歴史探偵として歴史の大地に埋もれた遊里跡を掘り起こしていくと、「私娼窟」というものによく当たります。
これが遊郭とは似て非なるもの。ネットの書き込みを見ていると、遊郭と私娼窟を混在させている人が非常に目につきます。例えば、戦後に出来た赤線を遊郭と言ったり。
ぶっちゃけてしまえば、「やっていること」に変わりはないので素人目には違いがわからないし、そもそも違いなどどうでも良い。が、私のような発信側は、少なくても「遊郭」「私娼窟」、そして「花街」の区別くらいは明確につけておいた方が良い。勉強している人にはすぐわかります、この人深く勉強していないなと。
しかし、ややこしい面もなきにしもあらず。前回の米子や境港のように「遊郭」から「私娼窟」に変化したけれど、営業形態は何も変わっていない例もあり、これも素人目には「変わらへんやんか」となります。うん、確かに変わっていない。
もう一つは、長年ここが「遊郭」だと語り継がれたり、俗称で「遊郭」と呼ばれていたところが一人歩きし、「遊郭」だったと地元で固く信じられているパターン。
実は、これが厄介なのです。
今回は、そんな遊郭()の話を。
大社にあった遊里
結論から先に言ってしまうと、大社に遊郭は存在していました。
大社近辺の地名の正式名称は杵築ですが、大社の郷土史1によると、江戸時代から大社への参拝客目当ての遊郭は存在し、1821年(文政4)の史料にも存在が確認されています。ただし、杵築地区では廓とは呼ばず、「置屋」と呼んでいました。
江戸時代末期の置屋(=遊女屋)の数は以下の通り。
1858年:13軒(大鳥居前8軒、越峠村5軒)
1861年:10軒(大鳥居前6軒、越峠村4軒)
出典:『御徒文書』(島根県立図書館蔵)
19世紀初頭(江戸時代末期)作成と伝わる『出雲国産物番附表』によると、「杵築遊所」は西前頭10枚目の位置にあります。が、松江の遊里が西前頭24枚目、美保関が東前頭24枚目な位置であることから、ここはかなり「儲かっていた」ということがうかがえます。
杵築町の遊女は「下女奉公人」と呼ばれ、検番による身分証明を経て置屋に集められました。当時は遊客が直接置屋へ行く場合と、宿屋に遊女を呼ぶ場合があったそうです。置屋で客を取ることを「居客」といい、宿屋に呼ぶ場合は、「呼び屋」という遊女の出入り免許を持った宿でないとならず、主人から置屋に連絡するというスタイルでした。
明治に入り、杵築の遊里は公の遊郭として設置許可が出たらしく、現存するもっとも古い部類の『島根県統計書』にも「神門郡杵築東村」の記載があります。
明治15年までは数字的にふつうなのですが、17年に半減。そこから谷底に落ちていくように数字が下降線をたどっています。
そして、ついに明治34年(1901)にはゼロ…それ以降は統計書から削除され、以後復活することはありませんでした。何故突然勢いを失ったのか、そして何故その勢いを取り戻すことなく消えたのか。史料は何も語ってくれませんでした。
柳町「遊郭」の誕生
「出雲に遊郭がない、大社にもない…こりゃあおかしいぞ」
私の疑問はここから始まりました。
上記のとおり、遊郭は明治35年を境に消えてしまったのですが、そこから出雲近辺は遊里空白地帯となります。近隣の松江や浜田には遊郭が置かれていたものの、今みたいにホイホイと行けるものではありません。これはおかしい…。
ある日、内務省衛生局(のちの厚生省)の全国の私娼窟リストの中に、ある文字を見かけました。
(『業態者集團地域二關スル調』より。隣の「櫻町」は先日紹介した境港のこと)
はっきりと「大社町」「杵築」の文字が。役所が公権力を使って調べた資料なので、これは間違いない。
そして初めて見る「柳町」の文字。昭和になって大社にあらわれた私娼窟の謎を解く鍵は「柳町」にあるようです。
明治34年を最後に記録から消えてしまった大社の遊郭ですが、遊郭死せども売笑自体は死なず。
大正12年(1923)12月、「敷島新報」第三十五号(敷島新報社発行)には、「売笑婦の処理について、或一区画の地点に集合せしめよ」との見出しで、出雲大社の玄関口である駅前通りが未だ整備が不十分で、風紀も乱れ神都の尊厳を冒涜するものであると厳しく批判しています。
町に散在した売笑窟の統合、つまり集娼がのちに出来る歓楽街「柳町遊郭」の創設の背景だと思われます。
大正14年(1925)、大社に「大社起業株式会社」が発足しました。馬場町の桑畑だった丘陵地帯を切り開き、歓楽街を作るための会社です。
演舞場(後の『行楽館』)を建てて参拝客に演芸を愉しんでもらおうということですが、その時に花街が作られたと郷土資料にあります2。が、花街といっても地元では「柳町遊郭」と呼ばれていました。
昭和8年(1933)、「柳町遊郭」に株式会社柳町検番がつくられました。その時の業者数21軒。内務省衛生局の同年のデータは20軒なので、数はほぼ一致します。
その他、内務省のデータにあった数字は以下の通り。
このとおり、柳町は「花街」と銘打っておきながら実質遊郭、花街が売笑窟と化したのではなく、もともと花街に擬態した私娼窟として、「柳町遊郭」は成立したのでしょう。だからこそ、地元の人はここを「遊郭」と呼んだと。
当時の賑わいを、地元の古老が郷土史に残しています。
「また花街『柳町遊郭』はじめ『行楽館』『大社劇場』と(中略)カフェーなど今から考えも及ばぬほどの盛況を極めたのも、この大正時代であります」
引用:『大社の史話 第50号』
「50年前は柳町の全盛期でした。カフェーも柳町界わいに3軒ありました」
上記の「大正時代」は、柳町ができたのが大正14年なので、おそらく昭和初期、話し手の中では「大正25~30年頃」だと思われます。この頃、一畑電鉄の出雲大社前駅が完成し、すぐ隣にあった柳町はさらなる賑わいを見せたことは、想像に難くありません。
また、「柳町行進曲」なるものを作った人もいたようです。『道頓堀行進曲』の替え歌だそうです。
この歌の風景をまぶたの裏で映像化してみると、血潮あふれる若い男が、「肉」、というか肌を求めて柳町に繰り出した賑わいの声が今に聞こえてきそうです。ここで咲いた恋話もたくさんあったのでしょう。
図書館で見つけた神門通り(国鉄大社駅から大社への道)を歩く大社芸妓たちとのことですが、おそらく柳町の芸妓かと思われます。
こうして戦争を経て戦後へ入ります。
戦後の柳町
戦後の大社町は、最初は終戦の混乱で参拝どころではなかった事情もありましたが、大社駅の記録を見ると昭和25年から客数が戻りはじめています。おそらく大社の柳町も、戦後の混乱を経てこの頃には多少の活気は取り戻したかもしれません。
戦後はこれといった話はないですが、「柳町遊郭」は戦後は赤線として活動していたことが、『益田市史』に記載されています。
売春防止法全面施行(昭和33年4月1日)に向けて、県下5ヶ所の赤線地帯3は「その後」の商売替えについて県とも話し合った結果、大社(と益田)は全面施行前の3月15日に解散式を行うことになったと記されています。
『大社の史話 第160号』の年表には、昭和31年4月1日付けで、「翌年の売春防止法施行にさきがけ、『柳町遊郭』全業者15軒と(接)待婦24名転業し再発足」と書かれていますが、この文章の意味がよくわかりません。
なお、大社の赤線の最盛期は、「置屋21軒 (接)待婦40名」と書かれており、「置屋」の文字から出雲市(塩冶新地)とは違い大社はあくまで「花街」として営業していたのだと推測できます。
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