収容所のその後
収容所跡は、日露戦争が終結した翌年の明治39年(1906)2月、捕虜の送還が完了したと同時に閉鎖されました。その後はしばらくは陸軍用地となっていたのですが、のちに元の地主に返還されました。
そこに目を付けたのが地元の素封家。彼らはお金を出し合って土地開発会社を設立し、俘虜収容所だった土地を買い占めて住宅地として開発を開始します。
海辺の風光明媚な高級住宅街としての高師浜の始まりです。
そして大正時代に南海高師浜線が開通し、現在に至る住宅地としての基礎が完成しました。
昭和3年(1928)の航空写真を見てみると、住宅地として開発されたての頃か、家はまばらです。が、その分、俘虜収容所の区画の面影がないこともない…かもしれない。
この5年後、浜寺公園内に建てられ景観を損ねていたという別荘の移住が開始され、高師浜にも一部が引っ越ししたという記録があります1。そこから家が増えていったのかもしれません。
ほんの2~30年前までは、浜寺公園駅界隈に負けないくらいの豪華な洋風建築が何軒かあり、かつてここが人もうらやむ高級住宅街だったという面影が、どこかしらに残っていました。私もこの目で見てはいたものの、記憶にあっても記録にはなし。なぜ写真に遺さなかったのかという後悔だけが残る結果となりました。
その中で、殊更印象的な家があります。
高師浜駅の前には、かつて大豪邸という言葉でもまだ足りないような、巨大なお屋敷が君臨していました。私も航空写真で発見した際、「なんじゃこりゃ!?」と驚きの声をあげてしまいました。映画やドラマ、アニメに出てくる「大金持ちのお屋敷」そのものではないかと。
数ある高師浜の住宅の中でも化け物級であるこの邸宅については、後日別記事にしようかと思います。しばしのお待ちを…
また、収容所近くにある高石小学校の戦前の校章には、あるものがありました。
明治39年(1906)年に制定され、約30年間使われてきた校章の中心には「P」の文字が。
これはローマアルファベットのPではなく、ロシアなどで使われるキリール文字(ロシアンアルファベット)のP。「ピー」ではなく「アール」。ロシアをロシア語では”Россия”(ラッシーア)と綴りますが、その語頭のPです。
”P”を桜花で包んであるのは、日露戦争の俘虜収容所をあらわしていると伝えられています2。日露戦争勝利記念に変えた説もあるそうですが、ロシアにちなんだ校章であることは確かです。
高石小学校の創立は明治11年(1878)と相当古いのですが、校章を変えるくらいに「日露戦争インパクト」が強かったのでしょう。
日露友好の像-今に生きる俘虜収容所
高石市の浜寺公園には、こんな像が建てられています。
「日露友好の像」と書かれたこの碑には、小泉純一郎総理大臣(当時)と、ロシアのプーチン大統領のサインが刻まれています。歴史を知らないと、なんでここにこんな像が建っているのかわかりませんが、当然収容所があったことにちなんでいます。
フィギュアスケートで有名なサギトワ嬢も、来日の際プライベートでここを訪れたそうです。サギトワ嬢は、近くの臨海スポーツセンター(大会にも使われるスケート場がある)での練習ついでかもしれませんが、わざわざ「こんなところ」まで訪れるところに、個人的に思うところがあったのかもしれません。
像の場所は、実際に収容所があった敷地からはズレていますが、ここにかつて日本とロシアが交わった、短い間に咲いた花のような歴史があったことを教えてくれます。
日本近代史の戦争に関するブログは、こちらもどうぞ!
・『高石市史』
・『高石町五十年史表』
・『高石市郷土史研究資料 1』
・北海道大学付属図書館 日露戦争捕虜収容所関係絵葉書
・国立公文書館 アジア歴史資料センター 「知っていましたか 近代日本のこんな歴史」
(https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p08.html)
・日本経済新聞 2020年9月3日付「ロシア兵捕虜、厚遇の跡 日露戦争時の大阪に収容所」
・『ユダヤ製国家日本』ラビ・M・トケイヤー
・『大林組80年史』大林組編
他
コメント
今回も楽しく読まさせていただきました。地元千葉県習志野市にもロシア人捕虜収容所があったので、イメージを繋ぐことができました。習志野も宗教別に分かれていたと想像がつきます。線路のが写真がありましたが、現在の南海高師浜線の前身となっていたのかどうか、興味はつきないです。