キャンプ・サカイに敷かれた謎の線路の行方

接収当時のキャンプ・サカイの航空写真を見てみると、駅から赤の矢印沿いに線路(引き込み線)が伸びていることがわかります。
線路の終点は、今の全学共通教育棟の裏側(北側)まで延びていました。入院していた元兵士の回想によると、全学共通教育棟や2号館などがあるキャンパス(旧教養地区)が病院になっており、受付を終えると病室になっていた2号館、3号館(現存せず)に収容されていたそうです。
話は変わって時は昭和25年(1950)9月、大阪に大台風が直撃しました。世に言うジェーン台風です。
この台風はキャンプ・サカイにも被害をもたらし、当時を映した記録フィルムによると木造の建物は全壊し旧校舎のガラスは至る所で破損していました。
その中に、数秒だけですが「おや?」と思ったシーンがありました。

線路、それも単線。これは謎の引き込み線ではないのか!?
線路の曲がり具合と、左側に米軍の敷地を示す金網があるので、場所はだいたい予測がつきました。

方向は東から西、写真の矢印の方向に撮影したものと思われます。
資料によると、昭和29年(1954)はじめに病院は閉鎖されました。それと同時に引き込み線の役目はおそらく終えたと思うので、線路はその時、あるいはそれまでに撤去されたはずです。
阪和貨物線が出来たのは昭和27年(1952)のこと。もし29年まで残っていれば、連合軍用引き込み線と阪和貨物線が、同じ杉本町駅でダブっていた時期が約2年間あったはず。
その仮説をもとに航空写真をチェックして
みました。

阪和貨物線の路線を確認できます。貨物線の開業はこの年の9月なので、写真の時は線路すら敷かれていなかったかもしれませんが、キャンプ・サカイへの引き込み線はこの時点で撤去されています。
この連合軍専用線路がつ撤去されたのか、今のところ記録としては見つかっていません。

お次は、市大(現在の大阪公立大杉本キャンパス)の中に残る
「キャンプ・サカイ」の痕跡と、引込線の跡を現地で探します!
コメント
私がのぶさんのブログを読むきっかけになった記事をリライトいただいてありがとうございます。
改めて私が持っている資料を見返したのですが、やはり引き込み線を確認することはできなかったので、今回は台風の被害を被ったものとはいえ線路の写真を確認できて感動しました。
進駐軍から返還された1号館等は「まなびや」から大分改修されていたようで、当時の職員も克明に記録していました。
ちなみに、本館地区入って右手にある「旧車庫」は、当時から残る貴重な建物ですので、機会があればご覧になってください。
ときどき読ませてもらってます。
我孫子前にある某高校の校史で、アメリカ兵が遊び(視察?)にやってきた写真がありました。キャンプのご近所だからでしょうね。その縁でアメフト部ができた、とかいうような記述があったかも。そのかわり、校内にあった神社も撤去させられたんですが。
進駐軍専用線ですが、昭和32年発行の地図によると、杉本町駅側からではなく我孫子大橋近くで阪和貨物線から分岐するようになっていたようです。10年後の昭和42年の地図には描かれていないので、この間に廃止されたのだと思います。
検索からこの記事で見つけました。
以前から古い航空写真にある市大の線路らしきものの真実を知りたく思っておりました。
GHQの引き込み線ではと想定はしておりましたが、このブログのおかけで確信を得られただけでなく、多くの知らなかった情報を得ることができました。空中写真以外の写真や、引き込み線とは関係ないものの市大構内の遺構まで知ることができるとは。
読んでいてワクワクしました。本当にありがとうございます。
大阪市大卒業生です。私が学生の頃(今から30年前)は、キャンプサカイ時代のチャペルがありました。毛色の違う木造建築で、確か私が学生当時は保健管理センターだかそんなものだった記憶があります(新入生の時、一度だけ健康診断で行きました)まだ、当時は古い建物も残っていたので、もっとしっかり見ておくべきだったと、このブログを読み後悔しております。まあ、当時は大学生活が楽しくて、それどころではありませんでしたが(笑)そして、杉本町の狭いホーム!私が学生の頃はまだ柵もなかったので、快速が通るときは確かに怖かったですね。
ありがとうございます。