江戸時代から昭和にかけて、日本最大の色街として栄えた吉原。
その名は歴史の様々な場面で語られ、現在も伝説の遊郭としての名をほしいままにしています。
かつて遊女や遊客で賑わったこの地は、時代の変化とともに大きく姿を変化させていきました。
しかし、完全に消え去ったわけではなく、街の中には今もなお“遊郭の記憶”が色濃く残っています。
本記事では、東京都台東区千束に残る吉原の現在の様子を実際に歩きながら、歴史とのつながりや当時の面影を感じられるポイントを詳しく解説します。
👉吉原遊郭の歴史については、以下のブログで詳しく解説しています。
吉原遊郭跡の場所・アクセス
吉原遊郭を現代日本の住所になおすと、「東京都台東区千束4丁目」となります。
実際にGoogleマップで検索してみると、ほぼイコールで旧吉原遊郭の範囲にフォーカスします。
吉原へ行くには、
・東京メトロ日比谷線「三ノ輪」
・つくばエクスプレス「浅草」1
が比較的近く、いちおう最寄り駅として計算できます。
個人的におすすめなのが台東区のコミュニティバス「めぐりん」。
区内の細かいところを走る循環バスを走らせています。ここ台東病院には
・北めぐりん(浅草回り、根岸回り)
・南めぐりん
・ぐるーりめぐりん
と3路線が乗り入れており、上野駅や御徒町駅、鶯谷駅、東武浅草駅から¥100で行くことができます。
しかも、だいたい15〜20分おきの運行なので、利便性も高い。
吉原探索はもちろん他の観光にも使えそうなので、利用価値ありまっせ。
21世紀の吉原を歩く
最初に述べておくと、吉原は昭和20年の空襲で焼け遊郭時代の遺構は残っていません。
現在残っているものはすべて、戦後赤線時代の、俗に「カフェー建築」と呼ばれるものです。『鬼滅の刃 遊郭編』を見てあの和風の…と思った方は、そんなものは残っていないので悪しからず。
ただし、赤線時代のカフェー建築も独特の建築様式です。建築的に面白い外観をしていることが多いので、こんな建物もあるんだと見ていただけると幸いです。
吉原大門ー交差点名に残る遊郭の残滓

意外に思われるかもしれませんが、今の東京に「吉原」という地名は残されていません。
戦前は確かに「吉原」と呼ばれていたのですが、昭和41年(1966)の住居表示変更で「吉原」が消滅、「千束」という地名になってしまったのです。
なので、ここに吉原があったという地名での名残は少なく、この「吉原大門」交差点がその数少ない遊郭の残滓となっています。
そうそう、ローマ字でお気づきかと思いますが、大門の読みは「だいもん」ではなく「おおもん」です。
見返り柳ー客が遊女との別れを惜しんだ柳の木

右側にある柳は「見返り柳」と呼ばれ、遊郭で遊んだ男が廓から出た時に、敵娼の顔や姿を思い出し、後ろ髪を引かれる思いで柳の前で振り返ったことから、この名前がつけられました。
21世紀東京の象徴、スカイツリーとのツーショットもこのように撮影できます。
吉原の演出ー見えそうで見えない奥の演出
「吉原大門」の交差点から旧郭内に入ります。先の道がクネっと曲がっていますが、これも江戸時代から変わらぬ道筋。曲がった道の先には、「吉原大門」がありました。

それにしても、道をまっすぐにしたら良いのに、なぜ曲がって…いや曲げたのか?
これは山形県米沢福田遊郭や栃木県宇都宮の亀廓などにもあるのですが、これも遊郭の舞台装置の一つ。
遊郭に入る客が、1円か5円札を握りしめ、胸躍らせながら吉原へ向かう。奥には明かりがぼんやりと照らし、男女の嬌声がほのかに聞こえる。しかし、それが見えそうで見えない…その「ワクワク度」を増幅させる演出装置の一つだろうと。
見えそうで見えない…パン○ラも見えそうでギリギリ見えないのが、オスのエロ心をいちばんくすぐるのと同じようなものです(笑
その証拠に、「吉原大門」交差点から遊郭の廓内は、見えそうで見えない絶妙な曲がり方。
現地に行けばわかります、この道の曲げ方は絶対計算してると。
吉原大門

クネっと曲がった道を過ぎたら、「吉原大門」に辿り着きます。

大門自体は江戸時代からありました。写真で残る門は明治初期のものですが、けっこうショボい木製の門でした。
それが上の立派な大門に付け替えられたのが明治14年(1881)。
両側の柱には、
「春夢正濃満街桜雲」
「秋信先通両行燈影」
という福地桜痴の漢詩が彫られていました。

こちらは明治40年(1907)に落成されたという大門。
関東大震災で焼けたと一般的に言われていますが、もし明治40年落成が本当であれば、4年後の、前述した吉原大火で焼けたことが写真資料から明らかです。

大正時代を舞台とした『鬼滅の刃 遊郭編』でも、この「明治44年に焼け落ちた」大門が採用されています。
4年しかもたなかったので、大火後に同じものが再建されたものと思われます。
この大門は、1923年の関東大震災で再び焼失・倒壊。以後再建されることはありませんでした。
👉吉原大門の歴史は、『鬼滅の刃 遊郭編』の補足知識として別記事で書いています。
仲之町通りー吉原のメインストリート

その大門からまっすぐ伸びる道が、吉原のメインストリートだった「仲之町通り」。
遊郭時代、この通り沿いには引手茶屋や芸妓の置屋が並んでいましたが、現在はごく普通の住宅地となっています。
ここだけを見ると、かつてここに本当に日本一有名な遊郭があったのか?と頭上に疑問符がついてしまうような、どこにでもある日本の風景であります。

遊郭時代、仲之町通りには道の真ん中に柳や桜が植えられた街路樹がありました。遊郭にはメイン通りの真ん中に桜を植えていたことが多いですが、おそらく吉原を模したものでしょう。
吉原の仲之町通りは、桜の季節は桜、5月にったら菖蒲(あやめ)、7月と8月は灯籠飾りで華やかな雰囲気に花を添えていたそうです。
信じられないかもしれませんが、通りの中央線の木は桜の季節が終わったら木ごと抜き、次は牡丹や菖蒲に入れ替えるという、超手間暇をかけていました。
これぞ吉原最大の華。どれだけ贅沢に金かけているのかと。
しかし、この並木スペースは先の戦争による空襲で焼失したか、戦後の地図では消えてなくなっています。
航空写真でも、戦後数年後(昭和23年)のでは確認できたものの、9年後の昭和32年(1957)の写真では無くなっていました。
吉原遊郭跡探索の醍醐味ー小路に残るカフェー建築
仲之町通りには何の面影もありません。
が、この「メインストリート」から一歩小道に入ったりすると景色は一変します。

下町の香りをムンムンと漂わせているこの両側に、遊郭・赤線時代には大小の貸座敷や赤線のカフェーが並び、夜の蝶たちがこの狭い道筋で舞っていました。
この写真だけを見ても信じられないかもしれませんが…。
そんな町並みの中に、赤線時代のカフェー跡が残っています。結論から言ってしまうと、予想以上に残っておりすべては紹介できないので、一部のみ紹介します。
吉原遊郭跡のカフェー建築①ーマスミ(満寿美)
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赤線時代のカフェー建築が、当時とそのままの姿で残っています。こちらは「満寿美」という店だった建物で、珍しいことに、2階の上には「マスミ」の文字まで残っています。

赤線時代、売春防止法が完全施行され吉原の赤い灯が消える寸前の地図にも、「マスミ」の文字が建物と同じ位置に確認できます。
10年以上前に訪問したときも、そのままの姿で残っていたのですが、残ってないやろなと半分諦めていたので、よくぞ残っててくれた!と感謝したい気分です。60年以上吉原の町を見続けた「生きた遊里史の証」は、今も吉原を黙って見つめています。
吉原遊郭跡のカフェー建築②ープリンセス

「満寿美」の近くには、「プリンセス」という屋号の店だった建物が残っています。
もうこれは説明不要なくらいの、典型的な赤線建築。道の角に向けて出っ張った窓から、赤線時代は女性が道行く男に

お兄さん、寄ってってよ♪
と声をかけていたのだろうかと、想像をたくましくさせます。

「プリンセス」を逆から写すと、円柱に挟まれた玄関がなんとも言えない赤線臭さを醸し出しています。

作曲家の小林亜星(1932-2021)は、下積みのバンドマン時代に全国の赤線・青線を渡り歩いています。その赤青線行脚を記した『あざみ白書』の中で、氏が書いた昭和30年(1955)当時の吉原の地図があります。それによると、この店は「すみれ」となっています。
が、昭和28年(1953)及び赤線廃止時の地図を見ると「プリンセス」。
「すみれ」はおそらく小林氏の記憶違いと思われるのですが、他はたいがい当たっているので、はい記憶違いです終わりと片付けるわけにもいかず、なかなか悩ましい。
なお、『あざみ白書』は自他共に認める文学界の赤線大魔王、赤線を舞台にした小説で芥川賞を取った吉行淳之介(1924-1994)が、

赤線に関しては日本最強の一人を自認しているが、この俺様より上がいたとは…
と脱帽したほど全国規模で、かつ描写が細かく歴史資料としても一級品です。
が、フィクションも混ざっているので、「嘘を嘘と見抜けないとこの本を資料として使うのは難しい」という5chのネタスレ並みに曲者な本でもあります。
吉原遊郭跡のカフェー建築③ーモリヤ(現存せず)

「プリンセス」の隣にはかつて、こんな建物もありました。赤線時代は「モリヤ」という屋号で、『赤線跡を歩く』にも出てきます。
赤線時代のカフェー建築あるあるですが、一つの家に出入り口が2つも3つもあるのが特徴の一つ。間近で見ると真ん中のドアが何気に艶めかしく感じたものです。
私が初めて訪問した2010年時点で、「赤線跡を歩く」の写真と比べて建物にかなりガタがきていました。寿命は長くないだろうなと思っていましたが、やはり11年ももたなかったようです。
吉原遊郭跡のカフェー建築④ーしんせつ(現存せず)

同じ通りには、ギリシャ建築のような、いや宇宙船にも見える個性ある建物も存在していました。
地図と照合すると「しんせつ(親切)」という屋号の店だった模様。
残念ながら、2021年再訪問時にはマンションになっていました。もう一度見たかったのですが、有形文化財ではないのでこればかりは仕方ない。
この通りには、他にもいくつか赤線当時の店の建物が残っています。昔の地図と照合しながら探索するのも面白いと思います。
吉原遊郭跡のカフェー建築⑤ー日の出

「日の出」と書かれた建物があります。「ふるさと」と書かれているだけで、旅館なのか飲み屋なのか、さっぱりわかりません。しかし、過去には旅館だったことは、『色街百景』で同じ看板に「旅館」と書かれているので明らかでしょう。
他の方のブログを見てもスルーしている人も多そうですが、ここは赤線時代も同じ名前で営業していた店。
「昭和28年の地図」「赤線廃止後数年後の住宅地図」「小林亜星氏の記憶による昭和30年当時の吉原地図」3つがすべて「日の出」で合致。
当時の屋号が現在に残っている珍しいケースであります。

この建物を違う角度から見てみると、やはり同じ建物に複数の玄関があります。
奥の一角にも一つ玄関があるので、この建物には玄関が3つあるということになります。
これが赤線時代の建物の特徴の一つで、客を多く引き寄せるためとも、入口と出口を別にして客と客の鉢合わせをできるだけ防ぐためとも言われています。
当時は新入社員歓迎会でも赤線行くぞということもあったそうなので、通っていた人も現在の風俗よりもっと広い。
会社の同僚やご近所さんと中でばったり出くわしたりしたら…それを防ぐために玄関を複数作ったとも。
吉原遊郭跡のカフェー建築⑥ーゆうらく(ユーラク)
数ある吉原のカフェー建築の中でも、いちばんインパクトが強いのはこれだと思います。

赤線時代は「ユーラク」または「ゆうらく」と表記された屋号で、側面のハートに似た装飾が大きな個性となっています。


2010年当時の写真と比べても、ぱっと見の外観はほとんど変わっていないですが…
特徴的な側面は細かいヒビが入っていたりして、多少はガタがきているなと感じます。洲崎のカフェー建築が東日本大震災で軒並みダメージを受けたのと同じく、震災で傷んでしまったのだろうか。
この外壁だけでも、凝っているなと感心してまいますが、よく見ると、色使いも三種類に分かれています。特に「ハート」の部分はピンクっぽい感じの色。長年の経年劣化で剥げているものの、昔は鮮やかなピンク色だったに違いない。
この建物を直に見るだけでも、これを見に来るだけで吉原に来る価値ありと言っても大げさではないと思います。
吉原一の妓楼、大文字楼跡
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吉原の中には、このような公園(台東区立吉原公園)があります。
住宅地と商業地で埋められている吉原界隈の中に、穴が空いたような憩いの場ですが、ここは丸ごと、遊郭時代の吉原四大妓楼、大文字楼の跡です。
公園が妓楼跡なので建物こそありませんが、公園を隅まで歩いてみると吉原の大妓楼の大きさを体感できます。
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さすが大妓楼だけあって、絵はがきにも登場します。手前がそうですが、これは確かに大きいわ。
奥にある時計台の建物は、同じく吉本四大見世の一つである「彦多楼」ですが、他の3つに比べて残っている絵はがきがほとんどヤフオクに出てきません。
前述しましたが、関東大震災以降客の流れが変わったのが経営に響いたか、吉原四大妓楼と謳われた大文字楼は、昭和19年(1944)には店じまい。跡地には防空壕が掘られたそうです2。
吉原の大妓楼の名を継ぐものー角海老
現在の吉原は、ご存じのとおりソープ街となっています。その中で、遊郭の見世の名前を残す唯一の店がありました。

「角えび本店」と書かれたお店。かつての遊郭時代の大見世「角海老」の名を残るお店です。

明治時代の地図にもその名が記載されています。仲之町通りに面した吉原の中でも1,2を争う大妓楼だったことが、地図からもわかると思います。

それだけに、絵はがきにもその姿が残っています。明治期のものですが、洋風の吹きさらしの廊下に大見世の象徴とも言える時計台を備えた和洋折衷、いや「ほぼ洋風」と表現してもいいかも、という建物でした。絵はがきに残っているということは、当時としてはかなり思い切った建物だったのでしょう。
「角海老楼」の跡にはマンションが建っていますが、その敷地はかなり大きい。その感覚は実際に見て感じてみると良いかと思います。

角海老楼にいた花魁の一人、薄雲太夫の絵はがき。吉原では遊女を「花魁」と呼んでいましたが、花魁とは遊女の最高ランクのことで、「○○太夫」という名称で呼ばれていました。これは京の嶋原、堺の乳守遊郭でも同じでした。
横の二人は、「禿(かむろ)」という見習い遊女。しかし、ただの見習いではないようで、太夫の付け人であると同時に、見込みがあると認められこの年齢から芸や学問など英才教育を仕込まれる、将来の花魁候補生でもあったようです。
なお、「禿」とはおかっぱ頭を意味し、江戸時代では髪を結わないおかっぱ頭でしたが、明治以降は日本髪を結って「禿島田」という飾りを頭につけていました。写真の禿も日本髪に髪飾りと典型的な吉原禿です。
娼妓用の病院ー吉原医院

吉原の廓外には、「吉原病院」という病院が設置されていました。こちらも広義の遊廓の施設で、遊郭で働く女性は「公娼(娼妓)」につき道府県が病気の場合の負担を負う必要がありました。公娼の反対が「私娼」で、私娼は違法でした(といっても事実上の黙認でしたが)。
病院も公娼向けの福利厚生の一つで、当時は厄介な病気だった性病対策として、性病検査所を兼ねた娼妓専用病院が設けられていました。吉原病院もその「一般の患者様お断り」の病院の一つでした。
この「遊女専用病院」については、大阪の難波病院がかなりデータを残してくれており、私もブログにまとめています。興味がある方はどうぞ。

娼妓専用病院だった吉原病院は、戦後は遊廓(公娼)が廃止となりその役目を終え、「ただの総合病院」として再出発。現在は場所はそのままに台東区立台東病院となっています。赤線は公娼でも遊郭でもないので、お前ら勝手にしやがれというわけです。
吉原観音と関東大震災の悲劇…?

吉原遊郭のはずれには、かつて大きな池がありました。その池の跡には、写真の大きな観音様があります。
大正12年(1923)の関東大震災で、吉原も灰燼に帰しました。火焔と煙で人々は池に飛び込み、約600人が溺死したと言われています。
この観音様は、ここで死んだ人たちの慰霊塔です。
…という話を聞いた人が多いと思われますが、これには異説も多く、当時から嘘つくんじゃねーよ!と反論が起こっていました。
特に、江戸文化と吉原の粋を愛した久保田万太郎は、こういう風評に対し容赦ない反駁を加えています。それについての詳細は、こちらのブログ記事をどうぞ。
妓楼の楼主寄付の玉垣
観音様の周りを探索していると、昔の貸座敷の楼主が寄付した玉垣などが残っていました。

こちらのお地蔵様には、左は「大」しか判別できませんが、右は「角海老」とはっきり読み取れます。昔の楼主が寄付したものなのでしょう。

こちらは「大文字楼」。波木井という名字がそれを物語っています。そこから左は、芸妓と幇間の名前でしょう。

こちらは「新吉原取締役」の文字が。
吉原遊郭は、貸座敷、芸妓(置屋)、引手茶屋の連合体で、それぞれ組合がありました。その3つの組合をまとめるのが「新吉原三業組合」。そのトップが取締役でした。
この取締役は、警視庁からある程度の廓内の秩序維持権限をもらっており、どこの誰かが吉原の掟を破ったり秩序を乱すような「悪さ」をすると営業免許を取り上げ、吉原から追放することができたそうです3。
遊郭といってもただの遊び場ではなく、その裏には厳しい掟があり、その吉原を壊さぬよう取締役が目を光らせていたのです。

こちらは歌舞伎役者の玉垣。歌舞伎に詳しい方なら、おおおと声をあげて唸ってしまうことでしょう。一人一人の経歴を調べてみると、おそらく戦後の寄付かなと推測します。
玉垣にはないですが、初代中村吉右衛門(鬼平じゃなくてお父さんの方)も戦前から吉原に遊び、戦後も久保田万太郎に連れられて『松葉屋』で芸者遊びをし、歌舞伎座の舞台の暖簾にも『松葉屋』と書いてもらい、松葉屋は健在ですよと世間に宣伝してくれたそうです。
このように、吉原、というか遊郭は「ヤる」だけがクローズアップされていますが、廓内に真空パックのように残っていた江戸文化の保管庫でもあったのです。それだけなら、名のある歌舞伎役者がわざわざ玉垣など寄贈しません。
江戸吉原文化の担い手だった吉原芸者も、2010年に最後の一人が亡くなり、廓の陰の引き立て役として吉原を支えた廓芸者は滅びました。が、形はなくなっても伝承することはできる。『鬼滅の刃』で遊郭がクローズアップされた今、もう一つの遊郭、吉原の姿を見直す良い機会ではないでしょうか。
さいごに
・吉原は江戸時代に公許された日本最大級の遊郭であった
・現在は東京都台東区千束周辺に位置し、一般的な市街地へと変化している
・1958年の売春防止法以降、遊郭としての機能は消滅した
・一方で、ソープランドなどの形で風俗的な側面は現在も残っている
・見返り柳や吉原神社など、歴史を感じられるスポットが点在する
・街並みの中には、かつての区画や雰囲気を想起させる要素も残る
「遊郭総本山参拝」は完了。都会化が過ぎて殺伐としている東京砂漠で、こんな古い建物が残ってる「オアシス」がありました。
前回の洲崎遊郭跡の赤線時代の建物はほとんど残っていませんでしたが、それと対称的なように吉原は、まるでタイムカプセルのように変わってませんでした。
そして、本記事の締めとして。

吉原は「現役」でもあります。探索後、汗を流しに「ご入浴」をするかどうかは、あなたの意思とお財布具合にお任せします(笑
【訪問時期:2021年】
👉東京の遊郭・赤線跡探索記事は以下をどうぞ!











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