大阪に大学の数は星の数ほど…でもないですが、それでも数えるのも面倒くさいほどの数が存在しています。
その中でも、市内南部の杉本町に君臨する大阪市立大学の存在感は、やはり大きい。来年、大阪府立大学と合併し『大阪公立大学』と名を改め、数年後には理学部と経済系学部以外は杉本町キャンパスからも離る予定になっています。
今年は大阪市立大学が大阪市立大学である最後の年でもあります。そういう理由ではありませんが、大阪市立大学はどんな経緯で現在の形になったのか、たどっていきましょう。
大阪市立大学の歴史
商業の都大阪には、江戸時代から町人のための学校が数多く開かれていました。有名どころは福沢諭吉などが在籍していた『適塾』ですが、現在なら理系全振りの教養学部か、医学部の教養課程(って今でもあるのかな?)のようなところでした。
また、裕福な商人が金を出し合い、授業料は無料という塾も多数ありました。
そこで学ぶものは観念論的なものではなく、基本的な道徳を除けば実務的な商売のことがほとんど。これが大阪市大を生み出した土壌とも言えなくもありません。
時代は明治になり、財界人の手によって明治13年(1880)に私立の大阪商業講習所が誕生します。これが市大の直接のご先祖様です。
明治32年(1899)、日本初の「市立」高等教育学校として「大阪高等商業学校」と発展させ、商業の高等教育機関としての土台が出来上がります。
そして昭和3年(1928)に大阪商科大学が誕生します。
大阪商科大学は東京商科(現一橋大学)、神戸商科(現神戸大学経済学部)と共に「三商大」と呼ばれ、今でも「旧帝国大学」のように「旧三商大」と呼ばれ、スポーツの交流も行われています。
戦前は学歴はもちろん、出身大学での給料格差がふつうに存在していました。これを差別という人もいますが、差別でも何でもなくこれが当時の常識だったのです。
財閥系だと、旧商科大学卒の初任給は東大・京大経済学部卒と同格か、5円ほど下な程度。同じ大学でも早稲田・慶応卒は20円近くも格下、表現は悪いがほぼ虫けら扱い。これは他の旧帝大の初任給より高く、給料から見ても商科大学は東大と同格と見なされたのです。
今の市大は市の南部、JR阪和線杉本町駅の前にありますが、商大設立当初は市内の真ん中に作られました。
「烏ヶ辻」(からすがつじ)という所にあり、NTT西日本の病院の敷地がそのまま旧キャンパスでした。
こんなところにあったの!?
と地元の人はビックリするかもしれません。大阪商大は元から杉本町にあったと先入観を持っていた私も、これは目からなんとかでした。
Wikipedia先生にもある、杉本町に移る前の大阪商大のキャンパスの写真です。鳥が辻時代の大阪商大の写真は他にあまりなく、残ってそうで案外残っていませんでした。
ちなみに、烏ヶ辻キャンパスの南に「大阪市立大阪ビジネスフロンティア高等学校」という、やたら長たらしい名前の学校があります。なんでもカタカナにしたらええっちゅーもんちゃうねんというような専門学校のような名前ですが、高校です。
ここはその昔、私が現役学生の頃は「天王寺商業高校」という名前でした。むしろ、
え?天王寺商業っていつそんな名前に変わったん?
と驚く大阪の読者の方が多いかもしれません。調べてみると、3つの市立商業高校を合併させ旧天王寺商業の校舎に集結させた高校です。
そんな旧天王寺商業が高等商業・商科大学の旧キャンパスの隣にある…のは偶然ではありません。市立だけに商科大学付属学校のような立ち位置として一セット。NTT病院と高校、合わせて「烏ヶ辻キャンパス」だったと言っても過言ではありません。
その伝統が残っているのか、旧天王寺商業高校は商業高校の割には大学進学率が高く、たかが商業高校とナメてかかるとコテンパンにされるレベルだった記憶があります。私が高校生の時のバイト先に、才色兼備の旧天王寺商業の女の子がいました。私が受験だと慌てふためいていたのを尻目に、鼻歌交じりに推薦で市大に進学して行きましたが、こうして歴史を調べると、「大阪市立大学付属商業高校」として市大とつながってたんだなと。
大阪史最強の市長
大阪商科大学を誕生させた生みの親と言える人物が、
関一(1873-1935)という大阪市長です。苗字を書けって?いえいえ、これでフルネーム。「せきはじめ」です。
関は東京商業学校(現一橋大学)を卒業し24歳で大学教授になった秀才で、それだけに将来を嘱望された人でした。が、そんな人が大学教授の職を辞し、都落ちかつ降格人事を希望して大阪市の助役となり、のちに市長となりました。
戦前までのエリートは、大局や長期的戦略、そして自らの志のために、望んで降格人事を申し出る人が目立ちます。ここが戦後~現代エリートとの大きな違い。
戦前の降格人事は、もらえる恩給(年金)に今以上の違いが出てきます。更に露骨な官尊民卑の世間では、周囲の目線や接し方も違ってきます。普段はペコペコしていたご近所さんが、官僚を辞めた途端に付き合いがなくなり、道ですれ違っても無視されたなんてことは、ごく普通にありました。
関一も官立大学教授だったので、官僚という見方もできますが、今の官僚に、自分の志にウソや言い訳をせず、降格してでも自分の志を成し遂げたいという人はいるのでしょうか。
関一も、東京サイドから見た「志願の都落ち」に、学問の師から学長まで総出で引き留めに入ったという話が伝わっています。
大阪市民や府民に一般的に知られている、関の大阪市長としての主な功績は、
でした。しかし、当時は御堂筋一つで
街の真ん中に空港を作る気か!!
と市民から総ブーイング。
その上に、その「滑走路」の下に地下鉄を敷こうとするのだから、この市長は気でも狂ったかと。現代の民選市長なら、たぶん市民に理解されず選挙で落ちていたんじゃないかというほどの猛バッシングでした。
しかし、関には市民に見えなかった、あるものが見えていました。
それは、百年後の大阪。
御堂筋のあの広さも、百年後には狭くなるほどの交通量になる。御堂筋線のホームも、百年後にはあの長さ(10両分)でも足りなくなる。だったら百人乗っても大丈夫なイナバ物置…ではなく、百年経っても大丈夫な道路にホームを、金があるうちにさっさと作ってしまえ。これが関の、百年後を見据えた都市政策でした。
当時の大阪は、人口は東京を抜いて日本一でした。税収も東京以上でしたが、その豊富な財源をベースに「大大阪(THE GREAT OSAKA)」と呼ばれた大阪市の絶頂期を築き上げました。
その功績と、市長在職中に病に倒れ亡くなった悲劇から、今でも「”史上最強の”大阪市長」という称号付きで呼ばれることがあります。
関が描いた理想の大学
大阪商科大学も、関には100年後の姿が見えていました。
官立の商科大学は、大阪と神戸で壮絶な誘致合戦が行われたそうですが、軍配は神戸にあがりました。煮え湯を飲まされた大阪市は雪辱のため、予算度外視で商科大学の建設にかかります。
しかし、関は冷静でした。
「将来は文理合わせた総合大学へ」
たかが商科大学で終わらせない。これが関が見た100年後の大学の姿でした。
そのコンセプトは、
と関本人が述べており、これが建学の精神となります。
今の杉本町キャンパスへは昭和8年(1933)に移転開始、10年(1935)11月に校舎が完成されますが、鳥が辻では必ず手狭になると、100年後の総合大学化まで計算した上でのシナリオでした。
そんな関市長の壮大な計画のもと、できたてホヤホヤの新しい校舎に移転して、学生たちはさぞかし大喜び!…と思いきや、
「鉄筋コンクリートの校舎ばっかりで味気がない」
「周りに何もなさすぎる」
「『学園』と言うけれど、周りは野原で確かに『園』だな」
となかなかの酷評。
レンガの赤が目立つ鳥が辻に対し、杉本町校舎はコンクリートの白が際立つ白亜の高層校舎群…と言えば聞こえがいいが、コンクリ打ちっぱなしの校舎は実に殺風景だったそうです。
「戦前期の大阪商科大学杉本学舎の状況および周辺地域の変遷(大阪市立大学史紀要第9号)」P18より
これが杉本町キャンパスの全景の俯瞰図です。航空写真ではなくイラストですのであしからず。
「戦前期の大阪商科大学杉本学舎の状況および周辺地域の変遷(大阪市立大学史紀要第9号)」P20より
当時の飛行機から撮った、いちおう航空写真です。 航空写真としては非常に粗雑ですが、当時の技術の未熟さと、戦前の航空写真自体が軍に管理され非常に珍しいということもあるので、貴重な写真ではあります。
どちらにしても、今では想像もつかないほど「周りに何もなかった」ことがよくわかります。
大学もない頃によくこんな田んぼの真中に駅なんか作ったなと、阪和電鉄の無謀ぶりに脱帽ですが、さにあらず。大阪商科大学の杉本町移転は阪和電鉄開業時(昭和4年)には決定事項で、大学が移ってくるという前提で作られた駅だと思います。
駅の北数百メートルには、杉本という集落がありました。「杉本町」という駅の名前はそこから取られています。もし杉本町駅がそこの人たちの利用を考えて作ったなら、集落の前に駅を作るだろうと私は考えます。
しかし、今のような状態になるのはそれから数十年後の話。当時は道も舗装されておらず、雨が降ればぬかるんで歩けたものではなくなるひどい状況だった上に、阪和電気鉄道の乗客にも、
間違えて農科大学作ってもーたんちゃうか?
と笑われる始末。何故こんなところに大学を作ったのか、意味わからんと学生たちは愚痴るしかありませんでした。
しかし、当時の最新の設備で作られたこの校舎、さすがに冷房はなかったものの、暖房はスチーム完備でかなり快適な冬だったそうです。
スチーム暖房は、今は北海道の一部にしかありませんが、威力は強力でした。私も真冬の旧満洲でスチーム暖房を体験したことがありますが、外はマイナス20℃以下なのに中は余裕の半袖。あまりに暑すぎて外が氷点下というのを忘れ、窓を少しだけ開けて寝たら逆に凍死しそうになり、お前はアホかと笑われた記憶があります。
しかし、周囲に何もないということは、勉強に集中するにはうってつけの環境ということ。雨上がりのぬかるんだ泥道をブツブツ言いながら、学生たちは新しいキャンパスへと足を進めました。
新しい杉本町キャンパスは、大きく分けて大学本科の赤い部分と、予科・高商科の青い部分に分かれていました。今の家政学部…やなかった、生活科学部は、戦前には敷地には含まれていませんが土地はキープしていた模様です。
当時の学費も残っています。
大阪市民80円/年
市民以外は100円/年
■大学本科:
市民120円、他140円
同時期(1935年)の帝国大学の学費も120円、早稲田大学文系が140円だったので、商科大学はまさに相場通り。これは中流以上の家庭であれば問題ないレベルだけれども、それ以下になるとかなり厳しいかもしれません。
別件で『官報』を漁っていたら偶然見つけた、大阪商大の校舎が完成した時の記念スタンプです。郵便局が大学に臨時局を設け、3日間限定でこの消印を使ったと書いています。何せ3日間限定消印なので、もし家の机の奥などからこの消印が押された手紙やハガキなどが見つかると、『なんでも鑑定団』でとんでもない値がつくかも!?
コメント
ど真ん中のテーマをこれほど詳細に書いていただきありがとうございます。繰り返し何度も読ませていただきました。
大学の歴史というところでいくと、杉本キャンパス北側にあった「杉本寮」と、建物自体は現存している「志全寮」の歴史もまた、冊子にまとめられていますのでよろしければご一読ください。
様々な歴史が刻まれたキャンパスですので、今度お越しになる際は是非ご案内いたします。