玉の井と『墨東奇譚』
戦前の、と前置きしないといけませんが、玉の井が有名になったのは、数々の有名人が足げに通って文学作品にその名を残したこともあります。
永井荷風や高村光太郎、サトウハチローなどの文人が玉の井に通い詰め、映画監督の山本嘉次郎や黒澤明もここを訪れました。山本のエッセイによると黒澤明の代表映画の「酔いどれ天使」のモデルはここだとか。
特に永井荷風は自称「玉の井通」になり、彼の日記である『断腸亭日乗』にも自宅があった東京の麻布から足げなく玉の井通いを続ける状況が書かれています。
そして、何度も取材を続けつつ自分の玉の井通いをベースにしたのが、『濹東綺譚』という名作。玉の井が今なお語り継がれる原因の一つは、この作品の影響もあります。
『濹東綺譚』は簡単に言うと、主人公の「わたくし」と玉の井で働くお雪という娼婦との悲しくも甘い恋愛物語。当時の玉の井の情景が事細かに描かれており、私娼窟というヘドロのようにドロドロとしていただろう「魔窟」を、荷風の文章力で純水にまでろ過したものに仕上がっています。玉の井を探索するならこれは必ず読むべき作品ですが、それ抜きでも永井荷風の名作として1960年、1992年と映画化も2回行われています。
(1960年映画『墨東奇譚』より。赤線廃止間もない頃なので、赤線のカフェーをそのまま使ってたりして)
『濹東綺譚』の謎の一つは、ヒロインの「お雪」の存在。
荷風研究家によると、荷風の作品の主要人物にはたいてい実在のモデルがいると言います。この主人公こと「わたくし」のモデルはもちろん永井荷風本人、小説に出てくる「玉の井」はもちろん、出てくる建物の名前などの固有名詞はすべて実在でした。
それなら、
「『お雪さん』のモデルになった女性も絶対いたに違いない!」
「いや、玉の井で会った様々な女性の最大公約数を一人の女性に映したに過ぎない」
と荷風研究家でも意見が分かれているそうです。
戦前の玉の井を自分の玉の井通いの経験も含めて考察し、『玉の井という街があった』という本を書いた前田豊は、「実在のモデルがいた」という前提で取材を進めていくうちに、お雪が住んどった娼家の住所を探し当て、更にそこの元家主、要するにお雪の雇い主まで突き止めました。驚くことに、小説でお雪さんが主人公に渡した名刺の住所も、そこに書かれた家主の名前までフィクションなしでした。
こりゃお雪が実在していてもおかしくない状況。
しかし家主は著者の取材の数年前に他界、残った奥さんは何故か激怒しながら荷風や「お雪さん」の関係を完全否定。けんもほろろの取材拒否だったとのことです。
『断腸亭日乗』では荷風が玉の井で入り浸っていた家の、お雪のモデルとおぼしき女性と家主との金銭トラブルが書かれています。『断腸亭日乗』はのちに出版されますが、それが世間に出て恥をかかされたか、バッシングを受けておもしろくなかったのではないかと、前田は推察しています。
真実はあの世の荷風のみぞ知る…か。
玉の井を語るもう一つの『墨東奇譚』
あと、玉の井を語るのに欠かせないものが、滝田ゆうの漫画、『寺島町奇譚』。
寺島町とは「玉の井」の正式な町名ですが、そこで生まれ育った作者が玉の井を細かく描写しています。
戦前の「魔窟」玉の井を知るには、『濹東綺譚』『玉の井という街があった』『寺島町奇譚』の本3点セットは必読です。
また、2010年の末に出た『玉の井 色街の社会と暮らし』も玉の井研究には欠かせない本にです。これまでの本にない細かい部分に光を当て、更に研究の結果過去に出た玉の井本の間違いの指摘や批判も行っている、本というより研究者の研究書です。赤線時代に偏っていますが、赤線の固まったデータはなかなか出てこないので、それはそれで貴重です。
玉の井とバラバラ事件
玉の井を有名にさせたもう一つの出来事。それは「バラバラ事件」。
その昔、玉の井には「お歯黒どぶ」という下水溝がありました。汚水で水が真っ黒なことからその名がついたのですが、昭和7年(1932)、「お歯黒どぶ」に捨てられた男性の胴体が見つかり、一大事件として報道されました。
「バラバラ事件」はそれ以前にもありました。が、それまでは新聞や事件によって言い方が違っていました。が、この玉の井の事件で、朝日新聞が「玉の井のバラバラ事件」と表現、この「バラバラ事件」が定着して現在に至ります。
この「玉の井バラバラ事件」、最初は迷宮入りかと思われたのですが、意外なとこから意外な結末を迎えます。興味あったら検索してみてね。
意外に安全だった!?玉の井の治安
玉の井は、「魔境」と文化人に表現されたせいか、妖怪が棲む得たいの知れない伏魔殿のようなイメージがあります。が、意外や意外、戦前の玉の井は殺人や強盗、強姦などの凶悪事件がほとんどなかったそうです。詐欺とかスリなど小物の事件はあったものの、不思議なくらい大きな事件がなかったと。
上に書いた「玉の井バラバラ事件」も、「バラバラ」がセンセーショナルかつ死体が捨てられた場所が玉の井なだけで、加害者も被害者も玉の井と全然関係なし。玉の井が大迷惑を被っただけの部外者の犯行でした。
治安的には、戦後の赤線時代の方がはるかに荒れていたようで、昭和27年~31年の間だけで殺人17件、強姦45件、放火13件1。これは確かに治安はお世辞にも良いとは言えない…。
興味深いことに、娼婦は男を一目見ただけで男の素性を見抜く独特のカンを持っていたといいます。
犯罪者を見抜くカンもありました。犯罪者は大きな犯罪を行うと何故か女が欲しくなる習性があるそうで、犯罪を犯した輩がよく玉の井に転がり込んできました。
玉の井は遊郭と違い、酒飲んでドンチャン騒ぎはできず、金もばらまくように使わず、スマートに使うのが掟でした。
が、たまにそんなこと構わない金遣いや素行の荒い人間も来ます。素行が怪しいと娼婦はこっそり警察に通報、私服刑事に「臨検」という形で踏み込んでもらうと、実は凶悪事件を起こした凶悪犯だった…人を見る目が肥えた熟練娼婦のカンはよく当たったそうです。
同じことは遊郭でもよくありました。遊郭は「男の天国」の他に「犯罪者ホイホイ」の役目もあったと言いますが、まんざらでもなさそうで。
遊郭も昭和初期には全国数百ヶ所存在していましたが、私娼窟もかなりの数が存在していました。前述のとおり、私娼窟の実態は神のみぞ知るなので実数は不明ですが、内務省警保局(今の警察庁)や衛生局(同厚生労働省)が把握しているだけでも、え?そんなところも?と驚くくらい多い。
その中でも、この玉の井がどれだけ有名だったかという一つの間接的資料を。
『全国花街めぐり』(松川二郎著)という、昭和4年(1929)発行の本があります。この本は日本全国の「遊廊」の紹介本ながら、私娼窟である「玉の井」が紹介されています。そこには当時「玉の井」というと私娼窟の代名詞になっていたらしく、遊郭とは別にあった栃木県宇都宮の私娼窟は、「宇都宮の玉の井」と呼ばれていました。
コメント
BEのぶ様
初めまして、天王寺駅の怪にノックアウトされた者です。
現在玉の井旧3部に居住しており、その昔は母方の叔父夫婦が同カフェー街で銘酒屋を営んでおりました。
そんな血と育ちから、古めな鉄道と遊郭跡を求めて全国を彷徨っております。
貝塚と言えば遊郭跡と水間鉄道、これからもブログを楽しみに致しております。
>東京YSさん
はじめまして。拙ブログをお読みいただきありがとうございます。
趣味が合いそうなプロフィールですね、これからどんどん更新していくので、またよかったらお読みいただければと思います。
あと、玉の井のことで何かお聞きになっていたら情報いただけたらなーと。
戦後の地図には旧京成白鬚線跡と東武伊勢崎線、それに3部西端とで囲われた辺りにも旅館が数件記載されていて、現在も遺構が1件残存しています。エリアの線引きには曖昧な面があったのでしょうか。
その点カフェー街は組合が厳しかったこともあり、そうそう散らばらずかなりの密集度だったようです。
叔父夫婦はメインストリートで「けい」(前屋号「金波」後屋号「せいこ」)という店を営んでおりました。
賑わいはメインストリートもさることながら、そこから北へ伸びる二本の路地が特に凄かったそうです(貴ブログ③の写真ですね)。
旅館「錦水」を過ぎてアールの手摺りのある大店「鹿島屋」までの間にこれでもかというくらいの店があり、さらに西へ向かう路地の更にその奥の路地のとば口に貴ブログ⑤でエアコンが飛び出ている遺構「銀月」か「うきよ」?があったわけです。
玉の井も多くの建て替えが進んでいますが、ここは今でも最もディープな一角だと思います。
>東京YSさん
最後に行ったのがかなり前だった上に、まだ遊郭・赤線史研究家の駆け出しの頃だったので、来月玉の井と鳩の街など東京の赤線跡再調査に行こうと思ったら!
コロナで断念せざるを得ません。
夏には収束していると思うのでその頃に行きたいですが、その頃には当時の建物が残っているだろうか(いやもうなくなってるか)、心配です。
その点関西は貴重な物件や街並みがまだまだ多く羨ましい限りです。
実は私も、201系の最後をチェック〜播但線で梅ヶ枝遊郭へ〜和田山駅の機関庫(まだ有りますよね?)まで足を伸ばそうと思ってましたが、やはりコロナで躊躇しています。
先が見えずに困ったもんです。