■紀和駅の「駅名」の由来
紀和駅には、ある謎が存在します。駅名の由来が不明なのです。
2018年頃、Wikipedia先生の紀和駅の項目には、以下のような記述がありました。
前述のとおり、紀和駅の名称は昭和43年に駅名を譲った後のものですが、なぜ駅名が「紀和」なのかは定かではないと。
最初に知った時は、ああそうですかと特に興味もなく流していたのですが、そんな中、別件で昭和14年(1939)の和歌山市街地図を目で舐め回していたところ、おや?と引っかかる場所が。
「紀和町」という文字がくっきり判別できる。
あれ?「紀和という地名」は「存在せず」じゃなかったのか?まあ、Wikipedia先生とて万能ではない、記述の元ソースにそう書かれているということに過ぎない。
しかしながら、なんやWikipediaの書いてることってウソやん!という感情的な早とちりも禁物。地図という一次資料の「紀和町」こそが何かの間違いかもしれない…という可能性だってあります。地図だけでなく、戦前の出版物は誤植がけっこう多いので。
地図上の「紀和町」が本当か実証する必要があります。これを「史料批判」といい、歴史の研究には絶対不可欠な作業。
史料批判をしない史料は調理していない食材。具材をドン!とテーブルの上に置かれそれを食えと言われても困ることが、ネットでは多見されます。
他の地図での紀和駅周辺の地名ではどうなっているのか。実際に和歌山市の図書館で過去の地図帳・住宅地図をまさぐってみました。
昭和33年の和歌山市住宅地図では、「紀和町」とはっきり書かれています。他の地図でも記載があり、「紀和町」が過去に存在していたことはこれでほぼ確定です。
しかし、別の角度で確証を求めるべく、実際に紀和駅へ向かい現地で証拠を収集してみました。
駅から南へまっすぐ通る道。かつては道沿いに「紀和劇場」などの映画館や食堂、旅館などが立ち並び、繁華街特有の喧騒を抜け胸を躍らせながら和歌山の繁華街である「ぶらくり丁」まで歩く…それが昭和の和歌山っ子の定番お愉しみコースであったそうです。
紀和駅が「和歌山駅」だった頃は、学生やサラリーマンが大勢この道を南下し、駅前商店街も活気に満ちていたそうですが、現在の姿を見ると、失礼ながらここが賑わっていたとは到底思えません。が、それだけに古い看板などが残り、「紀和町」の一片が少しは残っているかも…そんなほのかな期待を胸に秘め、町の中を歩いてみました。
「紀和町」は行政の記号としては消えても、自治会名として残っていたようです。古くからの「紀和町」への愛着があるのでしょう。
散歩していた町の古老に聞いてみても、ここはかつて「紀和町」だったと、明確に答えてくれました。これで、Wikipediaの「駅の所在地および周辺に『紀和』という地名も存在せず」の記述が誤りなのが確定です。
相手がWikipediaとは言え、こうして「俗説」をひっくり返し正しい事実を発見していく作業は、歴史家としてやりがいを感じる一瞬であり、快感でもあります。
かと言って大金が手に入るわけでも、テレビに取り上げられるわけでもありません。自己満足と言われれば否定できません。しかし、それでいいのだ、そう自分に言い聞かせています。
紀和駅は、創設の役目を終えた。ここがかつて和歌山の中心駅、いや、和歌山駅そのものだったと説明しても、今の姿を見て想像できる者は少ない。
ただ、駅の周りの長細い公園が、かつての隆盛への想像力を少しはかきたてられるのではないでしょうか。
後輩の活躍をひっそりと見守りながら余生を送る黄昏の駅として、かつてここに紀和町があったことの間接的な証人として、今日も高架上に電車が音を立てて走っています。
紀和駅のすぐ近くの天王新地のお話もあります。
よかったらご覧になって下さいね。
コメント
はじめまして。昔、祖母の家が紀和町にあり、なつかしくて調べていたところこのサイトに辿り着きました。昭和47年生まれの私は生まれたときから昭和57年に祖母がなくなるまでしょっちゅうこのへんで遊んでいました。確かにこの辺は紀和町と呼ばれていて、この通り沿いで戦後、薬局をしていた祖母は、昔はこの通りは通勤客でいっぱいで今からは想像できませんが、ものすごい人通りで薬局も繁盛していたようです。昭和50年前後は衰退しつつあったときですが、私の記憶では、花屋さん、中華そば屋さん、うどんやさん、魚屋さん、本屋さん、今よりはまだ活気があったと思います。逆に、今は紀和町と呼ばれていないことに驚きました。
近くに志磨神社という神社があり、大通りぞいに大規模な縁日があり、そのときはものすごい人で歩道が歩けないくらいにいっぱいになっていました。カラーひよこ(今では考えられませんが)が売られていたのが印象的です。このサイトで知らなかったことが知れてとてもうれしく感じました。ありがとうございました。
興味深く拝見いたしました。私は昭和48年生まれで当時は和歌浦に住んでおりましたが、小さい頃には大正生まれの祖父と祖母に連れられて、現在のJR和歌山駅の方まで、食事に行くことがしばしばありました。その時には、「東和歌山へ行こらよー」と祖父や祖母が話していたのが思い出されました。もちろん、その時は既に和歌山駅であったのですが、祖父・祖母は必ず、「東和歌山」と言っておったのを思い出し、懐かしい気持ちになりました。
何度か連れて行ってもらっているうちに、私も子供ながら、「東和歌山というのは、和歌山駅なんだ。」と気が付きました。しかし、昔の和歌山駅=今の紀和駅には、結局行かずに和歌山市を離れてしまいました。貴ブログにて、過去の経緯を学べたことに感謝しております。
こんにちは。いやー詳しく探究なされていてますね。50もとうに過ぎた私ですが改めてビックリです。市内生まれですがこの地が紀和町と呼ばれていたのは実は全く知りませんでした(汗 周辺の地名から「北新なんとか」だろうみたいな想像でしか捉えてなかったですねえ。ただ物心ついたころから鉄道好きだったので紀和駅自体は昔から記憶にあります。広い構内で旧型客車が多数留置していたと思います。ここから紀伊中ノ島、田井ノ瀬へ線路が伸びてました。バスも駅前に乗り入れてました。まだ南海バス時代で車掌さんが乗ったツーマンだったはずです。いつ頃まであったか定かでなくて、文献などで辿ってみると74年(昭和49)にバスも田井ノ瀬方面の線路も廃止(廃線)になったようです。これからも昭和のビックリするような懐かしい話、期待しています。
はじめまして。むかしの関西の鉄道を調べていたら、このサイトに辿り着きました。興味深く拝見させていただいてます。
さて、今回の「紀和」駅についてですが、かつて当駅を基点として奈良の五条までを結んでいた「紀和鉄道」に由来があるようです。
Wikipediaによると『紀和鉄道(きわてつどう)は和歌山県および奈良県にあった私設鉄道で、現在の西日本旅客鉄道(JR西日本)和歌山線の一部に相当する路線、五条-和歌山(現紀和)を建設、運行していた。後に関西鉄道に買収され、さらに鉄道国有法により国有化された。』
明治30年代の7・8年くらいで紀和鉄道から関西鉄道に売却譲渡、さらに国有化と変遷していますが、地元の方々にとっては「紀和」鉄道こそが地元に初めて鉄道をもたらした大切な名前なのかもしれませんね。
素晴らしい。紀和町という地名があったのですね!
紀和町の由来は、紀和鉄道なのでしょうか。紀和鉄道の起点があったからその町名になったのでしょうか?
まさか「紀州和歌山」の略では?
ぜひ、現地の古老に話を聞いてみていただけませんか。