難波病院跡のその後
大正13年7月に住吉に移転した難波病院ですが、跡地はどうなったのか。

(大阪市街全圖(1928)より)
浪速区役所になっています。現在でも同じ位置に区役所がありますが、他の地図や昭和17年の航空写真を見ると跡地すべてが区役所に…というわけではなさそうです。
難波病院が住吉に移転した3ヶ月後の10月、山田晁(あきら)という人物が難波に小さな町工場(大阪金属工業)を建てました。現在のダイキン工業なのですが、
ダイキンが戦前に作った珍製品の記事の執筆のため、図書館でダイキンの社史を読みあさりました。そのときの創業の地の位置に、私の頭の上に「!!!!」が炸裂しました。

あれ?難波病院の跡地やん?
ダイキン社史の地図がざっくりなので断定はできないのですが、難波病院のすぐ近くか敷地内なのです。難波病院の敷地の広さを考えると、払い下げられた府有地の一角を大阪金属工業が工場として利用した…そんな仮説が成り立ちます。もう少し精査が必要ですが、難波病院がダイキンに…と思うと胸が躍ります。
難波病院の現在
上述したとおり、難波病院は戦後すぐの1946年に「府立大阪病院」に改名し、「ふつうの病院」として再スタートしました。元の性質上、最初は性病・泌尿器科を得意としていたそうですが、のちに数々の診療科を併設し総合病院としての道を歩みました。

そして現在、「大阪府立病院機構 大阪急性期・総合医療センター」として難波から住吉に移転した場所に現存しています。
遊廓は、一言で言ってしまうと「穢れ」、性欲のトイレでした。
その間接的な証拠に、「穢れ」に携わったとして関係者が一様に口を閉ざすことが多いことが挙げられます。自分が関係者だったこと、そして該当エリアが色里だったことを隠し、そのまま風化して黒歴史化を待つ人が多いのも事実で、「新地もん」と小学校でいじめられたという妓楼の子息の話も聞いたことがあります。
なので、隠そうとする、傷ものなので触れてくれるなという人の気持ちもわからないでもない。
大阪急性期・総合医療センターの前身難波病院も、その穢れの一つですが、どのように紹介されているのか。
PR動画で松島の駆梅院が発祥という紹介をしており、黒歴史化していないようです。遊郭を知らない人がこの動画を見ると、
「楳毒院(=駆梅院)って何じゃそのおどろおどろしい名前は!?」
と一抹の不安を覚えるかもしれませんが、きちんと理解すればどうということはありません。
遊郭はなくなりましたが(とも言えないけれどそれはおいといて)、それをルーツに持つ病院は、フルモデルチェンジして今日も大阪の医療の最前線に立っています。
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