天王寺駅の怪-天王寺駅に残る阪和電鉄の遺構たち【阪和線歴史紀行】

阪和電鉄阪和線天王寺駅 歴史探偵千夜一夜
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5~6番線ホームの新たなミステリー

5~6番線ホームをふと観察していると、ホームに線があることに気づきました。

阪和電鉄天王寺駅ホーム

地下道はこのホームの真下を走っていますが、ホームには天王寺駅を毎日利用している人すら気づかない、あるものが残っています。

阪和電鉄天王寺駅ホーム

ホームにうっすらと線が…。その線は、意識しないとわからない程度の線なものの、東西方向(和歌山方面)に延々と伸びていることに気づきます。

そして、その線をホームと逆方向に追っていくと…

阪和線ホーム天王寺駅mio口

このMio地下連絡口にぶち当たります。地元民の私でも、こんなところいつの間にできたのか記憶にない出入口ですが、これが後々、謎を解いてくれるキーとなります。

そしてこの線が、もう一つのことを示唆してくれています。

今の6番ホームとこの線のちょうど中心に、鉄柱が建っていることに気づきました。
腕を伸ばし、柱からホーム・謎の線のだいたいの距離を測ってみましたが、アバウトで鉄柱が中心になっています。

ここでピンときた私、こういう仮説を立てました。

阪和電鉄天王寺駅ホーム

「今の5~6番ホームは、阪和電鉄時代はこの幅だった」

 

 5~6番線の仮説を立証してみる

そこで仮説の証拠探しを始めたのですが、むーさんという方のブログで、

「!!!」

とアンテナが反応した写真がありました。本人様の許可を得たので、私のアンテナがビンビン反応した写真をアップします。

昭和29年、阪和線天王寺駅の写真
阪和線天王寺駅、昭和29年
(出典:むーさん「突然ですが天王寺駅阪和線ブレ写真」より)

今から63年前、 昭和29年8月に天王寺駅で撮影されたという阪和線の写真ですが、アップされたご本人は、国鉄になっても現役で活躍する阪和電鉄の電車と、写真左に停車している電気機関車に視点を置かれていました。

前編に書いたとおり、阪和電鉄は昭和ヒトケタの水準としては化物のような電車を投入し、阪和間をスピード違反上等で暴走していました。
が、今でも伝説に残るほどの猛スピードを出せたのも、電車の性能だけではなくスピードを出せるほどのレールと地盤があったから。当時の常識では「新幹線もどき」と言っていいほどのもので、やたら直線が多い上に駅間が短く、各駅停車などが特急などの優等列車を退避できる駅が多いのも、私鉄時代の残滓です。

私鉄が国鉄に買収された場合、国鉄型より性能面で劣っている旧私鉄の車両はふつう廃車となります。しかし、阪和線がただの私鉄ではなかった話はこれから。
阪和電鉄の電車はガンダムに例えるなら、国鉄型がザクなら阪和の電車はジョニー・ライデン少佐専用高機動型ゲルググ。性能差がありすぎて国鉄の運転手には手に負えません。

「南海山手線」だった阪和線が、昭和19年に国家権力でボッシュートされた時、南海電鉄は運転手はおろか、鳳車庫にあった電車の部品もすべて、「ネジ一本残さず」(by当時の社員)南海に引き揚げてしまいました。
残ったのは車両という抜け殻だけ、こんな化け物動かせるものなら動かしてみろバカヤローというわけです。

阪和線浅香駅(モヨ+モヨ+クヨ)
(1958年、浅香駅)

 戦後、国鉄は自車両と部品を共有するため、性能をザク並みにダウンさせたものの(性能は下がったけれど、代わりに故障が激減した)、「阪和線専用ザク」として戦後も阪和線の主として君臨し続け、昭和43年(1968)まで走り続けました。
戦後10年経った昭和30年当時でも、阪和線を走る国鉄型電車が21両に対し、旧阪和電鉄の車両は68両。ふふふ、圧倒的じゃないか我が軍は、という声がどこからか聞こえてきそうです。

それはさておき、旧私鉄の車両を国鉄が何十年も使い続けるなんて、日本鉄道史空前にして絶後のケース。それだけ阪和電鉄の電車が鉄道史に残る化物だったということです。

話を元に戻します。

阪和線ホームは、実はこの写真の半年後の昭和30年(1955)3月から、大改造工事が始まってしまいます
完成したのは昭和37年(1962)だそうなので足掛け7年の大工事、事実上の天王寺駅の作り直しです。

戦前の面影を残すホームはこの昭和29年が最後となるのですが、それを意図して撮影したわけではないとは言え、歴史的にも貴重な写真なのです。

ところで、この写真が本当に昭和29年のものなのか。ご本人の記憶や証言以外にも、客観的な証拠が写真に残っています。

昭和29年、大改修前の阪和線天王寺駅ホーム

昭和29年、大改修前の阪和線天王寺駅ホーム

黄色の矢印で示したものは信号機です。2枚目はかなりブレているのでわかりにくいですが、信号機が3つあるということくらいはわかります。

これを証明する資料が存在します。

昔の天王寺駅構内図

昭和29年(1954)の、天王寺駅がおそらく内部向けに発行した第一次資料です。

29年の何月かは不明ですが、調査時期はむーたんさんが写真を撮ったほぼ同時期だと思われます。
年代一致はただの偶然ですが、こんな偶然は山のような資料の中でも滅多になく、これを見つけた時ある種の運命を感じました。

上に書いた通り、昭和30年から、阪和線天王寺駅のホーム改良工事が始まります
今の7~8番線(時期を少し置いて9番線も)もこの時に建設されたそうです。この工事で現在の天王寺駅の原型が出来ると同時に、阪和電鉄時代のホームの面影はほぼなくなります。

この図は、阪和電鉄時代のホーム配置図を示す最後かつ非常に貴重な資料です。よくぞこんなどうでもいいものが現代でも残っていたと、発掘した時は感激しました。

これを元に信号機の位置を照合すると…

昔の天王寺駅構内図

写真の信号機の位置と、配置図の信号機の配置が完全一致しました。
これで写真が少なくても昭和29年以前ということがこれでわかるわけですが、これだけピタリと合うと、ジグソーパズルのピースがスイスイ埋まっていくようである種の快感を覚えます。

この写真を撮した位置を配置図に落としてみると、

こうなります。「当時の6番線」に電車が進入、あるいは発車したことがわかります。
当時のホームや線路から、改良工事を経てどう変わったのか。半分推測が入っていますが、上の資料の上に落とし込んでみました。

昔の天王寺駅構内図

上の電車が止まろうとしていた、または発車しようとしていた当時の6番線は、大手術によるホーム拡張で埋もれてしまったのです。
今の5番線と6番線ホームの間隔が、屋根柱を中心にすると左側に拡がっているのは、線路1本分を埋めて作られたからなのです。

結論をまとめると、

阪和電鉄天王寺駅ホーム

阪和電鉄開業当初~昭和30年は、私の仮説のとおり黄色で塗った幅だった。

阪和電鉄天王寺駅ホーム

昭和30~37年の阪和線ホーム改良工事で、赤で塗った部分までホーム幅が拡張
(昭和29年の写真にあった旧6番線は、ホームの下に埋没)
よって、現5~6番線ホームの柱が右に偏っている。

ということです。

木偶坊伯西
木偶坊伯西

まだまだ終わらない、天王寺駅の謎!

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