように歴史を掘っていくと、現在の東口改札は「新設された」のではなく、「約70年ぶりに復活した」という表現の方が正しいのです。
杉本町駅の跨線橋は戦後のものか
杉本町駅の駅舎とホームを結ぶ跨線橋があります。
外から見ると、今にも朽ち果てそうな・・・もといかなりの年季物だということがわかりますが、見たらわかるとおり今にしては珍しい木製です。
上の図や写真を見てもわかるように、昭和4年の開業時に跨線橋は存在していません。なぜならば戦前の駅舎は東側にあり西への出口はない。よって西側に通じる跨線橋があるわけがない。
この跨線橋は戦後に作られたことは確かなのですが、航空写真を限界まで拡大して確認してみました。
昭和23年航空写真:✕(なし)
昭和27年航空写真:△
昭和35年航空写真:○(あり)
昭和27年のものは大阪市内南部全体の航空写真のため、杉本町駅は拡大しても米粒ほどの大きさにしかならず、はっきり確認できずでした。当時のカメラの解像度の低さもあり、仕方ありません。が、跨線橋の影のようなものが見える気もするので、判定は○に近い△というのが私の感触です。
最近JRが金に物を言わせて阪和線の駅を無慈悲にリフォームしまくっているので、木造の跨線橋というだけでもかなりの個性を醸し出しています。その代わり、その分この駅はバリアフリーなんてクソ喰らえです。
ただ、開業当時のものを残しているものは存在しています。
それがこのホーム。写真で見てもかなり狭いことがわかると思いますが、実際はクソ狭いです。左側の通過列車専用の線路に防護柵がありますが、これをつけないと相当危ないです。
私が幼い頃どころか、ほんの10年か15年ほど前まで、阪和線の駅のホームはこんなクソ狭い幅のものが多かった記憶があります。
その代表の一つが東岸和田駅の下りホームでした。杉本町駅で狭いと言っていたら、かつての東岸和田駅はさらに狭い殺人ホームでした。おそらく、ホームの狭さは関西でも3トップに入っていたことでしょう。こんなホームで関空特急の『はるか』が猛スピードで(たぶんスピードは落としていたと思うけど)通過する時には、大人さえ恐怖を感じたものでした。JRはお客様を轢き殺す気かと。
作られた当時は、阪和線沿線の人口密度が低かったので、こんな狭いホームでも事足りたのでしょうが、 やはり人口急増で世界ホームでは人があふれてしまい、どんどん作り替えられました。今は杉本町駅の他には、私鉄時代の架線柱が残っている長滝駅くらいではなかろうかと思います。
杉本町駅は防護柵があるので、ここを通過する快速などの電車はスピードを緩めず猛スピードで通過していきます。狭いホームの列車通過の恐怖を少しでも、かつ安全に味わいたければ、ここのホームに立ってみるのもいいでしょう。ただし、立つだけね。
この記事もサラリと終わらせるつもりだったのですが、調べれば調べるほどおいしいこの歴史、お楽しみいただけたでしょうか。
あなたの近くの大学や母校も、調べて行くと思ってもみなかった歴史が埋もれているかもしれません。少し人生が退屈になってきたとき、身近にある知的な宝探しに出かけてみましょう。必ず新しい発見があるはずです。
最後に、市大キャンパス接収年表をまとめておきます。何かの参考にどうぞ。
■昭和18年(1943)12月30日 :海軍が文部大臣を通して大阪市長に商大予科・体育館の一時利用を要請
■ 昭和19年(1944)5月25日 :大阪市と海軍の賃貸契約締結
8月3日 :商大予科・高商科が帝国海軍大竹海兵団大阪分団(9/1に「大阪海兵団」に改名)に引き渡される(同時に、予科・高商科は大学本科校舎へ)
■昭和20年(1945) :8月15日:終戦
10月6日:大阪海兵団撤収
10月7日 :米軍、商科大学を接収。一週間以内の立ち退きを要求し、第二十五師団の隷下の兵舎として使用(キャンプ・サカイの始まり)
(昭和24年(1949):新制大阪市立大学設立)
■昭和25年(1950)6月~ :朝鮮戦争勃発。「キャンプ・サカイ」に駐留していた米軍の一部が朝鮮の出兵。 キャンプ施設の一部が空き、そこに陸軍病院を建設。朝鮮戦争の傷病兵が収容される。
■昭和27年(1952)8月11日 :大学の一部敷地の接収解除。現在の1号館周辺(グラウンドを除く)が市大に返還される。
■昭和28年(1953)7月27日 :朝鮮戦争休戦
9月 :日本側が大学の全面返還を要求(のち却下)
■昭和29年(1954)時期不明 :この頃まで、未返還エリアは病院として使われていたと思われる
6月16日 :米軍の海兵隊基地として使用開始
■昭和30年(1955):接収解除。大学の全面返還
あなたの知らない大阪秘史は他にもありますよ!
・『大阪市立大学史』
・『接収期杉本学舎の実態と周辺地域の状況について』松本裕行論文
・『今こそ知ろう!大阪市立大学の歴史-Hojicho大阪市立大学新聞
・『接収時と返還時の前後における杉本学舎と杉本町地域に関する記録』補足資料
・『大阪市立大学学舎接収時代史料群』田中ひろみ論文
・『戦争にふちまわされた大学 大阪市立大学』大阪市内で戦争と平和を考える
・『空撮写真で見る米軍接収時の大阪市立大学』
・『国会議事録に見る米軍駐留時代の大阪市立大学』
コメント
私がのぶさんのブログを読むきっかけになった記事をリライトいただいてありがとうございます。
改めて私が持っている資料を見返したのですが、やはり引き込み線を確認することはできなかったので、今回は台風の被害を被ったものとはいえ線路の写真を確認できて感動しました。
進駐軍から返還された1号館等は「まなびや」から大分改修されていたようで、当時の職員も克明に記録していました。
ちなみに、本館地区入って右手にある「旧車庫」は、当時から残る貴重な建物ですので、機会があればご覧になってください。
ときどき読ませてもらってます。
我孫子前にある某高校の校史で、アメリカ兵が遊び(視察?)にやってきた写真がありました。キャンプのご近所だからでしょうね。その縁でアメフト部ができた、とかいうような記述があったかも。そのかわり、校内にあった神社も撤去させられたんですが。
進駐軍専用線ですが、昭和32年発行の地図によると、杉本町駅側からではなく我孫子大橋近くで阪和貨物線から分岐するようになっていたようです。10年後の昭和42年の地図には描かれていないので、この間に廃止されたのだと思います。
検索からこの記事で見つけました。
以前から古い航空写真にある市大の線路らしきものの真実を知りたく思っておりました。
GHQの引き込み線ではと想定はしておりましたが、このブログのおかけで確信を得られただけでなく、多くの知らなかった情報を得ることができました。空中写真以外の写真や、引き込み線とは関係ないものの市大構内の遺構まで知ることができるとは。
読んでいてワクワクしました。本当にありがとうございます。
大阪市大卒業生です。私が学生の頃(今から30年前)は、キャンプサカイ時代のチャペルがありました。毛色の違う木造建築で、確か私が学生当時は保健管理センターだかそんなものだった記憶があります(新入生の時、一度だけ健康診断で行きました)まだ、当時は古い建物も残っていたので、もっとしっかり見ておくべきだったと、このブログを読み後悔しております。まあ、当時は大学生活が楽しくて、それどころではありませんでしたが(笑)そして、杉本町の狭いホーム!私が学生の頃はまだ柵もなかったので、快速が通るときは確かに怖かったですね。
ありがとうございます。