特急くろしおのご先祖、黒潮号【阪和線歴史紀行】

阪和電鉄黒潮号くろしお阪和線の歴史紀行

『くろしお』は、大阪から南紀方面(白浜・新宮)を結ぶ特急列車です。その昔は紀伊半島を一周して名古屋まで運行していたこともあり、食堂車も連結されていた豪華な列車でした。私もそのディーゼルカー時代の『くろしお』を、うっすらながら覚えています。

かつては新婚旅行先として人気があった南紀方面を結ぶ唯一の交通機関として、新婚カップルを満載した時もありましたが、それも今は昔。現在は家族連れのレジャートレインや、和歌山方面からの通勤の足としての顔の方が強いかもしれません。

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くろしおのご先祖様、『黒潮号』

そんな『くろしお』ですが、その歴史は戦前にまでさかのぼります。

阪和電鉄天王寺駅
(画像:Wikipediaより)

かつて「天王寺駅の怪 前編」でご紹介したとおり、現在のJR阪和線は「阪和電鉄」という私鉄として昭和4年(1929)に開業1しました。現在の阪和線天王寺駅が大阪環状線などと別ホームで終端式となっているのが私鉄時代の名残で、当時は「阪和天王寺駅」という駅名でした。

天王寺駅に停車中の『黒潮号』隣の浜寺行き
(『鉄道趣味写真集 昭和初期の汽車』より)

駅名標にも「阪和天王寺」とあり、隣の「濱寺(現:東羽衣)」行きのサボと共に貴重な写真となっています。

上の阪和電鉄時代の天王寺駅の写真は当時の広告看板も多く、情報量が非常に多いものとなっています。

阪和天王寺駅の魚釣広告

今でも太公望の皆さんにはお馴染みの南紀方面の魚釣りの広告もありますが、

南紀直通列車看板広告@阪和天王寺駅

入口近くにある「白浜・潮岬行き直通列車」の文字で、天王寺から南紀方面への直通列車が走っていたことがわかります。

『黒潮号』設立の経緯

鉄道のない陸の孤島だった紀伊半島への鉄道敷設は、ゆっくりとしたペースながら進み、昭和7年(1932)、紀勢本線(紀勢西線)の南部~紀伊田辺間が開業しました。

それと当時に、観光資源として有能な南紀方面への直通列車を走らせるべく、阪和と南海電鉄が鉄道省に営業攻勢をかけました。大阪鉄道局も、「高速規格で作られた阪和」と「私鉄界の老舗で発言力が高い南海」の板挟みとなり、頭を悩ませることとなります。

ところが、昭和8年(1933)5月13日、南海が突如「南紀直通列車はうちに決定したんで」と独断で公表、18日に試運転を行うことに決定してしまいました。阪和は激怒、大阪鉄道局も寝耳に水で急遽試運転中止命令を出す有様。

しかし、南海はうるさい国の言うことなんて聞いてられるか!とばかりに20日に試運転を強行、南海の無茶ぶりとものすごい独断専行が目に付きます。が、所要時間的には阪和電鉄が圧倒的有利であり、阪和前提に考えていた大阪鉄道局は、大いに頭を抱えることとなります。

そこで大阪鉄道局、阪和・南海双方に第二のプランを提示します。

それが「天王寺・なんば双方から列車を運転し、東和歌山2で合流・連結し南紀まで直通させる」ことでした。

阪和電鉄はこのプランに乗りますが、あくまで独占を狙う南海は気乗りせず。

大阪朝日新聞記事黒潮号くろしお

しかし、ひたすら拒否る南海に、それ以上わがまま言うならもういいよと見放され、南紀列車の栄光は阪和に下りることとなり、試運転も完了。昭和8年11月に念願の直通快速が運転されることとなりました。

愛称の募集

この南紀直通列車に対する大阪鉄道局の気合いの入れようは、列車の愛称名の募集を公式にかけたことからもわかります。

今でこそ、わけのわからないネーミングまでつけて愛称をつけたがる傾向にありますが、昭和初期には特急(『富士』『櫻』『燕』)にしかなく、急行ですら名無しでした。そこにたかが・・・快速に列車名をつけるなど、大阪鉄道局、いや日本の鉄道史上でも希有な例でした。

大阪鉄道局が早速募集したところ、次のような結果になりました。

・黒潮:312
・鷗:306
・白浜:272
・浜木綿(はまゆう):189
・千鳥:186
・隼(はやぶさ):145
・白鳩:143
・白鳥(しらとり):118
(応募総数5,227通)
出典:『阪和ニュース』第18号

かくしてトップの「黒潮」が選ばれたわけですが、少数投票として「享楽列車」「ニコニコ」「新婚」「待合」など、なんだか意味深な名前のものもあったそうです。冗談か本気か、当時の庶民のこの列車に対する見方が少しうかがえる少数票でした。

ところが!

昭和8年11月4日の初運転時はこの列車名が間に合わず、

「名無し号」

になってしまったという、珍な歴史があります。

1933.11.4南紀直通列車運転初日のモタ300
『鉄道趣味写真集 昭和初期の汽車』より)

これが歴史上たった一度だけ運転された「名無し号」です。ヘッドマークには「黒潮」のくの字・・・もありません。
南紀直通列車は「熱海線で使用中だった最優秀の客車三両を大阪まで回送」し、三等車はもちろん、今のグリーン車である二等車も連結した豪華な列車となりました。客車のため天王寺から東和歌山までは阪和電鉄の電車が牽引し、線内は阪和が誇る爆走電車こと超特急扱いとして運転されました。

所要時間は阪和間45分。今でこそ『くろしお』が42~44分なので大したことないと思われがちですが、今の性能の電車をもってしてこの時間、当時の45分はほぼ「暴走」に等しいものでした。なお、写真のはモタ300というロングシートの車両です。
なお、写真向かって左下にある白い丸(真ん中は赤)の表示は、臨時列車であることを表すマークでした。

(昭和8年11月6日『大阪朝日』より。出典は『阪和電気鉄道史』)

大阪からの観光客が大量にやってくるとのことで、南紀の観光地も大手を振って大歓迎だった様子が新聞にも書かれていました。

『黒潮号』の運行

時刻表に載っている黒潮号
(『汽車時間表』昭和9年12月号より)

次の週からは正式名となった「黒潮号」は、土曜日の午後に天王寺を出発し、和歌山を出ると終点までノンストップの速達。週末は白浜温泉でゆったりと。そして日曜の午後に白浜を出るという、当然のことながら南紀への観光客を狙った快速列車でした。今風に言えば特別快速のようなものでしょうが、停車駅の少なさ、というかノンストップが大阪鉄道局の気合を物語っています。

『黒潮号』が生まれた昭和8年は、未曾有のデフレ不況だった昭和恐慌も脱し、日本の経済に明るい兆しが生まれた頃でした。実際、『黒潮号』誕生の翌月の『アサヒグラフ』には、大阪に活気が戻った「好景気宣言」のような写真記事が出ています。

この列車の誕生には、日本経済史の側面も見てみると、なるほどと納得がいきます。不況を脱し国民がレジャーにうつつの抜かせるほどの「経済的余裕」ができたからこそ生まれたのだと。

戦前の準急で列車名がついていたのは、他には東京の両国駅と房総半島を結んでいた「漣(さざなみ)号」だけだったはず。しかし、房総の列車は全国時刻表には記載されておらず、正式名ではなかった模様です。

急行でさえ名無しだった時代に、たかが準急に名前がつけられたのは全国でも超レアもの。暴走超特急と共に、たちまち阪和電鉄の看板列車となりました。

看板列車の登場に、鉄道会社も大いに宣伝します。

阪和電鉄黒潮列車パンフ2

大阪鉄道局が発行した『黒潮号』と南紀観光のパンフです。南海が入っていないので(後述)、昭和8年か9年はじめのものと思われます。

黒潮列車内部

このパンフには、『黒潮列車』の車内も写っています。座席にカバーが被せられているので二等車ですが、座席は満席。背広に着物の品の良さそうな紳士淑女が、南紀に向けてレジャーモードの面持ちで座っており、当時の二等車の雰囲気までもうかがえます。

阪和電鉄黒潮号
(『黒潮号』美章園~南田辺駅間。『阪和電気鉄道史』より)

上述のとおり、『黒潮号』は電車ではなく客車だったので、上の写真のように阪和電鉄内は超特急の後ろに連結され、電車が電気機関車代わりになってました。和歌山からは蒸気機関車にバトンタッチ。

上の写真では7両編成になってますが、前の2両は電車の「超特急」、その後ろの3~4両が客車の「黒潮号」。最後尾は、よく見るとパンタグラフがついているので、電車というのがわかります。また、写真では判別しにくいですが、二等車(今のグリーン車)も連結されています。

阪和電鉄鳳車庫。南紀直通列車用オハフ34143
(『鉄道趣味写真集 昭和初期の汽車』より)

こちらは『黒潮号』を含めた南紀直通列車に使用された三等車。鳳車庫に留置中のものだそうです。車掌室に回送用の運転機器を設置した特別仕様のものだそうです。

そして南海も…

阪和に事実上先を越された形になった南海さんは、独自の南紀直通列車を模索します。『紀南の温泉』第23号(昭和8年12月 紀南の温泉社発行)には、以下のように書かれていました。

「南海電車では、難波駅発、和歌山市駅を通して紀勢西線に入る白浜湯崎行き直通快速車を運転すべく、すでに大鉄との交渉及び諸般の準備が成っており、近々はなばなしく実現するが、この南海の快速車は『あさしほ』と名付けるはずで、途中堺(龍神)、岸和田両駅へ停まり、一路紀勢西線をノンストップで飛ばすべく、黒潮号とは発着時間も異にするであらう」

引用:『紀南の温泉』第23号(出典は『阪和電気鉄道史』)

南海は『朝潮号』という別の名前の列車を走らせ、あくまで

阪和とは違うのだよ、阪和とは!

という南海の矜持を見せたかったのかもしれませんが、ここまで頑迷だとただのへそ曲がりです(笑

結果的に南海の独断プランは実現せず、南海が白旗を振った形となりました。

難波駅で発車を待つ南海電鉄の『黒潮号』
(難波駅で発車を待つ『黒潮号』。『南海電気鉄道百年史』より)

阪和に1年遅れること昭和9年(1934)11月、南海も「黒潮号」を難波から運転、和歌山市から省鉄(国鉄)に入り、東和歌山駅(現在の和歌山駅)で天王寺からの「黒潮号」とドッキングし、白浜まで運転していました。こちらも、天王寺発に同じく二等車連結だったことは、『大阪府統計書』記載の南海難波駅の収支に、運転年から「特等」が出てくることからわかります。

このダブル「黒潮号」を利用したトリックを題材にしたのが、日本初の鉄道ミステリー小説である『船富家の惨劇』(1935年)です。西村京太郎などでお馴染みの鉄道ミステリーの原点は、この列車でもあったのです。

情勢の変化と『黒潮号』の廃止

「黒潮号」は日本の好景気と重なり営業成績も好調だったのですが、昭和12年(1937)から始まった支那事変による「非常時」につき、昭和12年12月のダイヤで廃止となります。が、それは実は世を忍ぶ仮の姿。

実は南紀直通列車は『黒潮号』以外にも毎日運転のものが何本かあり、ノンストップの『黒潮号』はなくなったものの、南紀直通列車がなくなったわけではなかったのです。

1940時刻表南紀直通列車

上は昭和15年(1940)の時刻表ですが、『黒潮号』はなくなっているものの、南紀直通列車は健在です。それどころか新宮行きつい先年まで走っていた新大阪発新宮行きを彷彿とさせる夜行列車まであったのです。こちらは釣り人用の太公望列車の役割もあったと思われますが、走らせているということはそれなりの「需要」があったということで。

その翌年の昭和16年10月28日、大阪府交通課からのお達しで、

「黒潮列車の如き観光列車を休止せよ」

という文章があります。この文章から、南紀直通列車は事実上「黒潮号」扱いされていたというわけですね。

ただし、阪和電鉄内を走る列車の場合、阪和電鉄内ノンストップは変わりないのですが、「黒潮号」は2等車(今のグリーン車)が連結され、和歌山を出たら白浜までほぼノンストップに対し、名無し南紀直通列車は基本各駅停車で3等車のみという、大きな違いがあります。しかし、それでも廃止どころか白浜から新宮まで延長されていたので、運行責任者の大阪鉄道局が

「やだねww」

と拒否ったのでしょう。

そして、南紀直通列車の最後がやってきたのは、戦争真っ只中の昭和18年。

消えぬ温泉街への遊客戦時下の軍需輸送に全力をあげている鉄道当局では温泉街への遊客抑制のため切符発売を制限したり、車両を減らしたりあらゆる方法で銃後の粛正を行っているが、このほど和歌山県から(※筆者註:大阪)府に達した情報によると、相変わらず商都近くの温泉街への遊客の流れがやまず、昨年中の遊客を調べてみると、白浜、勝浦両温泉街だけでも二十一万人に達しその4割9分は大阪人、次が兵庫県人というおもしろからぬ傾向を示している。
これは(中略)南海による電車客が多いものとみられるので、府保安交通課では同問題を大阪地方交通委員会にとりあげて鉄道当局と連絡、電車客に対しても(中略)和歌山行の切符販売に抑制を行うとなっている。

昭和18年2月7日 『大阪毎日新聞』( 旧仮名遣い、漢字の旧字体は現在のものに改め済)

と新聞にも書かれ、

戦争してんのに南紀への年間観光客21万人ってどないなっとんねん!!

と国が激怒。

黒潮号
(『阪和電気鉄道史』より)

そのペナルティーか、すぐに廃止されました。逆の見方をすれば、そんな時期まで「観光列車としての需要」があったってことですけどね…。

戦前の観光列車としての『黒潮号』の歴史はここにて途絶え、戦後の復活までしばし眠りにつくこととなります。

とある一枚の写真の謎

『天王寺鉄道管理局三十年写真史』という本には、一枚の謎の「黒潮号」の写真があります。

くろしお謎のテールマーク『天王寺鉄道管理局三十年写真史』より
(『天王寺鉄道管理局三十年写真史』より)

『黒潮号』には、写真のようなテールマークがあったようです。

正直なところ、私も半信半疑なのですが、天王寺鉄道管理局発行という一次資料に、戦前の『黒潮号』だと解説付きの写真なので、信憑性は高いのです。JRになった後の公式社史にも同じ写真が『黒潮号』として掲載されており、おそらくこの写真の流用でしょう。

それでも疑惑が消えず、こんな疑問が浮かびました。

筆者
筆者

このテールマークの写真、戦後のじゃないのか?

客車時代のくろしお
(『堺の鉄道110年』より)

別の資料から拾ってきた戦後の『くろしお』天王寺行きのヘッドマーク付き写真(昭和27年)です3
戦前の『黒潮号』と思われるテールマークとは、白黒写真とはいえ模様が違うということは明らかにわかります。仮に戦後の『黒潮』にもテールマークがあったと仮定すれば、ヘッドマークと模様を統一するはず。

ここで、『くろしお』の歴史を簡単にまとめます。

・戦前
★準急『黒潮号』:昭和8年(1933)~昭和12年(1937)
※土日のみ運転
※ただし、名無しの南紀直通列車は、『黒潮号』廃止後も毎日数本運行(~昭和18年)
・戦後
★臨時快速『黒潮』:昭和25年(1950)~昭和29年(1954)
※土日のみ運転
★臨時準急『黒潮』:昭和29年~昭和40年(1965)
※土日のみ運転
※昭和31年(1956)より漢字がひらがなの『くろしお』に
◎特急『くろしお』:昭和40年~現在★:客車で運行
◎:特急型車両(DC/電車)で運転

 戦後に『くろしお』が客車だったのは15年間、その間に写真のヘッドマークが変わった可能性もありますが、違う模様のマークなのは明らかです。やはり戦前の『黒潮』のテールマークの可能性が高い。上述した房総半島を方面準急、『漣(さざなみ)にもヘッドマークとテールマークが付けられていたことが、作家の宮脇俊三の回想に出てきます。
想像を広げると、戦前の『黒潮号』は、このテールマークが間違いなく戦前のものなら、紀勢本線内を牽引するSLにヘッドマークを付けていた可能性すらあります。

が!

このテールマーク、ほぼ間違いなく戦後のものだ可能性があるという、間接的な証拠が見つかりました。

阪和電鉄黒潮号パンフ南紀の楽土

阪和電鉄時代の、南紀への観光と『黒潮号』の乗車を促したパンフなのですが、

阪和電鉄のパンフ「南紀の楽土 白浜湯崎温泉」より-黒潮号「くろしほ」

その中の写真の一枚に、『黒潮号』の側面の行き先板の部分に、「くろしほ」と書かれたプレートが…。確かに戦前は旧仮名遣いなので「くろしお」ではなく「くろしほ」が正しいし、側板が「くろしほ」なのにテールマークが「くろしお」は、大阪鉄道局の秘蔵っ子列車にしては貧弱すぎます。

まだ決定的な証拠ではないので結論は出せませんが、『天王寺鉄道管理局三十年写真史』記載の「くろしお」は戦後のだと「仮」の断定をしておきます。

阪和電鉄は、その波瀾万丈さゆえに、11年しか存在しなかったのに現在でもこのようにネタにされ…もとい伝説となっていますが、その波瀾万丈さゆえに、そこを走った列車まで波瀾万丈になってしまう、まことに罪深き(?)鉄道路線だったのです。

それを知ってか知らずか、特急『くろしお』は今日も南紀へ向けて走り続けています。

・『阪和電気鉄道史』竹田辰男著
・『鉄道史料第108号 南海山手線の考察』竹田辰男著
・『天王寺鉄道管理局三十年写真史』日本国有鉄道天王寺管理局編
・『汽車時刻表』(戦前の時刻表)復刻版
・『南海電気鉄道百年史』南海電気鉄道編
・『開業五十年』南海鉄道編(1936年)
・阪和電鉄のパンフ

  1. 和歌山までの全通は翌年
  2. 現在の和歌山駅
  3. 鳳駅を通過中の写真。
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