木津川駅の開業から現在までの歴史|木材とともに歩んだ栄枯盛衰
上述したとおり、木津川駅が開業したのは明治33年(1900)9月3日のこと。
当時は南海ではなく高野鉄道(高野登山鉄道)の駅としてでした。
この駅が作られたいちばんの理由、それは旅客ではなく貨物でした。

上の地図を見てもわかるように、駅のすぐ西側には船着き場が設けられていました。
主に高野山あたりから搬出された木材は、いったんここに集められます。ここで整理された木々は木津川を通り、水路で大正にあった貯木場まで運ばれていました。

貯木場も大正7年(1918)に、西区から大正へいっせいに移転しました。
黄色で囲んだ水路や人工の池が貯木場、赤丸が木津川駅です。駅と貯木場の地理的な隣接感がわかります。
木材問屋や加工業者も貯木場近辺に集中し、大正に日本一の材木街が誕生しました。木津川駅も高野山だけでなく、富田林や千早の木々の輸送も担うことになりました。

昭和初期の木津川駅の線路配置を見ると、貨物用の側線が何本も並び、木津川駅の「黄金の日々」を彷彿とさせます。
実際の数字を見ても、
(昭和9年)
木津川:97,376t
汐見橋:77,414t
堺:86,309t
和歌山市:197,895t
(同13年)
木津川:183,248t
汐見橋:213,869t
堺:99,101t
和歌山市:222,182t
(出典:『大阪府統計書』『和歌山県統計書』)
かなり繁盛していたことがわかります。
昭和9年から13年に貨物量が倍増しているのは、「非常時」における生産体制の増強があるのは間違いありません。

大正12年(1923)の大阪の地図で見た木津川駅の周辺には、煙を吐く何かしらの工場が建っていることがわかりますが、大正でこれなので昭和に入るとさらに増えていたと想像できます。
1日あたりの乗降客数も、
昭和9年(1934):337人
昭和10年(1935):499人
昭和12年(1937):805人
昭和14年(1939):1125人
昭和15年(1940):1465人
(出典:『大阪府統計書』)
10年で7倍になっています。特に昭和12年からの伸びがすさまじい。
おそらく工場に通勤する人の利用が急増したのだと思われます。現駅舎が建てられたのも、急増する利用者に対処すべく「立派な」ものが作られたのは、この数字を見ても明らかでしょう。
木津川駅の衰退、そして「秘境」化
やはり軍需工場が固まっていたのか、先の戦争ではここあたりも空襲の被害を受けます。
戦後の衰退は、輸入木材の流入、木材需要自体の減少、貨物輸送のトラック化も要因ではありますが、何より貯木場が大正から南港の平林(現位置)に移ったのが大きいでしょう。
木材問屋や加工屋は大正に残ったのも多いのですが(大正に輸出梱包屋が多い理由がこれでわかった…)、木材輸送の要だった大正運河も埋め立てられ、大正の貯木場は昭和40年代前半にその役目を終えました。
南海高野線の貨物輸送が廃止になったのは、その3年後の昭和46年(1971)。木津川駅の黄金の日々も終焉を迎えました。
その後、工場などは残るものの本来の役目を終えた駅は、船着き場も埋め立てられ貨物ヤードもほぼすべて撤去され、残ったのはだだっ広い空き地のみ。

かつて船着き場と貨物ヤードとして繁盛した場所なのですが、おそらく貨物輸送の廃止と共に要らない子扱いされ、埋め立てられたのでしょう。繁栄の面影はどこにもなく、アスファルトの間から伸びる草花が時の経過を物語っています。大阪の中のロストワールド。
現在の木津川駅とその周辺の姿|都会の秘境駅前はどうなっているのか
ではなぜ、ここが秘境駅と呼ばれているのか。
もう一つの理由、それは改札口を出るとわかります。

「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」
川端康成の『雪国』の有名なオープニングですが、木津川駅の場合は
「改札を抜けるとそこは砂利道だった」
と表現すれば良いのであろうか…。未舗装の砂利道なんて久しぶりに見た。
改札口を抜けるとこの通りの風景。駅に降り立った旅人は、あまりの何もなさに途方に暮れ、ある種の絶望感に襲われることとなるでしょう…といっても、何の目的もなしに非地元民がここに降り立つことはないと思いますが。
何もないことはないだろうと思うけれども、先日の雨でぬかるんだ、しかしどこか懐かしい感がする砂利道を歩いてみました。が、奥へ進めば進むほど、あるのは工場の廃材置き場だけで人の気配はほとんどしません。これが秘境と呼ばれるゆえんか。

ただ、「人が住んでいる痕跡」は発見できました。路上に住んでいるようですが…。

「ゴミを捨てるな!」
というところに敢えてゴミを捨てているのが、大阪らしいブラックユーモアというかなんというか…。ここは大阪です、紛れもない大阪の「秘境」の現実なのです。
おわりに
南海汐見橋線木津川駅は、「大阪市内の秘境駅」として一部のマニアからは熱い駅となっていますが、彼女の黄金の日々を知れば知るほど、過去、いや現在の姿が夢のように思えてしまいます。
かつては高野山からの木材輸送で隆盛を極めたこの駅も、今はその役割を終え、現在のような静かな(?)姿へと変化しています。
奇異の目で見るのではなくその歴史に目を向けると、「秘境駅」もよる味わい深いものがあるのではないでしょうか。ロスト・オーサカもかつての「大大阪」を支えた繁栄の跡なのだから。
木津川駅は、これからも大きく変化することはないでしょう。だからこそ、都市の空間に残る歴史の断片として存続してくれることを切に願いつつ、今回は読み終わり。








コメント
はじめまして。国鉄停車場配線略図から貴サイトに入っていきました。
阪和電鉄の一連のコンテンツは楽しみながら読まさせていただきました。阪和線自体は行楽の時以外は乗車したことがありませんでしたが、残り少ない戦前の遺構にこの電鉄の野心的な歴史を垣間見ました。さて、木津川駅の秘境ぶりには驚かされました。貨物は紡績工場関係かと勘繰っていましたが、水運との繋がりによる木材がメインだったのですね。私は千葉市に在住なので、汐見橋線には気軽に乗車できませんが、近々大阪へ行く予定があるので沿線をしっかり観察したいと思っています。ある日突然「廃止」の告知が出ないうちに。それから、貴サイトのトップページの写真は、地上時代の枚方市駅ではありませんか。天満橋方の旧貨物ホームあたりからのアングルかもしれません。私は子供の頃に京阪沿線に住んでいたので、この駅は頻繁に利用しました。これからもコアな記事を期待しています。