地下道の出口の現在は?資料から明らかにするその位置
大阪府立中之島図書館で、あるマニアックな資料を発掘しました。
『天王寺鉄道管理局三十年写真史』という本です。
JRが国鉄だった時代、全国に「鉄道管理局」が置かれ列車の運行管理を行っていました。天王寺管理局はその中の一つで、阪和線はもちろん、大阪環状線や関西本線(大和路線)、果ては天王寺とは何の関係もなさそうな、三重県の参宮線や紀勢本線全線も管理範囲でした。参宮線なんか今やJR東海でっせ。
2010年にJR西日本の統括本部に吸収され、天王寺鉄道管理局の看板は下ろし消滅しましたが、それでも運行管理上でのターミナルとしての機能は残っています。
この写真集には、今まで見たこともないような非常に貴重な写真の数々がおさめられているのですが、その中に、私の目と意識を釘付けにさせた一枚の写真があります。
( 『天王寺鉄道管理局三十年写真史』より)
昭和36年頃、ステーションビル建設のために取り壊し中の旧阪和電鉄駅舎です。奥に見える高い建物は近鉄南大阪線あべの橋駅と近鉄百貨店、今のあべのハルカスです。今の駅を見ても信じられないほどのカオスっぷりを見ると、かなりの大手術だったことが伺えます。
( 『天王寺鉄道管理局三十年写真史』より)
取り壊し中の写真で注目すべきは、黄丸で囲った部分です。広告塔の下の地下道の出口にあたりますが、どうも下が空洞になっているっぽい。地下道があった証拠写真とも言えます。
この写真を見て、はっと我に返りました。天王寺駅の地下道の出口の認識、間違っているんじゃないかと。
幸い、周囲の道筋は変わっていないので、旧駅舎が残っている当時の航空写真と現代のGoogle Mapを照らし合わせた結果、こうなりました。
出口がステーションビルのコンコース内に入っていたのです。
上手い具合に(?)、私が推定した出口の場所に、地下への階段があります。後に説明しますが、この階段は最近できたわけではなく、駅舎である「天王寺ステーションビル」が作られた昭和37年(1962)から存在していたものです。あくまで推定ですが、阪和電鉄の地下出口を再利用した可能性はゼロではない。
ミオチカは戦前の地下道の再利用?
これはあくまで仮説のため、間接的にでも根拠が必要ですが、やはり探せばあるもので、こんな資料が見つかりました。
(『天王寺ステーションビルディング』より)
天王寺駅となっているステーションビルは現存しますが、写真は昭和37年(1962)に完成した時の写真です。
(『天王寺ステーションビルディング』より)
写っているのが電車ではなく、ディーゼルカーであることに注目。昭和37年当時関西本線(大和路線)は電化されておらず、ディーゼルカーだったのです1。ちなみに、写真のディーゼルカーには、「湊町-柏原」と書かれていました。
しかし、この資料で珍しいのはこれではありません。
「探せばあるものだ」と書いたのは、天王寺ステーションビルの完成案内、それも業務用のもの。業務用ということは、外部にはあまり公表しないことも書いているということ。
(『天王寺ステーションビルディング』より)
天王寺ステーションビルが出来た当時の地下1階の図です。図の赤で塗った部分が現在「ミオチカ」になっています。
当時は「あべちか」はなく(出来たのは昭和43年)、番号5と6の間の道が、現在「あべちか」と地下鉄谷町線の駅につながっています。番号1と8の場所は現在スーパーなどになっていますが、当時の店舗もスーパーだったようです。
数字の2~3あたりは業務用スペースで、我々利用客には普段見えない部分です。3は「運搬用スロープ」と書いておりますが、
天王寺駅北側、阪和線ホームの端にこんな地下道への入口があることはご存知ですか?
「ミオチカ」への貨物の仕入れ口なのですが、おそらくここと番号3の部分がつながっているかと思います。
これが現在の「ミオチカ」の図です。上のステーションビルの地下1階の図と比べても、基本的には変わっていないことがわかると思います。
赤で囲んだ階段・エスカレーターの図、向かって左側、黄色で囲んだ部分が、おそらく阪和電鉄時代の地下道を再利用した部分だと推定できます。
何故そう言い切れるかというと、地図左上の階段を登ると、そこは…
この連絡口へとたどり着くから。この真下には、今も阪和電鉄時代の地下道が、関係者以外には知られることもなく眠っているはずです。
私なりの結論は、
写真の阪和天王寺駅前や地下道からの出口周辺は、
天王寺ステーションビル(現天王寺Mioプラザ館)のエレベーター付近で、
地下道の出口と階段は、ここあたりにあったと推定されます。地下へ通じる階段通路も、地下道出口を流用したものと思われます。
もう一つの地下道
下の私のヘタクソな地下道図を見て、おや!?と気づいた人はいるでしょうか。
②④ホームの階段付近に、赤の点線の道が書かれています。天王寺駅の地下道にはもう一つ、未確認の地下道があったのです。
資料によると、板塀で封印され先へは進めないものの、点線の地下道があることは確かなようです。情報をいただいた方からも、同じ場所に地下道らしきものがあると指摘がありました。
一見すると出口と全く関係ない方向へ続いてそうな、ミステリアスな地下道。この目的は?何のために作られたのか?
この謎を解くためには、阪和線天王寺駅の原点of原点に戻らないといけません。
(『鉄道史料』より)
大正時代、計画当初のの阪和天王寺駅の予定図です。黄色で囲んだ部分に、降車ホームの階段とつながった地下道が見えます。その地下道は実際の地下道とは全く別の方向へ伸びています。
当初の目的は、この図の通りに地下道を作り、出口も全く違う場所に作るはずでしたが、道を作ってはみたものの、用地買収の遅れなどで当初の予定から狂いに狂ってしまい、予定通りに地下道を作ったものの途中で設計変更になり放置されたと思われます。あるいは、予定通り出口として使われたものの、諸事情で短命に終わった と推定できます。
Google Map上で地下道を示すと、こんなふうになります。赤線が現時点では幻の地下道です。この地下道の謎も、少し気になりませんか?
天王寺駅 最後の(?)謎
そして、最後の謎として残った…
この線路の曲がり具合の謎は何なのか。ここで、昭和29年の資料に再登場していただきます。
これを見ると、あの曲がり具合、私鉄時代のホーム端から本線に入ろうとするためカーブしていた名残のようです。上図赤の矢印がカーブの部分と思われます。
阪和線天王寺駅は、戦後2回に渡って大規模改修工事が行われました。すでに述べた昭和30年と昭和56年ですが、おそらくどちらかの工事の時、ホームが延長されて線路のルートも変わり、クネっとS字のようになったのでしょう。
調べてみると、実にあっけない…。でも答えがわかってスッキリした自分がいます。
おまけ-地下道の残骸?謎のもう一つの地下道
いったん天王寺駅の外に出てみます。阪和電鉄の遺構は何も駅の中だけにあるものではありません。
地図上の星マークの場所に、
コンクリートの壁があります。
何の変哲もない壁ですが、正方形の型がある壁は色が塗られているものの、阪和電鉄開業当時から残る壁の遺構です。たかがコンクリート壁なのですが、80年の風雪を黙って耐えてきた阪和電鉄最後の生き残りだと思うと、頑張れと声をかけたくなります。たかがコンクリートの壁なのに。
で、その壁のすぐ近くに阪和線ホームの下をくぐる地下道が存在しています。
画像でもなんとなくわかるかもしれませんが、真上に阪和線ホームがあるせいか、天井が非常に低い。公式には高さ2.1mだそうですが、身長160cm台後半の私でも相当の圧迫感があります。
上記の「阪和電鉄時代の壁」から地下道を抜けると、この古ぼけた…もとい古めかしい出口に当たります。
阪和線ホームの地下道の存在を中途半端に知っている人は、阪和線のホームを跨ぐこの地下道の構造から、
これも阪和電鉄時代の遺構に違いない!
と早合点してしまいます。実際、そういう人がネット上にちらほらと。
しかし、そういう方はここを見逃しています。
地下道の横に、ちゃんと1954-12(1954年12月)という刻印があります。
しかし、これは阪和電鉄の遺構に違いないといったん思い込むと、刻印を見ても見ぬフリをし、最後は自分は間違ってない、刻印の方が間違っているという思考になります。私も人のことは言えませんが、思い込みとはかくも怖いものなのです。
で、後で裏付けを取ってみるとこの地下道の正式名称は「悲田院町地下道」と言い、計画自体は阪和天王寺駅開業からあり工事も進められました。
『鉄道史料』の資料内にあった、地下道の設計図です。
しかし、途中で工事が中断したのか実際に開通したのは1954年、つまり昭和29年。また昭和29年が出てきましたが、この記事は「昭和29年」と何かと縁があります。
しかし開通したのは北半分だけ。現在の南の出口が出来たのは昭和59年(1984)と案外新しかったりします。
この道はもともと、四天王寺を起点とする庚申街道(こうしんかいどう)と呼ばれた旧街道でした。阪和天王寺駅開業で道自体が分断されてしまったものの、昭和29年に地下道を作って街道を復活させたということです。
おわりに
天王寺というと、今やほぼイコールな阿倍野橋地区。
そこに「あべのハルカス」という、日本一の高さのビルが最近できたのは数年前のこと。あべのハルカスのような21世紀の現代ものもいいけれど、そこの足元に埋もれた「近代遺跡」に思いを馳せてみてもいいのではないかと思える、今回の「発掘」でした。
私の中では大満足です。おそらく、もう掘れるものは掘った。ここまで掘ったら新しい発見はもうないと思います。そう心から言い切れるほど、私の中では掘り尽くした感があります。
もうないやろ、さすがにもうないやろ…何かあったら持って来い。ここまで来たら毒を食らわば皿まで、とことんまで付き合うたるわ。
そう胸を張って言い切りつつ、「天王寺駅の怪」はおしまいとさせて頂きます。
しかし!まだ書き残していたことがありました。
お次は、番外編的なある謎の建造物を。
・『鉄道史料』鉄道史資料保存会(※阪和電鉄に関係ある号 第129号、第136号など)
・『鉄道史料 第108号 南海山手線の考察』竹田辰男著
・『天王寺鉄道管理局三十年写真史』日本国有鉄道天王寺鉄道管理局/編
・『日本国有鉄道百年史』日本国有鉄道編
・『天王寺ステーションビルディング』天王寺ステーションビルディング編
・『天王寺駅旅客流動状態一覧』1948年
・『駅勢要覧 天王寺駅』1954年
・『関西の鉄道18 JR阪和線・紀勢線特集』関西鉄道研究会/編(1988年)
・『阪和線 激動の軌跡』すばる社編
・昭和17年大阪史航空写真-大阪史公文書館蔵
・ブログ多数
・阪和電鉄パンフレット多数