淳仁天皇陵-淡路島に残る唯一の天皇陵

野良歴史家の歴史探偵

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■淳仁天皇ゆかりの地を訪ねる-南あわじ市編

◆大炊神社(志知中島)

淳仁天皇陵から北へ数キロのところに、天皇の名を記した神社があります。

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「大炊神社」と書かれた看板が見えます。

ここは、休日のサイクリングでよく通っていたところでした。良い意味で田舎なので、農繁期を除いて交通量も少なく、自転車でのんびり景色を愉しみながらサイクリングできる好コースなのです。なのでこの看板はしょっちゅう目にしていました。

しかし、それまで興味がなく、島流し後も1年以上華麗にガン無視していたわけですが、淳仁天皇陵と関連があるとわかると、その重みが俄然違ってきます。無視するわけにはいかない。

 

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神社は「志知中島」というところにあります。西の大日川、東の馬乗捨川という2つの川に挟まれた地域にあり、集落が島のように見えます。しかし、馬乗捨川ってすごい名前やな。

Google mapの道の幅をイメージ通りに脳内変換してしまうと、志知中島という狭いエリアで迷子になってしまいます。淡路島全体に言えることですが、Google mapだけを見るとかなり広い道に見えるけれども、実際は軽自動車がかろうじて通れるほどの道だったりすることは、よくあります。特に都会住まいの方は、淡路島を訪れる際は気をつけましょう。

 

大炊神社淳仁天皇ゆかりの地

大炊神社南あわじ市志知中島

大炊神社は狭い集落の真ん中に位置していながらも、境内は意外に広く少し驚きでした。こんなところにこんな神社があったのかと。
向かった日は大雨だったせいか、境内には人ひとりおらず、静まり返っていました。建物もかなり傷んでおり、大きさの割には痛々しさを感じます。

 

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ここの祭神はもちろん、大炊大神と名を変えた淳仁天皇です。

この大炊神社と淳仁天皇にはどんな関係があるかというと、淡路島に流された天皇はここに幽閉され、亡くなったこの地に神社が作られたとのこと。
それだけなら、はいそうですかとすぐ納得するのですが、問題はその後のこと。

 

南あわじ市大炊神社の看板

「御遺体はここ天皇塚に埋葬されたと伝えられています」

という表記が。

ここで、ふつうに考えるとこうなります。

じゃあ、あの天皇陵は一体何やねん?

ここから、淡路島各地に伝わる「淳仁天皇ふしぎ発見」が始まるのです。

しかしその前に、「御遺体が埋葬された」天皇塚とやらを見てみましょう。

 

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まずは、『傳』淳仁天皇御聖蹟」の碑がお迎えしてくれます。

『傳(伝)』というのは、「~と言われている」というニュアンスで、確実ではないけれどそうだと(長くから)伝えられているということです。
そうなると、ほとんどの天皇陵は科学的調査が入っていないので、すべて『傳』になります。
仁徳天皇陵も、中学生の頃は「『伝』仁徳天皇陵」と習った記憶があります。何せ仁徳天皇陵が歴史の一部ではなく、いつも目の前に存在している所で育った私にとっては、『伝』にものすごく違和感があったことお覚えています。
そして高校の日本史では、うって変わって「百舌鳥耳原中陵」。後にカッコがつき「(仁徳天皇陵)」と書かれてはいるものの、もう一体なんやねん!仁徳天皇陵でええやないかい!と思ったものです。

それはさておき、大炊神社の片隅に、木々に囲まれた区画が存在します。

大炊神社の天皇塚1

明らかに、「何かある」においがプンプンします。

近づいて見ると…

 

 

南あわじ市志知中島大炊神社天皇塚

奥に祠のようなものがあることがわかります。
伝説によると、この祠の下に淡路廃帝こと淳仁天皇が永い眠りについている、「真の天皇陵」ということです。しかし、あくまで「伝」であり、真実はこの土の下だけが知っている。

 

◆野邊の宮(十一ヶ所)

次に向かうは、大炊神社から東へ3~4kmのところにある、「十一ヶ所」という変わった地名にある「野邊の宮」と呼ばれる場所です。

 

南あわじ市十一ヶ所野邊の宮

敷地内は老人センターという名前の公民館となっており、一見するとただの公園ですが、鳥居が公園の前にあることから、ただの広場ではないなということに気づきます。

 

 

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昭和5年(1930)に建てられた、兵庫県の史跡指定の碑も敷地内にあります。

 

 

南あわじ市野邊の宮天皇神社

ここ野邊の宮は、都から流された天皇が幽閉された屋敷の跡と伝えられており、天皇の御霊を鎮める祠が片隅に鎮座しております。この祠は小さいながらもいちおう神社で、その名も「天皇神社」です。

いや、このお社こそ天皇のお墓だと唱える人もおり、宮内庁も一時期ここを「陵墓参考地」とした時期もあるようです(陵墓参考地については後述)。

 

野邊の宮琵琶淳仁天皇

「天皇神社」の横には、淡路にながされた天皇が悲しみを癒やすために自ら琵琶を弾いたという伝説の碑があります。

しかし、「野邊の宮」と聞いて実際に行ってみると、前述の大炊神社よりビックリ。灯台下暗しか、住んでいた家の近所だったのです。
鳥居があるから何かあるんやろなとは思っていたのですが、その不思議に気づくまでに1年以上の時間を要しました。

 

◆宝積寺(十一ヶ所)

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「野邊の宮」から歩いて2~3分くらいの距離に、「宝積寺」というお寺があります。読みは「ほうしゃくじ」で、「ほうせきじ」ではありません。

 

南あわじ市宝積寺

一見、どこにでもあるお寺なのですが、前に「淡路四国八十八ヵ所霊場」という幟があります。宝積寺はその23番目の札所だそうで、私はもらいませんでしたが御朱印もあるのではないかと思います。ちなみに、「淡路四国八十八ヵ所霊場」とお遍路さんで有名な「四国八十八ヶ所」と何の関係があるのか、そもそも関係あるのかはわかりません。

で、この宝積寺と淳仁天皇とは何の関係があるのかというと。

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天皇の位牌が納められているとのことです。ただそれだけなのですが、一度その位牌とやらを見てみたいものです。

 

◆「丘の松」(十一ヶ所)

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宝積寺とは違う方向、東にも天皇ゆかりと言われるものがあります。

 

淡路島丘の松

野邊の宮から見るとこんな風景ですが、まあただの森です。
しかし近づいてみると、

 

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ここも陵墓と同じような立て札が。

ここも宮内庁が管理している土地で、「陵墓参考地」と呼ばれるところです。
「陵墓」ではなく陵墓”参考地”…陵墓と何が違うのか。
陵墓参考地とは、一言でいうならば「確証は持てないけれど、天皇陵の可能性あり」というものです。形や地元の言い伝え、古書の記録などの見方により「天皇に関係あるかもしれないので、いちおう国が土地をキープ」というニュアンスです。
この陵墓参考地はそんなにレアなものではないようで、Wikipedia先生によると、2府16県に46ヶ所存在しています。遠くは安徳天皇のお墓と伝えられる参考地が、下関にあったりします。
ここもそのうちの一つで、宮内庁の正式名称は「市(いち)陵墓参考地」というものです。地元では古くから「丘の松」と呼ばれてきました。

昔から地元の人の間では良い意味でのアンタッチャブルな地だったのか、周りは住宅地と農地なのにここだけ手付かずの「ジャングル」と化しています。

 

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その中でも、かなり幹が太い樹木を発見。樹木は専門外なので何の木かは知りませんが、相当大きい。ド素人目から見ても樹齢5~600年、もしかしてそれ以上じゃないのかと。
もしかして、この「丘の松」が出来た時の生き残りの木かもしれません。そう考えると、たかが木から歴史のロマンを感じませんか!?
せめてこの木の樹齢だけでも調べたいのですが、宮内庁がOKを出すわけがないか。

 

 ◆天皇陵は一体どこか

この天皇陵にまつわる伝説・伝承にはいくつかの謎があります。
淡路に流された後の幽閉場所だけでも2ヶ所あり、埋葬場所も2ヶ所。真実は常にひとつですが、ここからは、『三原郡史』などの公式郷土史や、淡路島歴史学会(?)の研究結果などを参考に、天皇の埋葬場所を書いていくことにします。

 

そもそも、現在の天皇陵を天皇陵だと主張したのは、江戸時代の地元の庄屋だった仲野安雄という人物でした。8代将軍吉宗の治世だった1730年頃、仲野は『続日本紀』に記された、「廃帝陵は淡路国三原郡にあり、東西六町、南北六町」を根拠に『延喜式』や『東鑑』などの史料を読み解き、根拠のない民間伝承を排除した上で、「天王の森」と地元で呼ばれていた丘陵を陵墓だと断定しました。

天皇陵がある旧三原郡は、今でもそうですが、一帯は見渡すかぎりの平野です。そこに「山陵」と呼べるものは「天王の森」と当麻夫人のお墓以外、ほとんどありません。実際に見ると、田畑の緑の海の上に浮かぶ島のようです。

それ以上に驚きなのが、江戸時代、それも田舎の一農民が、今の歴史学者の研究と変わらない科学的アプローチで導き出したこと。「庄屋」は確かに村の名士でありインテリではあるものの、一つ皮をむけばただの農民。農民が古今の歴史書を読み解き考察し仮説を出す。やっていることは大学の研究者レベルです。それほどの教養があったなどと言えば、農民がそんな教養あるわけないじゃんと、外国人は信じてくれません。欧州の農民は、無知蒙昧で字が読めるなんてとんでもないというのが常識ですから。

それはさておき、淳仁天皇陵が宮内庁から陵墓に指定されたのは明治時代のことですが、その根拠もおそらく仲野安雄の説に説得力があったのでしょう。それから、淳仁天皇は淡路陵に葬られているというのが、現在では公式設定となっています。

 

それとは別に、野辺の宮、あるいは「丘の松」を埋葬地と唱える人たちも、古くから存在していました。

蒲生君平肖像

仲野安雄の説の約70年後、水戸の儒学者である蒲生君平という人物が、野辺の宮と「丘の塚」説を唱えます。この人物はガッチガチの尊王攘夷派なのですが、そのイデオロギーの一つとして各地の天皇陵を調査し、『山陵志』という全国の天皇陵の研究書を記しました。

『山陵志』は尊皇攘夷論を正当化するための政治的書物なのですが、意外に現代考古学的なアプローチをしており侮れないと、近年再評価されている「天皇陵研究入門」になっています。我々が普通に古墳に対して使っている「前方後円墳」の名前もこの『山陵志』が出典元で、蒲生の造語です。
ちなみに、『山陵志』の直筆原典は国会図書館にデジタル保存され、ネットで公開されているので誰でも閲覧可です。ただし、原文は漢文なので見ても意味不明だと思います。私も数ページ見て謎の頭痛が起こり、静かにタブを閉じました。

蒲生の根拠は、地元で語り継がれている言い伝えから。
野辺の宮辺りは、天皇と一緒に淡路へやって来たお供の子孫、天皇の墓守の子孫を名乗る人も江戸時代に居住しており、古くから天皇陵はここにあると言われていたそうです。
阿波藩から指名を受けて調査した学者も、やや尊皇攘夷派寄りだった影響もあるものの、この説を支持していました。しかし阿波藩の偉かったところは、「丘の松」説はあくまで言い伝えなので他の説も参考にしてねと、他説を排除しなかったこと。江戸時代にしてはかなりの慧眼です。

また、『陵松ノ義』という地元の古くから伝わる里謡には、こんな一節があります。

「ココハ淡路ノ廃帝様ノ御陵松カヨ尊シヤ」

「ココ」とは丘の松のことで、地元ではここが御陵だとかなり古くから伝えられているそうです。宮内庁も、島に古くから残る伝承を無視できなかったのでしょう、「丘の松」を陵墓参考地に指定し、キープして現在に至っています。

 

天皇陵野辺の里説もう一つの根拠は、律令時代の淡路国の国府の場所。
奈良~平安時代の「淡路国」の国司が駐在する国府がどこにあったのか。実は今もって不明です。

 

天皇陵の近くに「国衙(こくが)」という地名があります。「国衙」は昔の国府を指す言葉なので、ここじゃないかと思われがちです。何せ地名として残っているのだから。Yahoo!知恵袋などのネットでも、ここだと断定している人がいます。

しかし、地域史の『三原郡史』は、違いますとあっさり否定しています。ここは鎌倉時代に国府が置かれ、それに基づいた地名だと。

じゃあ、どこにあったのかという目星はあるのかと。実はあります。

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淡路島の歴史を阿波藩が藩の公費を使って調査した、『味地草』という報告書などをまとめると、だいたいここあたりになります。ここもかつては「国衙」と呼ばれていたそうで、文献上の理屈ではほぼ確定とのこと。ただ、国府があったという考古学的証拠(現物)がないのが玉に瑕。逆に言うと、国府にまつわる何か出てきさえすれば確定ということですね。

地図で見てみると、伝幽閉地の野辺の宮や「丘の松」と目と鼻の先です。流罪の天皇は国司に厳重に監視されていたと『続日本紀』に記されているので、監視するには手元に置いておく方がやりやすいでしょう。地理的条件はバツグンです。

上に書いた『山陵志』も、淡路国司館近くに廃帝陵あり。祠あり」と書いています。

 

もう一つの、大炊神社の天皇塚説は言い伝えはあるものの、他の2つに比べ信憑性は落ちるそうです。「地元ではそう言われている」ということだけで、歴史学的には全く証拠がありません。ただ、大炊神社という、古くからある「現物」はどう説明するのかなど、はい違いますと斬り捨てるのも…という感じみたいです。

 

現代の常識的な考察だと、以下のようにまとまっています。

1.淡路廃帝が幽閉された場所:野辺の宮か大炊神社
2.廃帝死去後の初葬地:「丘の松」
3.光仁天皇即位後に改葬:「天王の森」こと今の天皇陵

きれいにまとまって一件落着。これにて本記事は終了!
…といきたいのですが、まだこれで終わりではないのです。
「淡路ふしぎ発見」のミステリーハンターよろしく、次の土地へ。

NEXT:まだある!淳仁天皇ゆかりの地

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