なんばパークス南で謎の遺跡が!その正体を追う

なんば遺跡ニッピ工場大阪史
スポンサーリンク

難波にはむかし、何があったのか

難波と「難波御蔵」

難波近辺は、むかし一体なにがあったのか。

なにもありませんでした(笑)

これじゃあ味気もへったくれもないので、もう少し具体的に説明すると。

1872年明治時代大阪難波地図

明治5年(1872)の難波駅近辺の地図です。文字通り何もありません。少し右側(東)を南北に走る堺筋、現在でんでんタウンがあるところ、は宿場が並ぶ繁華街(大阪一のスラム街でもありましたが…)、むしろこっちの方が江戸時代の幹線道路沿いなので賑やかなほどでした。

この地図の約13年後、南海鉄道難波駅が地図赤丸の位置に開業します。ところが、開業当時の難波駅近辺は

 

「人家は多少あったが多くは葱(ねぎ)畑だった」

引用:『開通五十年』1936年南海鉄道編纂 pp.9

という有様。南海様の公式歴史書にこう書かれているくらいなので、よほどネギ畑しかなかったのでしょう。

かつて、難波近辺はネギの一大産地でした。「なんば」が関西産ネギの代名詞だったこともあり、『鴨南蛮』の南蛮は「なんば」が訛った説もあります。実際、お店によっては『鴨なんば』と表記されている店もあります。
そのネギ畑の真ん中に駅を作ったようなものだったということで、今の人大杉の喧騒からは全く信じられません。

ちなみに、『今宮町史』によると、隣の今宮近辺はレンコンの産地だったそうです。

そのネギ畑ばかりの難波に、こんなものがありました。

江戸時代末期幕末の難波地図

江戸時代、難波には大きな米蔵がありました。これを「難波御蔵」と言います。享保の飢饉の教訓として1732年(亨保17年)に作られた幕府直轄の施設1で、災害や飢饉などの際に米を供出できる、ため池ならぬ「ため米蔵」の役目を担っていました。

この米蔵は維新後も残り、おそらく新政府に管理が移されたものと思われます。

明治時代南海難波駅

開通直後の南海難波駅を発車する汽車(※電車ではありません)の左にある土塀、これが難波御蔵です。現在は電車の両数が多くなり、視覚ではあまり感じませんが、実際に電車に乗ってみると難波駅を発車した電車はいきなり少しカーブします。これは難波御蔵があった影響なのです。

御蔵は明治30年(1897)2に役目を終え解体され、今は碑しか残っていません。

 

大蔵省専売局煙草工場

明治になり使われなくなり、すなわち要らない子扱いされた難波御蔵は解体され、翌年の明治31年には跡地に大蔵省専売局の煙草工場となりました。

 

大阪市パノラマ地図難波

現在のなんばパークスすべてが工場の敷地と思えば、その大きさがだいたい把握できることでしょう。

上の地図は大正12年(1923)刊「大阪市パノラマ地図」の難波の部分を切り取ったものですが、周囲に比して専売局のレンガ色の建物群の大きさが目立ちます。

 

昭和17年大阪市航空写真難波近辺

昭和17年(1942)の大阪市航空写真です。当然ながら、専売局の建物も存在しています。私が知りうる限り、現存しているものとしては、戦災で焼け野…いや更地になる前の難波の最後の姿です。詩的な表現をすれば、大大阪時代の空の遺影です。

上述したとおり、難波近辺は昭和20年(1945)3月の空襲で焼失…いや「消失」という言葉がふさわしいほど焼き尽くされました。
空襲直後の難波駅周辺の写真は何枚かありますが、今回のお題にふさわしい専売局方向の写真を。

 

1945空襲で焼けた難波駅周辺高島屋135年史
(出典:『高島屋135年史』)

空襲直後の、高島屋から見た専売局です。高島屋はあの空襲でもほぼ無傷でしたが3、南海の駅のホームはほぼ全焼、屋根の骨組みだけが残る無残な姿に。

その奥の専売局、一見無傷のように見えますが、残ったのは外壁のみで中は焼けて跡形もありません。専売局自体もこの空襲の日をもって機能不能となり、「ご臨終」となっています。

ちなみに、この煙草専売局の現役当時の写真、ググったら何枚か出てくるだろう…と思っていたら、一枚も出てこないという予想外の結果に。そんなに残ってないのか!?そんなアホな!?と首を傾げつつも、今度大阪の図書館に行った時に問い合わせてみようと思います。

 

1948年難波航空写真

空襲から3年経った昭和23年(1948)の写真では、専売局の部分は残った建物も解体され完全に更地となっています。

 

大阪球場と南海ホークス

上の写真から2年後、専売局跡地に南海ホークスの本拠地である大阪球場などが作られます。
「ホークス」と言えば今年の日本シリーズでも日本一になった「ソフトバンクホークス」がその代名詞になっています。が、その前の前は「南海ホークス」という南海電鉄が所有していた球団でした。

 

南海ホークスと大阪球場

昭和50年の航空写真より。専売局跡がほぼ大阪球場になっていたことが目視で確認できます。昭和50年と言えば、先日亡くなった野村克也さんがホークスの選手兼監督だった時期です。
難波駅の横にプロ野球の球場があった…私はリアルタイムで知っています。知ってるどころかここで行われたオールスターも見に行きました。5歳か6歳の頃だったので球場がすごく大きく感じたのですが、実際はそうでもなかったそうです。

そして長~~い低迷期を経て人気も凋落した末にダイエーに身売りされ、福岡へ本拠地を移したのが1988年。それからもう30年以上経つので、平成生まれは「南海ホークス」をリアルタイムで知らないという計算になります。

もっとも、大阪球場自体は1998年まで住宅展示場などの多目的施設として残っていたので、

なんか難波駅横に球場らしいのがあったような…

とおぼろげな記憶を持っている20代もいるはず。

その跡地に作られたのがなんばパークス。そして現在に至っています。

NEXT⇒あの「遺跡」は何だったのか?
  1. 敷地は東西127m、南北327m。
  2. 明治31年説もあり。
  3. 焼夷弾が何発か入ってきたが、従業員の消火隊が必死で消火しボヤ程度で済んだそう。
スポンサーリンク
error:Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました