カブトガニで有名な瀬戸内の静かな港町、笠岡。
古来より港町として栄えた町ですが、そのベースとなったのが「伏越」という地区。そこには元祖笠岡港こと伏越港が古くからありました。
で、港は海の男が集まるところ。焼津や石巻の項でも述べましたが、海に生きる男はとにかく女が大好き。
陸の生き物にはわからんこの世界、そんなところには常に色街の陰が見え隠れします。ここ伏越も例外ではなく、いつの間にか色街が成立し、男たちの癒やしの場として栄えました。
岡山県の近代史としての遊郭は、明治10年(1877)にさかのぼります。岡山市内には少し前に遊郭ができていたのですが、法令により定められたのは明治10年の「県甲九四号」によってのこと。岡山市内の東中島・西中島や津山と同時に、笠岡も「笠岡村」としてその初期メンバーに名を連ねています。
戦後の笠岡遊郭は、昭和21年(1946)のデータによると、業者18名に娼妓21人。
そして運命の昭和33年(1958)4月の売春防止法完全施行の前月の3月15日、岡山県下の赤線は全廃され、約50年にわたる色街の歴史に幕を閉じました。
その1年前、昭和32年(1957)4月時点での業者・従業婦数は、業者8名に従業婦22人1県最大がやはり岡山市の東中島の69人(業者)、194人(従業婦)、それに比べたらこじんまりとしたものです。
笠岡の赤線は昭和21年に比べ女性数は減っていないものの、業者数はかなり減っています。
泣いても笑っても1年後になくなるのだから、早いうちに足を洗っておこうという人もいたといたはずですが、その前に、ある出来事が笠岡に起こっていました。
それが、昭和30年の笠岡港の完成。笠岡駅の近く、伏越から見ると「山の向こう」に港の機能が移ってしまったために、伏越地区は寂れ赤線も同時に灯が消えたようになってしまったと郷土史は記しています2。
さて、現在の笠岡遊郭はどうなっているのでしょうか。
伏越遊郭の跡は現在…

笠岡遊郭は、国道2号線の伏越交差点から北のエリアで、T字型の道筋に妓楼が並んでいました。
実際に歩いてみるとそのエリアは極めて狭く、さらっと見て3〜4分、ゆっくり目に見ても10分強くらい。全国の遊郭赤線跡を3ケタは歩いてきた私の中でも、ここはかなり小さい方。期待を膨らませて来てみると、なぁんだ…という程度の規模です。
そんなこじんまりとした遊郭が、全国の遊郭赤線マニアが必ず目指すべき場所だったことがありました。それはおいおい語るとしましょう。

ここが遊郭のメインロード1。地図で言えばTの縦線のところです。
この右側に、かの有名な「岡部医院」がありました。

こちらがT字の横線の方の道。写真の白と赤のタイルの家がここの目印となっています。


山陽線の線路沿いにあった、おそらく赤線時代の建物。残念ながら現存しません。(写真も2010年のもの)

ここもかつての妓楼だったそうです。形からして赤線時代のものでしょうか。曲線をふんだんに使った形が女性的に見えます。

郷土資料によると、ここが遊郭時代の検診所跡だったそうです。
岡部医院…こいつの正体とは?
笠岡の遊郭は、言っちゃあ悪いが瀬戸内の片隅にある遊里。岡山県内に絞っても規模も小さいし、知名度も決して高いとは言えません。ツイッターにアップしたら、

え?笠岡に遊郭なんてあったの?
という声もあったくらいですし。
しかし、その笠岡が、「ある建物」によって超がつくほど有名だった時期がありました。その建物とは…

四捨五入すればもう20年前、全国ン万人(推定)の遊郭・赤線マニアの間では知らない者がいないほど有名だった「岡部医院」です。
じっくり歩いても15分もかからない笠岡遊郭跡において、一つだけ突出した大きさと存在感、そして個性を持っていた建物でした。
赤線廃止後こそ病院として使われていましたが、これ、れっきとした元貸座敷(妓楼)。外観的にずっと病院、大阪の難波病院のような遊女専用病院かと思っていたのですが、そうではないようです。
しかもこれ、正面こそ「一度見たら忘れられない」ほどのインパクトを持つ洋風建築ですが…この建物の魅力・神髄はここではなかった。

これを上から見ると、なんと洋風なのは表だけ。奥はめっちゃ和風という一粒で2回おいしい和洋折衷。これ、西側の古城山公園(笠岡城跡)にある稲荷神社の頂上からの眺望で、実際に上ってみると笠岡遊郭跡を一望できます。
正面のインパクトでお腹いっぱいになりすぎて、みんな正面からの写真しか撮っていない(笑
私もこの伝説の岡部医院を見てみようと、胸の高まりを抑えながら関西から車で国道2号線を西進し笠岡へ向かいました。
そして、向かった先には!

あれ?あるはずの岡部医院がない…。
私の遊郭・赤線跡探偵としてのスタンスは、「サラッと寄ってサラッと帰る」。自分が遊里探偵になるきっかけの『赤線跡を歩く』で木村聡氏が述べた、「(赤線跡は)さっと通り過ぎて、風のように立ち去って下さい」のスタンスを貫いています。よって、地元の人を捕まえて

ここ、遊郭だったんですよね?何か知ってます?
といったオーラルヒストリー的なことは基本行いません。
どっちかと言うと研究者肌なので、人から話を聞き出すのが下手くそな性格を自覚しているのもあります。
その代わり、事前に出来るだけの情報を頭とiPadに入れて臨みます。これをプロ野球の名監督野村克也氏のID野球になぞらえて、「ID遊郭」と呼んでいます。
閑話休題。
この時は、あまりのショックに、

こ、こ、ここに病院あったと思うんですけど…(泣
と地元の通りすがりを捕まえました。
その人の口から出た衝撃的な事実とは…
この岡部医院、2009年9月に周囲の家屋(元妓楼)ともども火事で焼けてしまったとのこと。
私が訪問したのは、その7ヶ月後の2010年4月。半年前に火事で焼けてね…という声を聞いた時は、マジかよ…という声も出ず、膝から崩れ落ちました。
そりゃ、外こそコンクリだけど中身はまがうことなき木造和風建築、さぞかし「よく焼けた」でしょうな…
よって、この私も伝説の妓楼の現物を拝むことかなわず。


こうして写真でしか拝むことができません…遊郭・赤線跡探偵一生の不覚でした。
ところで、ここは「元貸座敷」であることは確定なのですが、具体的に何楼なのか。
ひととおりネットでググってみても、わからないのか明確に記載したサイトはありません。
少なくても、これだけの存在感があれば笠岡遊郭一の妓楼だったに違いない。
しかし、図書館で偶然見つけた資料によると、昔は「観月楼」と呼ばれたのではないかという、ほのかな情報が。観月楼が旧岡部医院の建物だったのか、その確証は持てませんが、尻尾くらいはつかんだ気がしないでもない。
=遊郭編Special Thanks『花街ぞめき』さん=
・岡山県警察史(上・下巻)
・岡山県警察ものがたり
・岡山市史 社会編
・全国遊廓案内
・全国女性街ガイド
・ふるさとを語ろう笠岡
・岡山文化資料 中巻
・おかやま街歩きノオト 第6号
・色街ものがたりー岡山県花柳史ー
・今昔写真集 笠岡今はむかし物語
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