井上成美記念館を訪ねて 前編 井上成美とは

井上成美歴史探偵千夜一夜
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戦後-井上と防衛大学校

兵学校校長を退任後、井上は海軍次官として東京へ行くことになりましたが、その話については、本記事では書きません。

周知のとおり、日本は戦争に敗れ戦後のスタートとなります。
井上は、GHQにより海軍が消滅する寸前に予備役(軍隊で言うクビ)となり軍服を脱ぎ、胸の病で苦しんだいた妻の療養所として昭和初期に建てた別宅に引きこもります。場所は三浦半島の端にある長井という地区。そこが井上提督の終生の地となりました。

「日本をこんな風にし、多くの若者を死なせてしまった責任を感じる」

口ではこう言うものの行動を伴わない旧軍人が多かった中、井上は戦後一貫公の場に出ることは一切なく、得意の語学力を活かし長井のこどもたちに英語を教え細々と暮らすこととなりました。英語を教えてもらった元生徒は異口同音に、英語以上に人としての生き方、人間教育を教わったと述べています。

しかし、月謝を取ることもほとんどなく、その生活は軍人として最高峰の大将にまで上がったとは思えないほど貧困を極めました。のちに再婚し、昭和30年(1955)前後に軍人恩給が復活し生活は比較的安定することになりますが、それでも

これは本当に元海軍提督の住まいなのか…

と元部下が絶句したというほど、ほぼ世捨て人のような生活だったといいます。

戦後の隠遁生活の中で、一つ私の記憶に強く残っている話があります。

防衛大学校初代校長槇智雄

戦後に防衛大学校が同じ三浦半島に開設され、慶応大学でリベラリズムの空気を吸った槇智雄という人物が初代校長となりました。が、彼は文官ゆえに「軍人の教育の仕方がわからない」。そこで、元海軍兵学校の校長が同じ横須賀市内に住んでいると知り、井上にアドバイスを仰ぎました。偶然ですが、槇は井上と同郷(仙台市出身)でもあります。
槇の悩みに、井上は明快に答えました。

「兵隊を作るんじゃないんです。ジェントルマンを作るのです」

長いですが、全文を引用します。

「私は(槇さんに)『ジェントルマンを作るつもりで教育しました』とお答えしました。つまり兵隊を作るんじゃないということです。丁稚教育じゃないということです。

それではそのジェントルマン教育とは何かということになれば、(中略)イギリスのパブリック・スクールや、オックスフォード・ケンブリッジ大学における紳士教育のやり方ですね。(中略)ジェントルマンなら、戦場に行っても兵隊の上に立って戦える…ということです(筆者註:ノーブリス・オブリージュのこと)

ジェントルマンが持っているデューティとかレスポンシィビィリィティ、つまり義務感や責任感…戦いにおいて大切なのはこれですね。

その上、士官としてもう一つ大切なものは教養です。艦の操縦や大砲の射撃が上手だということも大切ですが、せんじつめれば、そういう仕事は下士官のする役割です。

そういう下士官を指導するためには、教養が大切で、広い教養があるかないか、それが専門的な技術を持つ下士官と違ったところだと私は思っておりました。ですから、海軍兵学校は軍人の学校ではありますが、私は高等普通学(筆者註:現在の大学でいう一般教養)を重視しました。そして、文官の先生を努めて優遇し、大事にしたつもりです」

井上成美伝記刊行会『井上成美』p364-365

槇はオックスフォード大学に留学し、ジェントルマンとは何ぞやを五感かつ現場で経験した人物。井上は、槇が英国留学経験者だから話を合わせたのではなく、二人のリベラリストとしてのベクトルが偶然、いや奇跡的に全く同じ方向だったのです。

槇校長時代、『自由と規律』という本が防大生の必読書になったことがありますが、その内容はまさに「ジェントルマンとは何か」。井上の発言とほぼ同じことが書かれているのです。

防衛大学校のHPには、こんなことが書かれています。

教養教育では、良識に富んだ社会人・職業人(幹部自衛官)となるための教養を学びます。多様な授業を通じて、柔軟な思考力と豊かな教養をもつバランスのとれた人格形成を目指します。

防衛大学校のHPより

これ、「幹部自衛官」を「海軍士官」に変えると、上で語った「ジェントルマンの精神」そのもの。
防衛大学校には槇の理念が現在でも息づいていると言われていますが、その裏打ちとして井上の理念も少なからず入っていると、前校長の国分良成氏も母校の慶應義塾大学での講演で述べています1

国賊と罵られながらも井上が兵学校で貫いた精神、それが防衛大学校のDNAとして令和の今でも残っているのです。
その証拠に、防衛大学校は旧陸軍士官学校や海軍兵学校との関わりを否定していますが、公式校史において唯一名前が出てくる旧日本軍人が井上だそうです。

そして、終戦から30年後の昭和50年(1975)12月15日、老衰により86歳で波乱に満ちた人生の終幕を迎えました。夫人によると、体力が衰え寝たきりの生活だった彼が夕方、ふとベランダに向かい家から見える太平洋を眺め、ベッドに戻ってすぐくらいに亡くなったとのこと。
最期の言葉は、「海が…江田島へ…」でした。

ざっくりと井上の人物像やエピソードを説明したところで、実際に彼が戦後を過ごした三浦半島の端っこへと向かうことにしましょう。

後編はこちら!

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  1. https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/other/201702-1.html
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