前回、ふとしたことから淡路島の鉄道のことを知り、記事にしました。
淡路島に鉄道が走っていたなんて知らなかった!
という声がありましたが、それは仕方ない。廃止されて既に51年が経ち、鉄道の痕跡すらほとんどなくなっていますから。しかし、地元の人の間では世代から世代へと語り継がれているようで、かつて鉄道が走っていた道を、今でも「電車道」と言っています。
洲本には「市立淡路文化史料館」という歴史博物館があるのですが、そこには淡路鉄道の写真の絵葉書が、5枚一組¥250で売られています。
その中には、珍しいカラー写真もあります。
淡路島の鉄道の電車って、こんな色してたんですね。
淡路島の鉄道の父
この淡路島の鉄道建設に尽力した人物に、賀集新九郎がいます。淡路鉄道の創始者にして初代社長、淡路島に鉄道を作るために人生を賭けたと言っても言い過ぎではない人物です。
今の南あわじ市最大の地主だったという賀集家は、新九郎のお父さんが明治に鉄道敷設を申請しますが、上の年表のとおりいったん却下されます。
その意思を引き継いだ新九郎は、再び淡路島に鉄道を建設すべく東京へ何度も向かい、役人を説得したと言います。
その甲斐あって許可が出たものの、今度は第一次世界大戦後の不景気で資金不足に。新九郎は、私費をはたいて建設費を捻出し、無事完成に至らしめたとのことです。
その後、賀集新九郎の功績をたたえ、淡路鉄道本社に「表功碑」が建てられました。
現在は、地元の賀集八幡神社の中に移転されています。
賀集新九郎の邸宅は戦後も残っていたのですが、のちに火事になり跡形もなくなってしまったそうです。しかし、淡路島でも指折りの大地主の家だけあって、まるで城のようだったという記録が残っています。
洲本市立図書館所蔵の、昭和初期の洲本市街の写真です。洲本城がある三熊山から撮ったものです。
鉄道と関係ない写真ではありますが、赤い矢印のところに洲本駅がありました。その左側にある、煙突がある建物は鐘紡(カネボウ)の紡績工場で、今のエディオン洲本店やレンガの建物がある場所です。
洲本川を渡る蒸気機関車です。昭和初期の写真。
淡路島は俳句が盛んなところらしく、松尾芭蕉の最古参の弟子であった服部嵐雪(1654-1707)は今の南あわじ市出身、江戸時代後期には農民が俳句同好会を作って句会をやっていたそうです。そのせいか、駅の柱に俳句が飾ってあったそうです。これは福良駅のもの。
昭和30年代の洲本港です。夏になると関西各地から観光客がやってきて、大賑わいだったと聞いていますが、この写真を見ても賑わいが感じ取れます。それより、船が定員オーバーちゃうの?(笑
それでも写真を見る限り、客の積み残しがあるようです。正直、今の洲本を見ているとこの光景と人だかり自体が信じられない気分です。
コメント
最後の写真、駐車場がある埠頭から洲本城の方を撮影した写真ですね。
写真右上の遠くに見える建物はホテル海月?宿泊した時ずいぶん年季の入った建物だなと思いましたが、もしかして、この写真に写っている建物と同じ建物?なのかもしれません。そりゃ、年季が入っているはずですね。