「この世界の片隅に」と朝日遊郭を時代考証してみる
すずが嫁いだ北條家は呉の「長ノ木」という地区にあり、現在でも上長之木町として残っています。
赤で囲った遊郭から家までは、ちょっとした山登り。現在のGoogleマップの道案内でも20分以上かかる道のりで、足腰が弱った現代人にはなかなかの苦行かもしれません。
闇市で買い物をするため市街地へ降りたすずさん、天然ボケの方向音痴か迷子になってしまいます。
事もあろうに、遊郭へ迷い込んでしまいます。あーそっちは「別世界」だから入っちゃだめ〜。
この位置は、朝日遊郭の「裏門」と呼ばれたところにあたり、赤で囲った場所がそこにあたります。道の中心に、わずかに●が見えますが、これは「見返り柳」が植えられていた印。これも「この世界の片隅に」に出てきます。
なお、「裏門」があれば「表門」(青矢印)もありますが、そこは後に出てくるので今は頭にだけ入れておいて下さい。
こちらが裏門の実際の写真。「この世界の片隅に」とアングルが似ているので、おそらくこの写真をモデルにして描いたと推測します。
見知らぬ場所へ迷い込んでしまったすずさん、途方に暮れて遊郭の大通りのある妓楼の前でへたり込んでしまいます。
彼女の前に見える、少し西洋の香りがただよう建物の名前は「東京」。さて、この妓楼は実際にあったのか?史実の史料と向かい合ってみましょう。
資料に残る遊郭の貸座敷(妓楼)配置図があったので、それをのぞいてみました。
地図を解析すると、すずが入り込んだ裏門の近くに「東京楼本店」の文字が見えます。
すずさんがいた時期(昭和19〜20年)に近い、昭和16年(1941)の呉市の地図で確認してみると、「グレート東京」という名前で掲載されています。他資料にも名前を確認できる上に、「この世界の片隅に」に描かれた同じ場所に位置しており、これにて実在を確定。
なお、その下に「ミス東京」というお店の名も見えますが、これは「グレート東京」の二号店(支店)のことです。
資料には「東京」の写真も残っていました。黄矢印の部分に右文字で「グレート東京」と書かれています。当時の流行、丸窓にアールデコ建築を採用した、呉でも3本の指に入るモダーンな建物だと話題沸騰だったでしょう。
「この世界の片隅に」でこの妓楼が採用されたのも、写真による外観という歴史資料があったからでしょうね。
それにしても、遊郭の妓楼というと…
飛田新地に残る『百番』こと鯛よし百番のような、和風の贅を尽くした「遊郭建築」なるものをイメージする人が多いと思います。そのイメージは、ある意味で間違っていません。
遊郭は大正中期あたりからオワコン化します。
因習や不文律などで縛られ、堅苦しい風習だけが残ったのです。そして遊郭のすき間産業「チョンの間」こと私娼窟、今のキャバクラや初期メイドカフェのご先祖である風俗産業の超大型新人、カフヱー(カフェじゃないよ)が大繁盛。客足が遠のいたのです。
朝日遊郭は、海軍さんという超大口顧客を抱えていたので、他地方の遊里に比べれば比較的安泰でしたが、それでも
伝統と因習に朽ち果て、前世紀の遺物として忘れられかけた朝日遊郭は、私娼窟の跋扈とカフヱー街の発展に押され気味。種々対策を講じたものの、依然として封建的姑息の域を脱し得なかったが、最近の不況深刻化には、思い切った起死回生策を講じざるをえなくなり、活路を近代的明朗化に求め…(以下略
昭和7年の地元新聞より
と地元新聞に「前世紀の遺物」(=オワコン)とこき下ろされています。
やはり他地方の遊廓と同じく、大正末期からカフヱーの隆盛と超法規的存在となった私娼窟無双には手を焼いていたところで、昭和5〜6年(1930-31)の日本史上最凶の大恐慌が重なり、思い切った改革の一つが必要になりました。
そこで朝日遊郭が採った施策は二つ。
一つは「洋風化」。
東京の吉原では明治時代からハイカラな妓楼が建ち並んでいましたが、それはまた別問題で、「洋風化」はおそらく大正の大阪飛田新地が始まりではないだろうかと推察します。
妓楼も外観はもちろん、内装も当時はレアだったダブルベッドを用意したり、場所によっては中華風だったり、ラブホ真っ青の全面鏡のバスタブ付きバスルームを作ったり1と、色々と工夫をこらしていました。
「この世界の片隅に」に描かれた「東京楼(グレート東京)」の内部がどんなものだったか、実は資料が残っています。
改装なる東京楼本店は、ダンスホールはもとより、各部屋とも門構えつきの一軒家、廊下がエロ小路をなしている。内部は純洋風、和室、混様の三態、それにかくれた鏡の間もあれば、金の間、銀の間ある、香水風呂、四方が鏡の浴場、暗黒な地下極楽室も(以下略
大呉市民史 昭和篇 上巻
もう妓楼が「ラブホ風お泊まり施設ありのレジャーランド」と化してますな(笑
なお、この資料によると「昭和七年十月に改装したる」とあるので、呉市の資料に残る写真の様相になったのは1932年10月で確定でしょう。
もう一つが「ダンスホール」。
ダンスホールも、大正後期から昭和初期にかけて生まれた新しい娯楽で、要は昭和のディスコ、現在のクラブのご先祖様です。
京都府の橋本遊郭に残る元妓楼「大徳」(1931年築)の奥には、写真のようなダンスホールの跡が残っています。
ダンスホール、大阪府はなぜか禁止で一軒もなかったのですが、俺たちも踊りてーよーという大阪のダンスマニアたちが兵庫県まで越境。週末になると尼崎のダンスホールに大阪人が殺到。これを機に尼崎市の電話番号が大阪市と同じ06になった…のは冗談ですが、尼崎がダンスホールの聖地になったのは本当の話。
この流れは、呉とて例外ではありませんでした。
「ダンスに興じる遊郭の遊女たち」というタイトルをつけたくなる写真、紛れもなく遊郭の中です。
当時の様相を語る地元新聞記事によると、朝日遊郭のダンスホールは「ミス・ミナト」という店が先陣を切ったところ大好評。他の妓楼もそれに続けとダンスホールを併設したとあります。
資料の記述から推察するに、呉市内ではカフヱーでもダンスは禁止、おそらく呉市もダンス禁止だったと推察されます。
が、遊郭だけは
まあいいか…
と黙認。遊郭の関係者が警察に対し「上手くやった」のでしょう。
結果、朝日遊郭は「呉で唯一ダンスができる場所」としてダンスの聖地(踊りに来るだけでもOK)となり、妓楼も中にホールを作るなど改造を施しました。
遊女たちも、
おにいさん、ちょっとどう?
という古めかしい(古くさい)ものから、
おにいさん、踊ろうよ♪
と完全にイメチェン。かくして朝日遊郭の大改革は成功を収めたのでした。
はじめの「洋装化」も含めて、昭和7年(1932)は朝日遊郭の「その時歴史が動いた」なターニングポイントでした。
そして歴史の結果論ですが、この遊郭の大改革、その直後にやってくる日本史上3本の指に入る「学校では絶対習わない幻の昭和初期高度経済成長期」に間に合い、朝日遊廓は絶頂期を迎えました。
しかし、「ひとり遊廓調査兵団」とやって全国の様々な妓楼を見てきましたが、「グレート東京」のようなインパクト強めのものは、なかなかお目にかかれません。
21世紀でもある(あった)のは、2009年まで現存していた岡山笠岡遊廓の「岡部医院」、
飛田新地に残る、船をイメージしたと思われる洋風妓楼なんかが有名です。
朝日遊郭の「グレート東京」も、だいたいこんな感じだったと想像できます。
ついでに…
すずがへたり込んでいる後ろの電柱には「千福」と書かれた広告が見えます。
こちらも実在のお酒で、三宅本店という酒造も当然ながら現存しています。明治から呉のネイビーに愛されたお酒で、Amazonで購入することもできます。
表門と「玉突」
途方に暮れて半泣きのすずさんに、一人の娼妓(遊女)が声をかけます。
彼女の名は白木リン。原作ではすずの旦那の周作とのつながりもあり、すずが葛藤を抱えつつ、女同士の友情が芽生える重要人物なのですが、アニメでは「困ったすずを助けたやさしい女性」だけの描写です。
それはさておき、
絵が上手いすずを見たリンからの、食い物描いてというリクエストに、
リン「ウエハースが載ったアイス描いて」
すず「ウエハースって何じゃ???」
と戸惑うシーンがありますが、すずが下敷きにした柱のような石の構造物。これは何でしょうか?
そして、後ろにある「娯楽」「玉突」の文字…これも気になりますよね?
どちらも実在した施設で、すずが絵の下敷きにした構造物は遊郭の表門、後ろの「玉突」もその場所にありました。あ、「玉突」ってビリヤードね。
ビリヤードが日本に入ってきたのは幕末ですが、大衆娯楽として大流行したのは昭和初期のこと。
早くもプロが現れ、昭和11年(1936)には全国に2万軒の「玉突場」が作られ、この年から翌12年あたりが戦前の絶頂期でした。
すずがリンと出会った時期は優雅に玉突きなんてやってられない時期だったものの、窓の「娯楽」「玉突」に往年の朝日遊郭の「総合レジャーランド」としての気風が残っていたのだろうと察します。
朝日遊郭の略史で書いたとおり、朝日遊郭は1945年7月1日深夜の空襲で灰燼に帰してしまいます。
昭和22年(1947)撮影の、呉朝日遊郭の航空写真です。高度3000フィート(約900m)という低空からの撮影のため建物一つひとつがくっきり写っており、歴史資料として非常に貴重なものです。
それにしても、空襲によって遊郭も相当の被害…というかまともな建物がほとんど残っていません。
あの「グレート東京」も、どうやら空襲でなくなってしまったようです。
上述のとおり、高度900フィートからの撮影なので写真をアップしても細かい建造物がかなりクリアに写っています。リンがすずを送って行った表門の石柱もこのとおり、くっきり写っています。
ここで気づくことがあります。
一部ブログなどでは、同じ場所に2019年まで存在していた洋風の建物を、戦前からの玉突場だとする人がいます。
しかし、それは認識不足と断言します。なぜなら、昭和22年の航空写真では更地(おそらく空襲で焼失)となっており、存在しないことが一次資料で確認できます。ツメが甘いわ。
沖田質店・イロハタクシー
アニメでは、表門の柱の横にいくつかお店があることが確認できます。
左から、「おきたしち」と書かれた質屋、寿司屋、そして交番ですね。こちらも史実の地図と確認してみましょう。
沖田質店と派出所(交番)の実在を確認。その間の「寿司屋」は、飲食店の前の字がつぶれて読めずでしたが、食い物屋だったということは確かです。
リンが働いている店から呼び出しがかかり、リンが帰らなきゃとすずと別れるシーンの左の建物、「イロハタクシー」と書かれていますね。
遊郭はエンターテイメント郷、いい気分のままハイヤーで朝帰りという人も少なからずいました。そのため遊郭にはタクシー会社の駐在所もありました。朝日遊郭も例外に漏れず、「イロハタクシー」という会社が一手に握っていたのでしょうか。
こちらも実在を確認しました。
以上のように、「この世界の片隅に」に登場する施設はすべて実在することがわかりました。こういうあら探し考証が好きでそれをブログ養分にしている性格の悪い私ですが、ここはちゃんと調べているなと感心しました。
しかし、それだけに一つ納得いかないことがあるのです。
リンが働いていた妓楼が作品でも写っていますが、「二葉」という店名が写っています。どうやら「二葉館」のようです。
店名があれば探すのは楽勝…と思っていたのですが、昭和8年(1933)の朝日遊郭の店名一覧、そして昭和16年(1941)の地図を見ても、「二葉館」なる妓楼は存在しないのです。頭に「二」がつく妓楼は存在せず、「葉」がつくお店は、昭和8年のリストにある「竹葉楼」のみ。
なぜこれだけフィクションにした?いや、原作者の資料には「二葉(楼?)」が存在しているのか?そこは原作者を問い詰め…否、聞いてみたい気分です。
以上、呉の遊郭と「この世界の片隅に」との絡みでした。これにて読み終わり。
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コメント
初めまして、偶然こちらのサイトにたどり着いた者です。
これはあくまで私の勝手な推測ですが、この作品の中の遊郭の名前は
この作品の出版社の名前に因んだものではないかと。
字は少し変えてますが。
登場人物達は架空の設定だから、
リンさんの遊郭の名前も架空にしたのではないかと推測しています。
私も以前、何かの折に遊郭の名前が二葉なのか気になって考えたことがあったからです。
それで思わずコメントを書いてしまいました。
どうも失礼いたしました。