キャラバシ園-ユートピアに終わったユートピア

キャラバシ伽羅橋園大阪史
伽羅橋駅

大阪に「伽羅橋」という、南海電鉄の駅があります。
伽羅橋という変わった地名からは、何か良い香りが匂うような香ばしさを感じます。
伝説によると、戦国時代も終わりの頃に豊臣秀吉が紀州の雑賀衆征伐の帰りに小休止し、橋の上で煙草の火を落とすと、何やら香ばしい香りがしたそうな。その橋は高級な木である伽羅で作られた、贅沢極まりない建造物だったのです。それが伽羅橋という名前のの由来となっています。
もちろん、その橋は現存せず地名にも残らず、ただ鉄道の駅名にのみその伝説を留めています。

高師浜線は、大阪と和歌山を結ぶ南海本線の羽衣駅から、盲腸のように支線が南に向かって垂れている支線。二両編成の電車が、羽衣と高師浜間を行ったり来たりしている大阪のローカル線。そのの途中に、今回の主役である伽羅橋駅が存在しています。

駅の周辺は、閑静な住宅街となっています。良くも悪くも、カステラで有名な「銀装」の本社工場以外何もありません。歴史を知らない人は、

なぜこんな所にこんな鉄道を作ったんだろう?

と不思議に思うかもしれません。
しかしそこに、「ユートピア」を造ろうとした男がいました。その男の名前は、山川逸郎

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伽羅橋をつくった男、山川逸郎

かれは江戸時代より高石近辺の庄屋を勤めていた山川家の御曹司で、明治時代に初代高石村長を務めたこともある山川和正(1834~1918)を父に持ち、若いころアメリカに留学していた経験もありました。当時としてはては非常なるインテリであり、大阪弁でいうガチの”ボンボン”でもありました。

逸郎は旧制堺中学1から関西学院へ、その後工業学校の機械科を卒業し、単身米国へと留学します。
そこで、当時の最新技術であった自動車に関心を示しました。工業科を卒業した人間にとって、自動車に興味が沸かないわけがない。
しかし、大正8年(1919)に帰国した逸郎は、何故か自動車ではなく住宅建築に走ることに。おそらく、逸郎が米国遊学で強い感銘を受けたのは、自動車以上に当時アメリカ各地に作られていた、広々とした敷地の新興住宅地であったのかもしれません。

かれが住宅経営に乗り出す地盤はありました。
アメリカより帰国する1年前の大正七年(1918)に、南海高師浜線が伽羅橋まで開通。翌年には高師浜まで開通し、現在の高師浜線のルートがこのタイミングで出来上がりました。高師浜線のレールを敷いた理由。それは、沿線の土地開発のためでした。

おほともの 高師浜の松ケ根を
枕きぬれど 家し偲ばれ
(『万葉集』 置始東人)沖つ浪 高師浜の浜松の
名にこそ君を 待ち渡りつれ
(『古今和歌集』 紀貫之)

と、古くから歌にも詠まれた高師浜は、遠浅の海岸沿いに松の木が並ぶ景勝の地でした。現在は海岸が埋め立てられていますが、大正時代は駅のすぐ近くにまで海が迫り、駅を降りると潮の香りがぷんぷんと漂っていたに違いありません。
そういう意味では、高師浜は立地、知名度ともに高級住宅地・別荘地として、最良の条件を備えていました。

高師浜界隈の土地開発のために、高師浜線開通と相前後して南海土地建物株式会社という不動産会社がつくられました。
そこの役員の一人に、山川七左衛門という名前が見えます。逸郎の兄でした。
七左衛門は地元の開発のために高師浜線を誘致し、土地を提供した一人でもあり、伽羅橋駅もかれが所有する土地を提供してつくられたものだったのです。
逸郎は、そこに現実の楽園、つまり「ユートピア」を創り、彼の夢をそこで実現させようと野心をここに燃やすこととなります。

その名は、キヤラバシ(キャラバシ)園

キャラバシ園とは…

さて、キャラバシ園はどこにあったのか。

キャラバシ園

赤塗り部分が、「キャラバシ園 大正時代のスーパーモダニストが遺したもの」という論文を参照にした推定区域です。この地域に、未完成に終わったユートピアがあったのです。
伽羅橋駅周辺は、かつては隣の高師浜同様に高級住宅地として造成されたせいか、大正・昭和初期のモダンを醸し出すような洋館が残っていました。が、今は数えるほどしか残っていません。
しかし、よく探してみると、一人の男が造ろうとしたユートピアの跡が、わずかながら残っています。

キャラバシ園

たとえば、赤枠の区画。地図をよく見ないと判別できませんが、区分けがきれいな三角になっています。
かつては、ここに噴水が湧き出る三角の形をした公園があったといい、キヤラバシ園のユートピアのゆえんともなった場所でもあります。区画のみが現在にとどめています。

キャラバシ園

大正時代につくられたキヤラバシ園の紹介絵葉書には、勢い良く噴水を吹き出す公園の図が、はっきりと描かれています。この図を見ると、家、というか邸宅の間隔はかなり広く、敷地にかなり余裕をもって設計されたのでしょう。
キャラバシ園の道は、最新のアスファルトで舗装されていたと言います。当時東京にも舗装された道路が少なかった時代でした。

高師浜線伽羅橋園

高石市の資料に、戦前のこんな写真があります。ちょうど本線と高師浜線が分岐し高師浜線がカーブする地点のものです。
電車が正面に写っているのでそこに目がいきがちですが、画面左側に洋館が建っているのがわかります。場所的にキャラバシ園の邸宅の一つに間違いないと思います。

しかし、何故キャラバシ園は「ユートピア」に終わってしまったのか。
それは次章にて。

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