淡路島に住んでいた頃、マクドナルドが家から比較的近かったせいか、よく朝マックとばかりにマクドで食事をしていました。本来はモスバーガー派の私ですが、あいにく淡路島にそんなおしゃれなものはない。モスは都会に出た時の愉しみにとっておき、島流し中は庶民の味方マクドナルドを謳歌しようではないかと。
そのマクドの道を隔てた向こう側に、鬱蒼とした木々が茂った小山があります。

なんや、ただの小山に森やんと言われればそうなのですが、田園の真ん中にドカンと森が鎮座しておられる光景は、異様とは言わないが違和感はある。私のアンテナは、その違和感に反応したのでしょう。
写真はすべてが入るような遠景で撮っていますが、「ただの森」にしてはデカいし、一体なんなのだろうか。
百聞は一見にしかず、まずは怪しげな小山に近寄ってみることにしました。

小山の正面あたりまで近寄ってみると、この通り砂利が敷かれた厳かな佇まい。
大は仁徳天皇陵、小は名無しの陪塚まで、古墳ならそこらへんに掃いて捨てるほどある環境で育った私。この光景は幼いころから何度も見ています。これでピンときました。天皇陵やなと。
しかし、ある疑問が浮かびます。私が生まれ育った大阪なら、天皇陵ならそこらへんに転がっているので理解できますが、なぜ淡路島の、それも今でも何もない片隅に?
そもそも、これは誰のお墓なのか?

「淳仁天皇 淡路陵」と書いています。
淳仁天皇?はて、聞いたこともない名前なので、その場でググってみました。
すると、そこには驚愕の天皇の事実が!
淳仁天皇とは?その哀しき生涯

淳仁(じゅんにん)天皇(733-765)は第47代天皇ですが、在位期間は758年~764年とわずか5年間。これでは知名度が低いのもやむを得ない。知名度がいまいちな理由はもう一つあるのですが、それはまたのちほど。
しかしながら、血筋は大変よろしい。

作るのが面倒くさいので、Wikipedia先生から家系図を引っこ抜いてきましたが、淳仁天皇は天武天皇の孫にあたり、父親である舎人親王も『日本書紀』の編さん責任者にして、政治的にもかなりの実力者でした。淳仁帝の即位前の名を大炊王(おおいおう)と言います。
このままだと血筋だけで高位に就け安泰のはずだったのですが、王が3歳の時に父の舎人親王が亡くなってしまいます。血筋よろしき皇族と言えども、後ろ盾がなければただの人。大炊王の幼少時はあまりよくわかっていませんが、かなりの苦労人だったと想像できます。
彼に光が当たったのは、奈良の大仏でお馴染み聖武天皇が亡くなった20歳過ぎの頃だと言われています。皇后光明子の威光をバックに勢力を増していた藤原氏の後ろ盾を得て、24歳で皇太子の地位に就きます。
当時の藤原氏の当主は仲麻呂でした。後に大炊王が皇位に就いた後、(藤原)恵美押勝(ふじわらえみおしかつ)に改名し、この名前で教科書に載っていることも多い人物です。
しかし、ここでは名前を藤原仲麻呂とします。
西暦758年、聖武天皇の娘である孝謙天皇が大炊王に譲位し、事実上の政治的最高権力者である藤原仲麻呂のバックのもと、ここに第47代天皇、淳仁天皇が誕生します。
ここまでは、特に波風が立つこともなく順風満帆でした。
権力闘争の果てに
しかし、ここからが泥仕合の始まりでした。
760年、光明子が亡くなります。
そこで本性を表した(?)のが、いったんは譲位して上皇になっていた孝謙天皇。かなり権力欲が強かったらしく、光明子という重しがなくなった後は権力の牙を剥き出しに。そこで、自分に近づいてきた僧、道鏡と組んで権力奪取を目論みます。
この道鏡、伝説によるとイチモツがとてつもなく大きかったと伝えられています。
真偽のほどは定かではないですが、孝謙天皇とはねんごろな仲として今に伝えられ、
道鏡は座ると膝が三つでき
道鏡に根まで入れろと詔
という川柳が江戸時代に作られるほどでした。つまり、道鏡は持って備えた「10インチ砲」(妄想)で天皇をヒィヒィ言わせたということです。
二つ目は傑作ですが、見方によってはかなり際どい、放送禁止コードスレスレの川柳です。
道鏡と出会ったのは孝謙上皇43歳の時ですが、43歳なら…まあそういうこともあるかな!?年齢を重ねた後の恋は、若い頃より燃え上がると言いますし。
淳仁天皇と藤原仲麻呂は道鏡との仲を注意するものの、上皇は言うことを聞かず。
それどころか、

せっかく淳仁に譲位してやったのに、あいつら(天皇と仲麻呂)あたしの言うこと聞かないし、口答えばっかりする。だいいち、道鏡とウフフな仲だなんて、あいつらにどうこう言われる筋合いはないわよ!
わかったわ、あたし出家して道鏡と別居する。これなら文句ないんでしょ!
でもね、あいつらに政(まつりごと)なんか任せてられないから、あたし自らやる。淳仁、あんたは権力没収
と豪快に逆ギレ。
さらに遣唐使の一人で、藤原仲麻呂によって中央から退けられていた吉備真備も上皇側の参謀となり、ドロドロの政治権力闘争となりました。これで、最初は比較的良好だった孝謙上皇と藤原仲麻呂の関係が崩壊。
淳仁天皇はその板挟みに苦しめられたとも、いや、積極的に仲麻呂のフォローに当たったとも伝えられていますが、文献には出てこないので真相はわかりません。
藤原仲麻呂の乱
焦った藤原仲麻呂は天平宝字8年(764)、軍事クーデターを起こすべく上皇側に刃を向けることとなります。
しかし、彼が信頼していた家臣に密告され、上皇側は先に手を打ちクーデターは失敗。藤原仲麻呂は逃亡中殺され、残った一族も殺されます。
淳仁天皇は仲麻呂側につくことはなく、かといって上皇側でもない中立でした。その理由は記録にないので定かではないですが、中立なのに乱の平定後、

あんた、仲麻呂とグルになってあたしを貶めようとしたでしょ、わかってんだからね!だから、あんたには天皇辞めてもらうわよ!!
と孝謙上皇に言いがかりをつけられ、退位させられた上「淡路公」として淡路島に流されます。
邪魔者がなくなった孝謙上皇は、第48代称徳天皇として再び即位します。いったん退位した天皇(や中国皇帝)が再び即位することを、「重祚(ちょうそ)」と言います。
これで心置きなく称徳天皇と道鏡は毎晩ムフフな営みを・・・ではなく(あったかもしれませんがw)、事実上の独裁政権を敷くこととなります。
と、ここまで書くと孝謙=称徳天皇のわがままっぷりどダメ女ぶりだけが全面に出てしまっていますが、あえて孝謙帝を庇うとすると。
藤原仲麻呂は、淳仁天皇時代に自分の名前を、「恵美押勝」という唐風の名前に変更します。藤原仲麻呂は今風に言えば「親中」で、中国は何でも素晴らしいと権力を使って朝廷を「中国化」しようと画策しました。
「左大臣」「右大臣」は「大傳」「大保」となり、年号も「天平神護」など唐風の四文字に変わりました。
今の政府組織で言えば、「総理大臣」が「国務院総理」となり、衆議院と参議院が「人民代議員大会」に、大阪府が「大阪省」になるようなものですね。それはちょっとご勘弁いただきたい。
孝謙天皇は、仲麻呂による急速な「中国化」に対し反感を持ち、ストップさせようとした保守派の鑑という見方もできます。事実、孝謙天皇は重祚後すべてもとに戻しています。
その後の淳仁天皇
淳仁天皇は「淡路廃帝」という哀れな呼び名をつけられ、母親の当麻氏と3~4人のお供だけを率いて淡路島に流されます。
「廃帝」とはあまり馴染みがない言葉ですが、日本史で「廃帝」と呼ばれた人は、淡路廃帝の他に2人います。
近江廃帝(大友皇子→39代弘文天皇)
九条廃帝(85代仲恭天皇)※後廃帝とも
しかし、近江廃帝は戦乱のさなかで即位すらしないまま死亡しているので、名誉天皇のようなもの。九条廃帝は4歳で祀り上げられたものの、即位式(即位の礼)も行われないまま78日で退位しています。この78日は、日本一在位期間が短い天皇の記録となっています。
淳仁天皇は少なからず天皇としての体裁は整い、仕事はしていたという意味で、日本史唯一の廃帝という見方をする人もいます。
しかし、天皇の地位は追われたとは言え、淡路公という親王扱いでした。
そこで、異説が出てきます。淳仁廃帝は言われているような流罪ではないと。特に地元の郷土史家の間で議論が活発になっています。
勅撰歴史書の『続日本紀』によると、
淡路島ごと与えるということやから、これ流罪ちゃんやん、今風に言えば転勤やんと。
しかし、これは今の日本の組織によくある、「栄転という名の左遷」でしょうね。元とはいえ天皇なので罪人にするには忍びない。本人の名誉のために、淡路島の主として「人事異動」扱いにしてあげると。
その証拠に、淡路に引越しといっても国司の厳重監視付きでした。それも称徳天皇自らの勅令で(勅令なので記録に残っている)。程のいい軟禁だったというわけでしょう。
その頃、奈良の朝廷には反称徳派や道鏡を快く思わない者もたくさんいました。称徳帝政権は今風に言えば独裁政権そのものな上に、称徳天皇が偏屈だったのか周囲の言うことを聞かず道鏡べったりだったので、それなりの不満分子が発生します。そんな彼らは淳仁廃帝を慕い、商人などに化けて淡路参りをする貴族も現れました。そこそこ人望はあったようです。
しかし、

あいつを放置しておけば自分の地位が危うい!
と称徳天皇側は恐れました。これは独裁者によくある思考です。
そして、廃帝は淡路へ流された翌年の西暦765年のある日、突然亡くなってしまいます。この時の淳仁天皇はまだ33歳でした。
『続日本紀』によると、
と簡単に書かれています。
簡単に書くと、幽閉先から脱出しようとしたものの、追手に捕まり翌日に死亡したということですが、逃げた際に重傷を負ってそれが原因で死亡したのか、逃亡に失敗して自決したのか、それとも逃亡のどさくさに殺されたのか。
鎌倉時代初期の歴史物語『水鏡』は、「逃亡のどさくさに殺されたんでしょうね」と「暗殺説」を唱えていますが、鎌倉時代初期と言っても淳仁帝が亡くなって400年以上が経っています。真実は鎌倉時代時点で、既にわかんないと片付けられているということです。
淳仁天皇の扱いは、称徳天皇の目が黒いうちはなんとも出来なかったのですが、帝が亡くなり道鏡も追放された772年、第49代光仁天皇(平安京の桓武天皇の父)は僧侶を派遣しその魂を鎮め、778年に山陵扱いとされました。
また、それまで存在した女性の天皇は、その後850年間現れることがありませんでした。女性天皇は江戸時代に二人即位していますが、いずれも男子のセットアッパー(中継ぎ)か上皇のロボット。史料は何も語りませんが、朝廷は孝謙=称徳帝で懲りて、女帝はもうこりごりと学習したのかもしれません。
しかし、だからといって淡路廃帝の名誉が回復することはなく、そのまま数百年、いやさらに時が経ちました。
そして1100年後…
暗殺にしても憤死にしても、淡路廃帝は安らかな死に方をしなかったことは確かです。
非業の死を遂げた淡路廃帝は、本来なら怨霊として鎮魂の対象となるはずです。本当に怨霊となったかはわかりませんが、淡路廃帝という不名誉な名前を引きずったまま、時は流れました。

時が経つこと1100年。明治天皇は流罪先で亡くなった崇徳天皇の魂を鎮めるべく、京都に白峯神宮という神社を造営しました。
その後、淡路廃帝の御霊も明治6年(1873)、淡路から白峯神宮に移され、合祀されることとなりましたが、さかのぼること3年、明治3年(1870)に正式に天皇としての名前が与えられ、淡路廃帝から「淳仁天皇」となりました。
不本意なまま天皇の地位を追われ、「淡路廃帝」という不名誉な呼び名をつけられて1100年、やっとこさ名誉回復したというわけです。近代になって「追加」された天皇なので、知名度がいまいちな理由もこのためなのでしょう。
この白峯神宮は現在、2つの意味で有名です。
一つは、蹴鞠の里として。春の大祭や7月7日には奉納蹴鞠が行われますが、前者は淳仁天皇の魂を鎮めるためのものです。そこから「サッカーの神様」となり、特に予選を含めたワールドカップの時期になると参拝者が殺到、絵馬の数がすごいことになるそうです。
サッカー以外でも、武道を含めたスポーツ全般の神様として参拝者が絶えません。
もう一つは、京都最大級のパワースポットの一つとして。
白峯神宮は元々、第75代崇徳天皇の魂をお迎えさせるための神社です。この崇徳天皇は当時の後白河法皇に反旗を翻したものの、平清盛・源義朝などによって鎮圧され、讃岐に流されました。これは学校の歴史で、「保元の乱」として必ず出てきます。
学校の授業ではそれから源氏と平家の対立となって・・・と続くのですが、流された天皇のその後はどうなったのか。天皇は恨みのあまり舌を噛み、その血で呪いの言葉を書いていたとも。

ワシは日本の大魔王となって永遠に災いをもたらしてやる!!
と深い怨念を抱きながら亡くなったと伝えられ、死後の棺から血が滴り落ちたとも。
死後も京で天然痘が流行したり、政敵であった後白河法皇が平清盛にクーデターを起こされたりと、京や皇室に不吉なことが連続し、ついには武家に政治権力を奪われることに。
それから明治時代まで、朝廷に権力が戻って来なかったのですが、これも崇徳天皇の呪いだと、「日本で最も恐れられた怨霊」として恐れられていました。
そして幕末の大政奉還で権力が朝廷に戻り、再び奪われるのをおそれた明治天皇が京都に神社を建て、天皇の御霊にお帰りいただいたというわけです。
しかし、怨念のマイナスパワーは健在と伝えられ、すさまじい「魔界スポット」なんだとか。その分、パワーはすごくご利益も強烈だと伝えられています。
淳仁天皇の怨霊伝説は聞いたことがないですが、「怨霊神社」こと白峯神宮に、「大魔王」と一緒に祀られていること、そして他の廃帝や流罪となった上皇などを差し置いているという点を考えると、淳仁天皇も皇族の中では怨霊として恐れられていたのかもしれません。
淳仁天皇陵を歩く
淳仁天皇陵は淡路島の南部、南淡と呼ばれる地域にあります。
正式名称は「淡路陵(あわじのみささぎ)」といい、農地の真ん中にドンと鎮座しています。

現代の航空写真で見ると、周囲が農地に囲まれ天皇陵だけ「浮いている」ことがわかります。
逆に言うと、長年地元の人々によって大切に扱われてきたということ。敬意や畏怖がなければ、天皇陵といえども「ただの山」としてとっくに壊され、跡形もなくなっています。地元では古くから、ここを「天王(の)森」と呼んでいました。

宮内庁が正式に発行している『陵墓地形図集成』という、古墳・天皇陵マニア必読本があるのですが、そこから抜粋した淳仁天皇陵の図です。測量自体は戦前(昭和初期?)に、陸軍の手によって行われました。
意外と知られていない旧日本軍の仕事に、測量というものがありました。陸軍は地形などの陸を担当し、海軍は海図を担当していました。
こんなの軍の仕事なのか!?と今では不思議に思えるかもしれませんが、ちゃんと担当の部署もあった立派なお仕事です。何もテッポウを撃つだけが軍隊の仕事ではありません。
陸軍は参謀本部内に「陸地測量部」という部署があり、海軍は海軍省に大臣直轄の「水路部」があり、それぞれ測量や天気を担当していました。
母体の軍は戦後に消滅したものの、海軍の水路部は海上保安庁、海上予報は気象庁に引き継がれ、陸軍の方は国土地理院として現存しています。

図書館で見つけた、昭和初期と伝えられる天皇陵の写真(絵葉書)です。

昔の写真を参考に、ほぼ同じ角度から写した写真です。昔と変わってないと言えば変わっていません。前の道も7~8年前に出来たもので、ちょっと前までは、昭和初期の写真のように道なき道を進まないとたどり着けなかったそうです。

上述のとおり、こういう古墳系は見飽きたというほど見慣れております。なので、古墳だけならさほど感動がありません。なんやまた古墳かいなと。
しかしながら、淳仁天皇の悲劇の人生のフィルタをかけて見てみると、陵墓に哀愁さえ漂ってきます。志半ばで都から淡路に流され、非業の最期を遂げた悲劇の廃帝には、淡路の景色は何色に映ったのでしょうか。
ところで、天皇陵のほとんどは、京都・奈良・大阪に集中しています。
京阪奈以外となると数は非常に少なくなり、東京にある大正・昭和天皇は別として、滋賀県大津市にある弘文天皇(大友皇子)陵、壇ノ浦の戦いで入水した伝安徳天皇陵(山口県下関市)、天皇家を1000年間震え上がらせた(?)「恐怖の大魔王」、崇徳天皇陵(香川県坂出)があります。
兵庫県にある淳仁天皇陵もその一つで、しれーっと存在しているけれども、大正・昭和天皇御陵を入れても全国でも6例しかないレア陵墓です。淡路島どころか、冷静に考えると兵庫県唯一の天皇陵でもありますね。


淳仁天皇陵のお堀です。
仁徳天皇陵級の古墳と比べると大したことはありません。が、堀が広くて深いのが偉いのかと言われると、そうでもない。
当然、この大きさだと入ろうと思えばふつうに入ることができます。大きな声では言えないが、ここでよく遊んでいました…という、一昔前は子供だった人たちは絶対にいるはずです。
当然、ここは宮内庁の管理につき立入禁止ですが、子供の世界ではそんなこと知ったこったない。好奇心の赴くまま。ただし、大人は入ってはいけませんよ。

御陵の東側に、大きなため池があります。御陵の堀を改造して作られたものなのか!?と思ったのですが、あのか細いお堀を見る限りそうではないようです。
名前はやはりかまさかか、「天王池」。天皇(天王)から名付けられたものでした。
この池、最近できたものなのかなと思って調べてみると、

昔からあったようです。ちなみに、御陵の北を走る一筋の線は、かつて淡路島を走っていた鉄道です。
当麻夫人墓

淳仁天皇陵から南の方向を見ると、黄色の矢印の山が見えます。

近づいて見てみると、やはり周囲の田畑に比して明らかに浮いている小山が。
ここは淳仁天皇の母君である当麻山背(たいまのやませ。生没年不詳)の墓とされている陵墓です。
淳仁天皇は孝謙上皇によって、天皇の位を廃された上淡路島に流されたことは、前編に書きました。それと同時に、母親である当麻山背も流されたとされています。天皇と同罪として同時に流罪になったのか、それとも自分の意思で子供について行ったのか、史料には残されていません。

ここも宮内庁が管理しています。

淳仁天皇陵に較べると、入口(?)に続く階段がある分、立派に見えます。

淳仁天皇陵は、実は自然の丘陵を利用した陵墓で、丘の頂上を少し加工しただけなのですが、ここも『陵墓地形図』を見ると自然の丘を利用したものと見受けられます。階段の奥の部分が陵墓になっているようです。

さて、ここからは島内各地に残る淳仁天皇ゆかりの地を訪ねてみよう!
大炊神社(志知中島)
淳仁天皇陵から北へ数キロのところに、天皇の名を記した神社があります。

「大炊神社」と書かれた看板が見えます。
ここは、休日のサイクリングでよく通っていたところでした。良い意味で田舎なので、農繁期を除いて交通量も少なく、自転車でのんびり景色を愉しみながらサイクリングできる好コースなのです。なのでこの看板はしょっちゅう目にしていました。
しかし、それまで興味がなく、島流し後も1年以上華麗にガン無視していたわけですが、淳仁天皇陵と関連があるとわかると、その重みが俄然違ってきます。無視するわけにはいかない。

神社は「志知中島」というところにあります。西の大日川、東の馬乗捨川という2つの川に挟まれた地域にあり、集落が島のように見えます。しかし、馬乗捨川ってすごい名前やな。
Google mapの道の幅をイメージ通りに脳内変換してしまうと、志知中島という狭いエリアで迷子になってしまいます。淡路島全体に言えることですが、Google mapだけを見るとかなり広い道に見えるけれども、実際は軽自動車がかろうじて通れるほどの道だったりすることは、よくあります。特に都会住まいの方は、淡路島を訪れる際は気をつけましょう。


大炊神社は狭い集落の真ん中に位置していながらも、境内は意外に広く少し驚きでした。こんなところにこんな神社があったのかと。
向かった日は大雨だったせいか、境内には人ひとりおらず、静まり返っていました。建物もかなり傷んでおり、大きさの割には痛々しさを感じます。

ここの祭神はもちろん、大炊大神と名を変えた淳仁天皇です。
この大炊神社と淳仁天皇にはどんな関係があるかというと、淡路島に流された天皇はここに幽閉され、亡くなったこの地に神社が作られたとのこと。
それだけなら、はいそうですかとすぐ納得するのですが、問題はその後のこと。

「御遺体はここ天皇塚に埋葬されたと伝えられています」
という表記が。
ここで、ふつうに考えるとこうなります。

ほな、あの天皇陵は一体何やねん?
ここから、淡路島各地に伝わる「淳仁天皇ふしぎ発見」が始まるのです。
しかしその前に、「御遺体が埋葬された」天皇塚とやらを見てみましょう。

まずは、「『傳』淳仁天皇御聖蹟」の碑がお迎えしてくれます。
『傳(伝)』というのは、「~と言われている」というニュアンスで、確実ではないけれどそうだと(長くから)伝えられているということです。
そうなると、ほとんどの天皇陵は科学的調査が入っていないので、すべて『傳』になります。
仁徳天皇陵も、中学生の頃は「『伝』仁徳天皇陵」と習った記憶があります。何せ仁徳天皇陵が歴史の一部ではなく、いつも目の前に存在している所で育った私にとっては、『伝』にものすごく違和感があったことお覚えています。
そして高校の日本史では、うって変わって「百舌鳥耳原中陵」。後にカッコがつき「(仁徳天皇陵)」と書かれてはいるものの、もう一体なんやねん!仁徳天皇陵でええやないかい!と思ったものです。
それはさておき、大炊神社の片隅に、木々に囲まれた区画が存在します。

明らかに、「何かある」においがプンプンします。
近づいて見ると…

奥に祠のようなものがあることがわかります。
伝説によると、この祠の下に淡路廃帝こと淳仁天皇が永い眠りについている、「真の天皇陵」ということです。しかし、あくまで「伝」であり、真実はこの土の下だけが知っている。
野邊の宮(十一ヶ所)
次に向かうは、大炊神社から東へ3~4kmのところにある、「十一ヶ所」という変わった地名にある「野邊の宮」と呼ばれる場所です。

敷地内は老人センターという名前の公民館となっており、一見するとただの公園ですが、鳥居が公園の前にあることから、ただの広場ではないなということに気づきます。

昭和5年(1930)に建てられた、兵庫県の史跡指定の碑も敷地内にあります。

ここ野邊の宮は、都から流された天皇が幽閉された屋敷の跡と伝えられており、天皇の御霊を鎮める祠が片隅に鎮座しております。この祠は小さいながらもいちおう神社で、その名も「天皇神社」です。
いや、このお社こそ天皇のお墓だと唱える人もおり、宮内庁も一時期ここを「陵墓参考地」とした時期もあるようです(陵墓参考地については後述)。

「天皇神社」の横には、淡路にながされた天皇が悲しみを癒やすために自ら琵琶を弾いたという伝説の碑があります。
しかし、「野邊の宮」と聞いて実際に行ってみると、前述の大炊神社よりビックリ。灯台下暗しか、住んでいた家の近所だったのです。
鳥居があるから何かあるんやろなとは思っていたのですが、その不思議に気づくまでに1年以上の時間を要しました。
宝積寺(十一ヶ所)

「野邊の宮」から歩いて2~3分くらいの距離に、「宝積寺」というお寺があります。読みは「ほうしゃくじ」で、「ほうせきじ」ではありません。
一見、どこにでもあるお寺なのですが、前に「淡路四国八十八ヵ所霊場」という幟があります。宝積寺はその23番目の札所だそうで、私はもらいませんでしたが御朱印もあるのではないかと思います。ちなみに、「淡路四国八十八ヵ所霊場」とお遍路さんで有名な「四国八十八ヶ所」と何の関係があるのか、そもそも関係あるのかはわかりません。
で、この宝積寺と淳仁天皇とは何の関係があるのかというと。

天皇の位牌が納められているとのことです。ただそれだけなのですが、一度その位牌とやらを見てみたいものです。
「丘の松」(十一ヶ所)

宝積寺とは違う方向、東にも天皇ゆかりと言われるものがあります。

野邊の宮から見るとこんな風景ですが、まあただの森です。
しかし近づいてみると、

ここも陵墓と同じような立て札が。
ここも宮内庁が管理している土地で、「陵墓参考地」と呼ばれるところです。
「陵墓」ではなく陵墓”参考地”…陵墓と何が違うのか。
陵墓参考地とは、一言でいうならば「確証は持てないけれど、天皇陵の可能性あり」というものです。形や地元の言い伝え、古書の記録などの見方により「天皇に関係あるかもしれないので、いちおう国(宮内庁)が土地をキープ」というニュアンスです。
この陵墓参考地はそんなにレアなものではないようで、Wikipedia先生によると、2府16県に46ヶ所存在しています。遠くは安徳天皇のお墓と伝えられる参考地が、下関にあったりします。
ここもそのうちの一つで、宮内庁の正式名称は「市(いち)陵墓参考地」というものです。地元では古くから「丘の松」と呼ばれてきました。
昔から地元の人の間では良い意味でのアンタッチャブルな地だったのか、周りは住宅地と農地なのにここだけ手付かずの「ジャングル」と化しています。

その中でも、かなり幹が太い樹木を発見。樹木は専門外なので何の木かは知りませんが、相当大きい。ド素人目から見ても樹齢5~600年、もしかしてそれ以上じゃないのかと。
もしかして、この「丘の松」が出来た時の生き残りの木かもしれません。そう考えると、たかが木から歴史のロマンを感じませんか!?
せめてこの木の樹齢だけでも調べたいのですが、宮内庁がOKを出すわけがないか。
天皇陵は一体どこか
この天皇陵にまつわる伝説・伝承にはいくつかの謎があります。
淡路に流された後の幽閉場所だけでも2ヶ所あり、埋葬場所も2ヶ所。真実は常にひとつですが、ここからは、『三原郡史』などの公式郷土史や、淡路島歴史学会(?)の研究結果などを参考に、天皇の埋葬場所を書いていくことにします。
そもそも、現在の天皇陵を天皇陵だと主張したのは、江戸時代の地元の庄屋だった仲野安雄という人物でした。8代将軍吉宗の治世だった1730年頃、仲野は『続日本紀』に記された、「廃帝陵は淡路国三原郡にあり、東西六町、南北六町」を根拠に『延喜式』や『東鑑』などの史料を読み解き、根拠のない民間伝承を排除した上で、「天王の森」と地元で呼ばれていた丘陵を陵墓だと断定しました。
天皇陵がある旧三原郡は、今でもそうですが、一帯は見渡すかぎりの平野です。そこに「山陵」と呼べるものは「天王の森」と当麻夫人のお墓以外、ほとんどありません。実際に見ると、田畑の緑の海の上に浮かぶ島のようです。
それ以上に驚きなのが、江戸時代、それも田舎の一農民が、今の歴史学者の研究と変わらない科学的アプローチで導き出したこと。「庄屋」は確かに村の名士でありインテリではあるものの、一つ皮をむけばただの農民。農民が古今の歴史書を読み解き考察し仮説を出す。やっていることは大学の研究者レベルです。それほどの教養があったなどと言えば、農民がそんな教養あるわけないじゃんと、外国人は信じてくれません。欧州の農民は、無知蒙昧で字が読めるなんてとんでもないというのが常識ですから。
それはさておき、淳仁天皇陵が宮内庁から陵墓に指定されたのは明治時代のことですが、その根拠もおそらく仲野安雄の説に説得力があったのでしょう。それから、淳仁天皇は淡路陵に葬られているというのが、現在では公式設定となっています。
それとは別に、野辺の宮、あるいは「丘の松」を埋葬地と唱える人たちも、古くから存在していました。

仲野安雄の説の約70年後、水戸の儒学者である蒲生君平という人物が、野辺の宮と「丘の塚」説を唱えます。この人物はガッチガチの尊王攘夷派なのですが、そのイデオロギーの一つとして各地の天皇陵を調査し、『山陵志』という全国の天皇陵の研究書を記しました。
『山陵志』は尊皇攘夷論を正当化するための政治的書物なのですが、意外に現代考古学的なアプローチをしており侮れないと、近年再評価されている「天皇陵研究入門」になっています。我々が普通に古墳に対して使っている「前方後円墳」の名前もこの『山陵志』が出典元で、蒲生の造語です。
ちなみに、『山陵志』の直筆原典は国会図書館にデジタル保存され、ネットで公開されているので誰でも閲覧可です。ただし、原文は漢文なので見ても意味不明だと思います。私も数ページ見て謎の頭痛が起こり、静かにタブを閉じました。
蒲生の根拠は、地元で語り継がれている言い伝えから。
野辺の宮辺りは、天皇と一緒に淡路へやって来たお供の子孫、天皇の墓守の子孫を名乗る人も江戸時代に居住しており、古くから天皇陵はここにあると言われていたそうです。
阿波藩から指名を受けて調査した学者も、やや尊皇攘夷派寄りだった影響もあるものの、この説を支持していました。しかし阿波藩の偉かったところは、「丘の松」説はあくまで言い伝えなので他の説も参考にしてねと、他説を排除しなかったこと。江戸時代にしてはかなりの慧眼です。
また、『陵松ノ義』という地元の古くから伝わる里謡には、こんな一節があります。
「ココハ淡路ノ廃帝様ノ御陵松カヨ尊シヤ」
「ココ」とは丘の松のことで、地元ではここが御陵だとかなり古くから伝えられているそうです。宮内庁も、島に古くから残る伝承を無視できなかったのでしょう、「丘の松」を陵墓参考地に指定し、キープして現在に至っています。
天皇陵野辺の里説もう一つの根拠は、律令時代の淡路国の国府の場所。
奈良~平安時代の「淡路国」の国司が駐在する国府がどこにあったのか。実は今もって不明です。
天皇陵の近くに「国衙(こくが)」という地名があります。「国衙」は昔の国府を指す言葉なので、ここじゃないかと思われがちです。何せ地名として残っているのだから。Yahoo!知恵袋などのネットでも、ここだと断定している人がいます。
しかし、地域史の『三原郡史』は、違いますとあっさり否定しています。ここは鎌倉時代に国府が置かれ、それに基づいた地名だと。
じゃあ、どこにあったのかという目星はあるのかと。実はあります。

淡路島の歴史を阿波藩が藩の公費を使って調査した、『味地草』という報告書などをまとめると、だいたいここあたりになります。ここもかつては「国衙」と呼ばれていたそうで、文献上の理屈ではほぼ確定とのこと。ただ、国府があったという考古学的証拠(現物)がないのが玉に瑕。逆に言うと、国府にまつわる何か出てきさえすれば確定ということですね。
地図で見てみると、伝幽閉地の野辺の宮や「丘の松」と目と鼻の先です。流罪の天皇は国司に厳重に監視されていたと『続日本紀』に記されているので、監視するには手元に置いておく方がやりやすいでしょう。地理的条件はバツグンです。
上に書いた『山陵志』も、「淡路国司館近くに廃帝陵あり。祠あり」と書いています。
もう一つの、大炊神社の天皇塚説は言い伝えはあるものの、他の2つに比べ信憑性は落ちるそうです。「地元ではそう言われている」ということだけで、歴史学的には全く証拠がありません。ただ、大炊神社という、古くからある「現物」はどう説明するのかなど、はい違いますと斬り捨てるのも…という感じみたいです。
現代の常識的な考察だと、以下のようにまとまっています。
2.廃帝死去後の初葬地:「丘の松」
3.光仁天皇即位後に改葬:「天王の森」こと今の天皇陵
きれいにまとまって一件落着。これにて本記事は終了!
…といきたいのですが、まだこれで終わりではないのです。
「淡路ふしぎ発見」のミステリーハンターよろしく、次の土地へ。
下川井の史跡(淡路市)

次の舞台は、南あわじ市から一気に北上し淡路市へ。
中間にある洲本市は、豪快にパッシングします。高速道路なら30分ほどで料金は310円(軽自動車の場合)。
津名一宮ICを下りて車で10分ほど北上すると、

伊弉諾(いざなぎ)神宮が鎮座しております。
名前のまま国産みの神、イザナギとイザナミを祀った神社です。忘れていませんか、『古事記』でイザナギイザナミが最初に作った大地は、本州でも四国でも九州でもなく、淡路島だということを。
この神社と国産み伝説は、本編に関係ないので省略しますが、さすが知名度が高い神社か大雨でも大型バスで観光の参拝客が多く、見る限り何故か9割が女性でした。縁結びの神様と言えば出雲大社ですが、ここも縁結びの神社として女性に人気があるんだとか。また、「記録に残る日本でいちばん古い夫婦」を祀る神社か、結婚式も行われていました。
ちなみに、伊弉諾神宮本殿から真東に線を引くと伊勢神宮の本殿に当たる・・・という説がネットで流れています。実際に引いてみると、まあ確かに本殿は言い過ぎだけど、神宮の敷地とはほぼ同緯度だろうなというくらい、際どい位置。伊弉諾神宮と伊勢神宮の敷地は同じ緯度にある、ということは確かです。
伊弉諾神宮と淳仁天皇との関連はありません。しかし、神宮がある「多賀」という地区にも淳仁天皇の伝説が言い伝えられています。
妙京寺にある淳仁天皇の位牌 その2
伊弉諾神宮から数百メートルくらいの距離に、「妙京寺」というお寺があります。

ここも実は、淳仁天皇が流罪になって幽閉された所と伝えられており、南あわじ市の宝積寺に同じく位牌もあるんだとか。
妙京寺自体はどこにでもあるお寺で、中は別段見るべきものはありません。
で、妙京寺の門前には上の写真の他に、

「淳仁天皇御遺跡」と書かれた碑が立っています。立てられている場所が場所なので、てっきり妙京寺のことを指しているのではないかと思いがちです。ほとんどのサイトがそう紹介しています。「遺跡」と書いてあるから、もしかして、妙京寺には「すごいもの」が眠っているのかも…。
しかし、そういう人はこれを逃しています。

「御遺跡はあっち(北500m)」と伊弉諾神宮の方向を指しています。
しかし、間違えるのは無理もない。確かに妙京寺の入口という紛らわしい位置に立っている上に、この文字が風化しかけてパッと見気づかないことが多そうです。かく言う私も、一度写真だけ撮ってスルーしたものの、ふとピンと直感がよぎり道を戻って見るとこれでした。
さて、北500mにあるという「御遺跡」とは、一体何なのか、何があるのでしょうか。
天皇衣冠塚
伊弉諾神宮の隣の地に、淡路市立香りの公園という所があります。

この中に淳仁天皇ゆかりの遺跡があるというのですが…

見渡すかぎりこんな感じ。

公式地図にも何も書いておらず。なら人に聞いてみようと思ったのですが、冬な上に外は大雨のせいか、360度誰もおらず。園内ほぼ私の貸し切り状態でした。
敷地は広そうですが、ここまで来て手ぶらで帰るわけにもいきません。雨の中園内を歩き回り、しらみ潰しに探し回りました。

園内を歩き回ること約30分、ようやく見つけました。見つけた瞬間ガッツポーズ。ドラクエやファイナルファンタジーで、ダンジョンを迷っていたら隠しアイテムを見つけたようなワクワクさがありました。

この看板がなければ見つけることはまず無理でしょ、というくらいの難易度でした。

かなり風化していますが、「淳仁天皇御衣冠塚地主妙京寺・・・」とまでは、なんとか読めました。後で調べると、ここは元々妙京寺境内で、衣冠塚はお寺の境内にあったということでした。
そもそも衣冠塚とは何か。聞きなれない言葉だと思います。
日本では習慣として定着していませんが、昔の中国では衣服を遺体の代わりに収め、墳墓とすることがよくあります。なので、古代中国の著名な人物は「墓」が2つも3つもあることがあり、中国史好きな日本人を戸惑わせています。
三国志で有名な人物に、諸葛亮(孔明)がいます。三国志ではヒーロー的な彼は、主君の劉備の意志を継ぎ魏の国を攻めたのですが、五丈原というところで寿命が尽きます。三国志が好きな人は、五丈原と聞いただけで何か哀愁のようなものを感じるかもしれません。
1999年冬、私はその五丈原に行ったことがあります。

たぶん、現在はそこそこ観光地化されて交通の便も良くなっているはずですが、私が行った頃はただの村。本人も西安市の地図をぼーっと眺めていて、

うわー五丈原や!
と偶然見つけただけに過ぎません。
その五丈原村で偶然、ツアー中の日本人観光客と現地旅行社の中国人ガイドに出会いました。
どうやってこんなところまで…と驚かれたので、地図だけを頼りに路線バスとバイクタクシー乗り継いで自力で来たと言うと、

よくこんな田舎まで一人で来ましたね。中国人みたい
とガイドさんに変な褒められ方をしました。

実際に行ってみてわかったのですが、孔明が力尽きた五丈原は、魏の国の長安と目と鼻の先。今なら車で2~3時間で行ける距離なので、当時でも1日あれば行けるでしょう。
孔明が陣を張ったと言われる山の上にお廟(孔明廟)があるのですが、そこから西安市街地の方向を見るとホント「すぐそこ」なのです。
三国志好きなら誰でも知ってる、「死せる孔明生ける仲達を走らす」という言葉の舞台もここ五丈原ですが、すぐ目の前で志果たせずとは、仏教風に言うと心残りがありすぎて成仏できないだろうなと。
この地に立つと、うわーすぐそこやんか!と孔明の無念が感染ってしまう悔しい気分になります。

これが五丈原にある諸葛孔明の衣冠塚です。
「蜀」の都だった成都には日本風に言えば「孔明天満宮」のような武侯祠があり、御霊はそこに祀られています。実際に埋葬された地はまた別にあり、孔明のお墓は事実上3つあるということですね。
こういう風に中国では、三国志の武将はもちろん、色んな歴史人物の衣冠塚があるのですが、日本ではこの習慣が定着しなかったか、ほとんど聞いたことがありません。試しにググってみても、出て来るのは中国のみ。
意識していなかったですが、国内にある衣冠塚はかなりレアなものかもしれません。
高島陵
衣冠塚をはじめ、淳仁天皇伝説が残る伊弉諾神宮周辺ですが、「伝天皇陵」も存在しています。

Google Mapで見てみても、そこには何もないように見えます。
しかし、航空写真に切り替えてみると、

水色で囲った部分に小山が見えます。ここがどうやら高島陵らしい。
しかし、実際にここに行けと言われると、なかなか厄介です。なぜかというと、文明の利器カーナビが利かないから。良くも悪くもただの小山なので、住所の番地など存在しないのです。
私もなまじナビ頼りだったので、正直めちゃくちゃ迷いました。行きたいなー興味あるなーと思う方は、まあ十中八九車で行くこととなると思いますが、ナビなら伊弉諾神宮より、高島陵のすぐ近くにある「多賀保育所」でセットするのがベストです。バスなどで来る方は…うーん、まあ頑張ってくださいとしか言いようがありません。

上にある森が「高島陵」ですが、

観光名所として整備されているわけじゃない上に、距離は短いとは言えけっこうな急勾配、足場はけっこう悪いです。私はウォーキングシューズでしたが、女性がヒールやパンプスなんかで来ると、下半身死亡フラグが立ちます。

陵墓と言われる丘からの眺めはなかなかのもの。伊弉諾神宮も眼下に見ることができます。

森の中に入ると、そこは木々のトンネルのような形になっていました。道は意外なほど整備されています。それならここまで来る道も整備せい、せめて看板くらい設置せいと言いたくなりますが、それはさておき、『伝』天皇のお墓は左折したところにあり、正面は個人のお墓なのでご注意を。

『淳仁天皇御陵』という、最近作られた碑が立っています。

この塚がいわゆる「高島陵」。地元ではここも…ではなく此処こそ淳仁天皇が葬られたところだと信じられています。陵墓どころか陵墓参考地指定もされていないので、宮内庁からはガン無視されているということですが。

「陵墓」には菊の御紋が刻まれており、淳仁天皇伝説の根強さを物語っています。
人が全くいないので塚をゆっくり見させていただいたところ、塚の石が案外新しく、果たしてこれが本当に天皇陵かどうかという感想を抱きましたが、同じ淡路島でも全然違う2ヶ所に天皇伝説が残るということは、天皇ゆかりの地をめぐる伝説は根強いのだなと。
淡路島の至る所に残る淳仁天皇伝説。たかが一人の天皇でもこれだけの伝説が各地に残っているだけでも、古代史のミステリーとして十分楽しめただろうと思います。




コメント
淡路島の事 面白く分かりやすく書いてますね
私は淡路島に先祖があり今も淡路島に住んでいます、仕事はサンテレビの駐在カメラマンです
それで淡路島から、特集でまるまる飛行場 淳仁天皇 淡路鉄道など放送しました
特に淳仁天皇の事はずっと調べています
書かれている内容はそのとうりです もっと深く知りたいと思いませんか?
何故、色んなところに墓が有るのか? どこで暗殺されたのか? どんなふうに殺されたのか? など 現地の聞き込みや資料で色んな事が分かりました
もし、知りたいのであれば情報提供するので連絡ください
淳仁天皇に最近興味を持ちました。淳仁天皇は淡路島に流された後、どこで暮らしていたのでしょう?洲本城のある辺りでしょうか?詳しい資料などございましたら、教えてください。よろしくお願いいたします。
>ひで様
拙記事をお読みいただきありがとうございます。
淡路配流後に住んでいたところは、ブログ記事にも書いていますが、
①南あわじ市の大炊神社
②同野邊の宮
など候補が何ヶ所かあって定かではありません。
鎌倉時代にはすでに「~と言われている」と書かれていた次元なので。