八日市遊郭跡(延命新地)|駅前に広がった色街の場所と歴史

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滋賀県東近江市八日市にあった遊郭の詳しいブログ 遊郭・赤線跡をゆく
近江鉄道の八日市駅と八日市の遊郭

滋賀県の旧八日市市、現在は東近江市となっている八日市駅のすぐ南側に、かつて「延命新地」と呼ばれた遊郭が存在していました。
現在ではその面影はほとんど残っていませんが、地図で見ると“駅前遊郭”という特異な立地がはっきりと確認できます。

本記事では、実際の位置関係がわかる地図をもとに、
・八日市延命新地の正確な場所
・なぜ駅前に遊郭が残り続けたのか
・軍隊との関係による発展の背景

を、現地写真と資料を交えて解説します。

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八日市遊郭(延命新地)の場所

まずは、かつての遊郭の範囲を地図で確認してみましょう。

滋賀県八日市の遊郭、延命新地の地図

遊郭は近江鉄道の八日市駅前南側、現在の八日市本町から栄町にかけての範囲で、さすがに徒歩0分ではないものの、数分も歩けばそこは遊郭の入口でした。
つまり、私の造語でいう「駅前遊郭」だったと。

詳しくは遊郭跡を歩くの項で具体的に解説しますが、赤線廃止後も八日市の盛り場として栄えていたようですが、現在は寂れた場末の町となっています。

近江の「駅前遊郭」の歴史

滋賀県のローカル鉄道、近江鉄道の路線が合流する街、八日市。江戸時代から商業の町だった八日市には人・モノ・金が集まる。そこには当然、色街もできあがりました。

遊郭はその八日市駅の南側に位置し、俗に「延命新地」と呼ばれていました。
八日市駅の南側、駅から目と鼻の先…つまり私の造語でいう「駅前遊郭」なのがよくわかると思います。

歴史的に、近江鉄道の八日市駅が明治32年(1899)開業なので、「遊郭の前に駅が出来た」という事になりますが、こうなるとふつうは、

住民
住民

駅前に遊郭なんてけしからん!!

と移転運動が起き、古参の遊郭の方が移転させられることが多いです。
遊郭にとっては

こっちの方が古参やのに!

と、とんだ迷惑だったことでしょう。

しかし、ここの場合どうも移転運動がなかったのか、昭和33年(1958)の売防法施行までずっとこの位置でした。「駅前遊郭」は全国でも比較的レアな存在です。

「八日市」という名前のとおり、定期的に市が開かれ流通の中継地だった八日市は、そのせいか、滋賀県の統計書によると滋賀県の遊郭の中でもけっこうな発展ぶりなことがわかります。

八日市遊郭の名前は、明治16年(1883)の滋賀県の遊廓の一覧に、大津や彦根などと並んでその名が出てきます。

筆者が持ち合わせている資料によると、八日市遊郭の数字は以下の通り1

貸座敷数娼妓・芸妓数
明治16年(1883)17軒40人
明治21年(1888)17軒42人(芸妓17人)
明治31年(1898)30軒44人(芸妓40人)
大正元年(1912)31軒39人(芸妓46人)
大正6年(1917)39軒81人(娼妓・芸妓合計)
大正10年(1921)44軒55人(芸妓49人)
昭和5年(1930)41軒91人(娼妓・芸妓合計)
昭和10年(1935)35軒70人(同上)
昭和11年(1936)34軒45人(芸妓29人)
昭和19年(1944)19軒(不明)

こうして見ると、八日市の遊郭は花街も合わさった「芸妓混在型遊郭」だったことがわかります。
身体を売る娼妓より芸妓の方が多い時期もありましたが、そもそも関西の「遊郭」は、今の業態で言えば祇園のような花街と飲み屋街、そして風俗街が合わさった「混合型歓楽街」。
そういう意味では、八日市延命新地はこの3つが合わさった「総合遊郭」(これも私の造語)。
遊郭って「ヤる」だけじゃないですからね。

大正10年(1921)の八日市以外の滋賀県の各遊郭の数は、以下の通り。

★大津
貸座敷:140軒 娼妓数:169人 芸妓数:220人
(※大津にあった4ヶ所の総計)

★草津
貸座敷:14軒 娼妓数:25人 芸妓数:44人

★彦根
貸座敷:69軒 娼妓数:73人 芸妓数:115人

★長浜
貸座敷:16軒 娼妓数:43人 芸妓数:46人

出典:『滋賀県統計全書』

数字だけを見ると、八日市は大津・彦根に次ぐ規模で、今の地味な(!?)姿からは想像もできません。

遊郭あるところの商店街は栄える。
延命新地の隣の「本町通り商店街」は八日市、いや、滋賀県でも随一の繁華街と言われたほどの賑わいをみせていました。
図書館の郷土資料に付録の写真を見ると、確かに栄えとったんやなーということがわかります。

かつての賑わいはどこへやら…八日市の本町商店街

そんな本町商店街も、2025年はうら寂しさを残すひなびた商店街に。
筆者が訪問したのは日曜日でしたが、休日なのに人がいないのは寂しさ以上に少し怖ささえ感じました。

延命新地と軍隊

延命新地の発展の理由は、それだけではありません。
そこには、軍の影がちらつきます。

筆者
筆者

軍隊あるところ遊郭あり

筆者の経験から生まれた確信的な法則です。

コンビニの片隅に立つ八日市飛行聯隊正門跡の碑
東近江市(八日市)東沖野。コンビニの片隅に立つ八日市飛行隊正門跡の碑

今じゃ自衛隊すらもいませんが、戦前はここに陸軍航空隊の基地がありました。

日本で飛行機が飛んだのは、明治43年(1910)に代々木練兵場で徳川好敏陸軍大尉が操縦したのが始まりとされています。
八日市に飛行場が出来たのはその6年後の大正5年(1916)。
最初は民間飛行場でしたが、飛行場が欲しい陸軍と地元活性化の起爆剤が欲しい行政との思惑が一致。
大正9年(1920)12月に「陸軍航空第3大隊」が八日市に作られました。

八日市の飛行聯隊の基地正門。沖原神社に移転されたもの

それはのちに「飛行第3聯隊」となって大所帯になり、昭和13年(1938)には「飛行第3戦隊」とどんどん昇進、爆撃機まで配備されて大陸にまで遠征に行くこともあったそうです。
『八日市市史』によると、敗戦で米軍が接収に来た時でも最新鋭の五式戦闘機も含む224機が残ってたといい、すべて焼却処分されました。

八日市に残る旧飛行体の掩体壕
Googleマップより

飛行場消滅後は農地や住宅地として払い下げられたものの、掩体壕が朽ち果てながらもわずかにその姿を残しています。

何せ当時は娯楽らしい娯楽がなく、兵隊は「食う・寝る・ヤる」くらいしか娯楽がない。
遊郭側から見ても、軍隊の兵隊さんは金離れもいいし暴れたら上官より怖い憲兵が飛んでくる。
なのでマナーの良い上客として「熱烈歓迎☆」でした。
「軍と遊郭は持ちつ持たれつ」。ここ八日市も例外ではありませんでした。

この飛行部隊について書かれた郷土資料に、わずかながら遊郭のことが書かれていました。
それによると、八日市の遊郭は規模は小さかったものの活気があり、休日には航空部隊の兵隊で貸切状態。

軍隊というところ、「星の数」が絶対的な威力を発揮する世界。
兵隊と下士官が同じ時間帯、同じ女でぶつかったら、それこそ斬った殺したの世界になりかねない(汗

そこで、階級ごとに遊郭の登楼時間が決まっており、
・初年兵:昼間
・上等兵:夕方5時まで
・下士官:夜8時まで

とばったり鉢合わないよう配慮していたそうな。

将校はタテマエ上遊郭への登楼は禁止(芸妓と遊ぶのはOK)、憲兵は「軍隊の中の警察官」という職務上「武士も食わねど高楊枝」状態。
ところが、下士官も兵もいなくなった深夜にコッソリ行ってたそうです(笑

また、昭和10年(1935)の国勢調査によると、当時の八日市町の人口は、男性:3,763人 女性:4,095人。女性の数が男性を上回っています。
これは遊郭の女性の数が入っているから。自然界は人口調整せずに放置していると、自然に男:女≒1:1になるように「神の手」が動くそうですが、八日市町は「女の世界」だったということですね。

もちろん、遊郭の客は軍人だけではありません。が、軍隊さまさまで栄えたという延命遊郭は、戦争中も「休まず営業」。昔みたいなどんちゃん騒ぎは時勢柄自粛だったものの、年中無休状態だったそうな。

木偶坊伯西
木偶坊伯西

お次は「性地巡礼」編。2011年にも回ったことがあるので、その時との比較の形でめぐっていきます!

八日市延命新地を歩く【性地巡礼】

前述のとおり、八日市の遊郭は14年前の2011年に探索済だったりします。
今回は、14年前の延命新地と現在(2025年)を一部対比していきながら巡っていきます。

八日市の遊郭延命新地の昔の姿
2011年撮影

かつての延命新地の入口は、飲み屋の跡が残る遊郭らしいたたずまいでした。
ここから遊郭なのか…という、ちょっとしたワクワク感さえ感じる場所でした。

画像左側の食堂や理容店は現存しているので、現在と比較しやすいと思います。

そして14年後。

八日市のホテルルートイン。延命新地遊郭の入口に建った
2025年撮影

大きなホテルが建っており時代の流れを感じました。
いちおう、ここは遊郭の入口だったんだけどねぇ…

八日市延命新地、招福楼
2011年撮影

食堂と理容店の間にぽっかり穴を開けるような門構えを誇るのが、「招福楼」という料亭。門構えからして非常に敷居が高そうなお店です。

かつては延命新地一の大きさを誇った高級料亭で、大正10年の復元地図にも掲載されている老舗でもあります。
入口からずっと奥の奥を見ても、建物が見えない。遊郭全体の3割弱の面積を占めているのだからさもありなん。

一体中はどんな作りになっているのか。少し気になるのでお昼の定食はハウマッチ?とHPを調べてみました。すると!!

い、いちまんきゅうせんはっぴゃくえん!!
(※19,800円です)

昔行った大阪の貝塚遊廓の料亭「深川」の昼会席8,000円弱でも涙が出そうだった、その倍以上かい!
おまけに、「別途奉仕料20%いただきます」と書いてるし。実質2万円以上。

こりゃ宝くじ当たるか、結婚とかのデカいイベントでもない限り、あたしにゃご縁はございません、トホホ。

八日市の遊郭延命新地、招福楼の壁
2011年撮影

「招福楼」を囲む東側の外壁です。
遊廓時代は「黒い板塀」で囲まれていたという記録が残っていますが、今は何の面白みもないコンクリートの壁。

八日市延命新地のさつき楼
2025年撮影

しばらく来ない間に、延命新地にはこんなものが出来ていました。「さつき楼」と書かれています。

大正時代の復元地図や『全国遊廓案内』には「五月楼」という妓楼の名前がありますが、「さつき楼」は「五月楼」とは場所が若干違う。
ここが元遊郭だったのを意識はしてるのでしょうが、元妓楼をリフォームしたものではありません。

ひととおり延命新地を回ってみましたが、昔と比べてかなり建て替えが進んでいました。
「さつき楼」あたりは元妓楼がいくつか形を変えずに残っていたのですが、ほとんど消えてなくなっていました。

八日市の遊郭、延命新地の延命湯
2025年撮影

しかし、銭湯の「延命湯」は全く姿を変えず残っていました。
延命新地の南端にあるこの銭湯の創業は昭和7年(1932)。遊郭時代からあったお店です。
遊郭の遊女たちもここでお客の迎えの準備をしたり、遊女がワイワイ客や楼主の愚痴を言って花を咲かせていたことでしょう。

料金は大人でも430円。遊郭めぐりついでにひとっ風呂浴びるのもまたよし。

八日市の遊郭、延命新地

「延命湯」の前には、清水川という小さい川が流れています。そこに架かってる橋から新地を撮ってみました。
写真を橋の手前がいわゆる「娑婆」、この橋を渡ると遊廓の別世界が待っている。
遊女は籠の鳥、廓の外へは出られません。ここまで客を見送った遊女が、客の後ろ姿を見守りながらやるせない気持ちを奥に秘め、ただそれを見守るのみだった…なんてことが、この橋の界隈であったかもしれません。

八日市遊郭、延命新地の元妓楼清里楼

昔に比べかなり建物がなくなってしまった延命新地ですが、「招福楼」の、南側と東側の壁が交わる前には、まだ建物が残っていました。

八日市遊郭、延命新地の元妓楼清里楼

ここは「清里楼」という元妓楼で、1階部分は赤く塗られた格子が残っています。
正面のインパクトが強いこの元妓楼ですが、後ろに回って見てみると、

八日市遊郭、延命新地の元妓楼清里楼

裏はたぶん当時のまま残っていると思われます。
よく見ないと見落としますが、「旧清里楼」の裏には渡り廊下があり、隣の建物に移動できたこともわかります。
正面から見たらすごく小さく見えても、奥はかなりの大きさ。これぞ「遊郭建築」と言えるのではないかなと。

以前アップしたブログで使用した、2011年当時のGoogleマップのスクショが残っているのですが、当時ここは旅館だったようでした。

八日市遊郭、延命新地の元妓楼、遊郭
2011年撮影

2011年撮影の写真を改めて見ると…確かに看板あるわ。
それでも、営業はしてなさそうな雰囲気でしたけどね。

売防法による赤線廃止で、延命新地の店は営業形態を変えざるを得ませんでした。そこで、旅館派と料理店派に分かれました。
その旅館も、「駅前遊郭」の立地条件的には悪くなかったものの、その後の経営は振るわず現役の旅館としての旧遊廓の妓楼は残ってません。

せっかく旅館だったのだから、玄関を叩いてでも一度は泊まってみたかった。少なくても「招福楼」のランチより敷居が低いわい(笑

八日市延命新地の元妓楼
2011年撮影

昔はこんな細い道にも妓楼が残っていたのですが、今は跡形もなく。

2011年当時でも、いちばん延命新地らしい道が、延命湯の裏側の道でした。

八日市の遊郭、延命新地
2011年撮影

こんな風に道の両脇に元妓楼や置屋と思われる建物が並び、「遊郭通り」なんて勝手に呼んでいたものです。

八日市遊郭延命新地「髪結いの店」
2011年撮影

地図には「髪ゆいの家」と書かれた、かなり個性的な2階の装飾が気になる建物が残っていました。
2019年のGoogleマップストリートビューにもその姿が残されていますが、2025年に再訪問した時は残っていなかったような。

八日市延命新地の元妓楼、寿し元楼
2011年撮影

この「遊廓通り」の最後を〆るのは、「旧寿し元楼」の建物でした。
かなりリフォームされていましたが、2階部分の格子がわずかに往時を偲ばせていました。

八日市の遊郭、延命新地
2011年撮影

ここにもかつては、両脇に妓楼が並んでいたといいます。

八日市遊郭、延命新地の検番跡
2011年撮影

遊郭の検番があった場所には、かつてこんな建物が建っていました。
戦後の赤線時代の「事務所」だったのか?いやでもこれは遊郭当時の建物ではないはずだけど、コンクリ打ちっぱなしとは言えかなりレトロ感を醸し出していました。

八日市遊郭、延命新地の検番跡の前にあった「角正楼」
2011年撮影

その検番跡の前にあった旧「角正楼」。
ここも赤線廃止後は旅館に転業組でした。

八日市遊郭、延命新地の検番跡の前にあった「角正楼」
2025年撮影

こちらは2025年時点で現存中。
旧検番の建物がなくなってしまったおかげで、全景を真正面から撮影できるようになりました。

八日市遊郭、延命新地の旧吉勝楼
2011年撮影
八日市遊郭、延命新地の旧吉勝楼
2011年撮影

こちらは料理屋組。旧「吉勝楼」だった建物。
戦前の地図によると、上の「吉かつ」という会席料理屋だった建物は別の貸座敷で、下の方が「吉勝楼」だったとのこと。

残念ながら、2025年時点でどちらも現存していません。

八日市遊郭、延命新地の旧角菱楼
2011年撮影

その旧吉勝楼から本町通商店街へ伸びる道にも、遊郭の建物が残っていました。
こちらは旧「角菱楼」と思われる建物。

八日市遊郭、延命新地の旧角菱楼の、2025年の姿
2025年撮影

2025年はこの通り。まだ残っていることは残っていますが、写真以上に朽ち果てぶりがひどいので、見に行くなら今のうちです。台風が来たら一発崩壊すると思います。

八日市遊郭、延命新地内の飲み屋街
2011年撮影

延命新地内には、こんなスナック街、飲み屋街がありました。いや、今もあるのですが、空き家が並び現役の店はなさそうなので、「過去形」で良いでしょう。

八日市遊郭、延命新地内の飲み屋街
2011年撮影

こちらは赤線とは関係ないですが、カフェー建築っぽい黒タイルがなんだか元遊郭らしいなーと。

八日市遊郭、延命新地内の飲み屋街
2025年撮影

その13年後の姿がこれ。
2011年当時は、人の気配はなかったもののまだ綺麗だったのですが、2025年になるとゴミが溜まり、完全に廃墟と化していました。

こちらも、崩壊するのは目の前ですね。

これにて八日市編、読み終わり。

まとめ

八日市延命新地は、八日市駅の南側という極めて珍しい「駅前遊郭」として発展した色街でした。

本記事のポイントを整理すると以下の通りです。

  • 八日市遊郭は駅開業後も移転せず、戦後まで同地に存続
  • 芸妓と娼妓が混在する「総合型遊郭」として発展
  • 陸軍航空部隊の駐屯により需要が拡大
  • 商店街と一体化し、地域最大級の繁華街を形成
  • 現在は痕跡が薄れ、往時の賑わいはほぼ消失

現在の静かな街並みからは想像しにくいものの、
地図と史料を重ねることで、ここが確かに「人と欲望が集まる都市空間」だったことが見えてきます。

現地を歩く際は、ぜひ地図と照らし合わせながら、
かつての延命新地の姿を想像してみてください。

関連記事ー他の遊郭の記事はこちら!

  1. 出典:『滋賀県統計書』『滋賀県市町村沿革史 第3巻 (各論) 第六編 八日市市および神埼郡』 ↩︎

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