淳仁天皇陵-淡路島に残る唯一の天皇陵

野良歴史家の歴史探偵
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■淳仁天皇伝説はまだあった!滋賀県編

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場所は、淡路島から一気に飛んで、なんと近江国(滋賀県)へ。
琵琶湖の北部、湖に突き出た半島の先に「菅浦」という集落があります。ここは昭和46年まで陸路で行く手段がなかったという隠れ里だったそうで、今でも「隠れていないかくれ里」として知る人ぞ知る地です。平成生まれの人には昭和46年は大昔ですが、昭和生まれの人間にとって昭和46年なんて「ほんの数年前」の感覚。そんな時期にまで人知れず(?)残された集落があったとは。

菅浦には、「須賀神社」という名の社があります。

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ここは日本でも珍しい「土足厳禁」の神社。今はご丁寧にスリッパが用意されているそうですが、信仰心の篤い人や地元の人は、靴下すら脱ぎ素足で入内するそうです。菅浦集落自体が昭和46年まで船で行くしかなかった隠れ里、もしかして、神のおわす領域は土足禁止という古代神道の参拝の原型を残しているのかもしれません。

土足厳禁なだけでも変わった神社ですが、ここにはもっと変わったことがあります。この須賀神社のご祭神が、実は淳仁天皇なのです。
この神社の創建は天平宝字3年(764年)と伝えられていますが、この年は藤原仲麻呂の乱が起きた年であり、淳仁帝が廃帝となり淡路に流された年でもあります。
しかし、流されたのは淡路ではなくここだ!と、須賀神社とここの伝説が強く自己主張しています。天皇の「御陵」も神社の裏にあるという言い伝えがあります。

そんな隠れ里と淳仁天皇、何の関係があるのか。

淳仁帝のバックにいた藤原仲麻呂(恵美押勝)が反乱を起こしたことは、前編で書きました。その反乱の場所が近江国の北部で、朝廷軍と実際に戦った戦場や藤原仲麻呂が指揮を執った砦も今の湖北地方です。

 

藤原仲麻呂の乱と菅浦と須賀神社

Wikipedia先生の地図を引っこ抜いてきた上で、菅浦の場所を追加したものですが(赤い★印が菅浦の場所)、乱の現場のすぐ近くということがわかると思います。

藤原仲麻呂は琵琶湖から船で脱出しようとしたものの捕まり、首を斬られたのですが、淳仁天皇は中立を守り近江にいなかった。それが歴史学の定説になっています。しかし、乱の主戦場だった近くの集落に天皇が逃げ、ここで生涯を閉じたという、平家の落人ならぬ淳仁帝落人伝説が、今でも根強く残っているのです。

科学的アプローチでは、淳仁天皇が近江国に行った記録はありません。なのでよほどの物的・史料的証拠がない限り伝説乙でこの話は終わってしまいますが、地理的につながりがないこともない土地に伝説が残っているのは伊達ではない。

おまけに、くどいようですが45年前まで陸路で行くのはほぼ不可能だった土地、隠れる条件としてはこの上ない場所でもあります。
私は歴史に関しては冷血な実証主義者ではありますが、こういうロマンも歴史の隠し味として味わうのも悪くないと思います。冷血ばかりじゃ面白くないですからね~。

 

淡路島から、実際には行ってないのでサラっとながら滋賀県まで飛んでしまった淳仁天皇伝説。まさか近江まで飛ぶとは予想外でしたが、たかが一人の天皇でもこれだけの伝説が各地に残っているだけでも、古代史のミステリーとして十分楽しめただろうと思います。

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