現在の小姓町を歩く
小姓町は山形駅から東へ1キロほど。バスもありますが、人並みの下半身力ならウォーキング気分で徒歩の来訪も可です。昔も現在も同じ位置にありますが、町のエリア=遊郭ではありませんので初心者の方は要注意。
現代の小姓町の大通りは、白い石が敷かれ公園のようなたたずまいとなり、両脇には飲み屋やマンションが建ち並んでいます。遊郭時代は「大門通り」と呼ばれたこの道も、現在は「石だたみロマンロード21」という、なんだか落ち着きのない名前になっています。
小姓町の入口には、「光小路のれん街」という飲み屋のテナントビルがあります。
こちらは赤線が廃止になった数年後の住宅地図には「大門街」という名前になっており、「大門」という名前に遊郭の跡が偲ばれていました。
(遊郭時代の小性町遊郭の大門)
「大門」の名前のとおり、この遊里の入口には写真のような大門が遊客を迎えていました。遊郭の大門は、人の出入りや「出女」、つまり遊女逃亡防止の関門という役目もあったのですが、ここからは娑婆ではなく「別世界」だよと遊客に思わせる演出効果もあったと思われます。
小性町遊郭の大門は、厚い石材が門柱の部分で11段重ねになっており、その両側には鉄製の飾り格子が取り付けられていました。見るほうは重量感というか重圧感があった大門らしい門だったと、小性町の古老は述べています。
ところで、あるブログによるとその大門の跡が残っているとのこと。
これがそうらしい。見つけられるものなら見つけてみろと言わんばかりの隠れキャラぶりに、現物を見つけた時は私も興奮を隠せませんでした。
しかし、現地でそれを確認しつつ冷静に状況判断してみると、これはうかつに信じてはダメだなと。
「大門の遺構」と資料にある大門の位置が、明らかにずれているのです。もしそれが大門の遺構であるならば、赤丸の場所にないといけないので、私の結論は違うとジャッジせざるを得ない。
その「遺構」の対面は駐車場になっているのですが、そこにはかつて老舗妓楼、そして遊里なき後の小姓町の華であったある店がありました。
山形の伝説のキャバレー
ところで、この小姓町にはかつて山形、いや東北地方にその名を知られたという大キャバレーが存在していました。その名は「ソシュウ」。おそらく中国の蘇州からとられているのだと思いますが、詳しいことは不明です。
現在駐車場になっているエリア、ここにかつて「ソシュウ」がありました。
元々、ここには「日の出楼」という、小姓町の中でも老舗の貸座敷がありました。前述のとおり赤線時も営業していたのですが、売春防止法施行が決まりこの稼業に早々に見切りを付け廃業しました。
そんな折、仙台でキャバレー「ソシュウ」を経営していた業者がここに目を付け、山形にも「ソシュウ」を開業しました。小姓町の赤い灯が消える1年前のことでした。
その業者は「扇屋商事」、当時の社長は石田信雄という人物でした。この扇屋商事は、看板なら宮城県のそこら中で見かけるパチスロチェーン「パラディソ」を展開する会社として現存していますが、昔はキャバレーなど飲み屋系の会社だったのでしょうか。
一時期は、東北の歓楽街といえば仙台の国分町か、山形の小姓町かと謳われ、「遊里のその後」の町を賑わいを支えたフラグシップ(旗艦)が、この「ソシュウ」でした。
最盛期には接待などで大賑わい、淡谷のり子や欧陽菲菲などの有名歌手をゲストに呼び、高級キャバレーとして100人以上のホステスを抱えていたといいます。
が、昭和59年8月31日に閉店。閉店当日はかつての常連さんが押し寄せたり、仲間どうしが閉店を惜しんで涙にくれるなんてこともなく、その最後は非常に静かであっけないものだったと、『キャバレーに花束を 小姓町ソシュウの物語』というソシュウの一代記に記されています。
閉業跡は、失業したホステスたちがお店を持てるよう、「ソシュウプラザ」という飲み屋のテナントビルに改造されたものの、それもバブルがはじけた1990年頃にはほとんど誰もいなくなり、人知れず取り壊され駐車場に。
細かく書けばこれだけ別記事にできるほど内容が濃い「ソシュウ」ですが、書き出すと本題から逸れそうなので、興味がある方は関連書籍をご覧下さい。
嗚呼、娼妓駆楳院…
「大門通り」を東へ直進すると、大きな十字路に行き着きます。
その東南角、現在は歯科医院になっていますが、ここに「坂田楼」という大きな貸座敷が建っていました。それと相対するかのように、道の向かいには「青柳楼」が建っていました。
しかし、ここで気づいた人はいるでしょうか。少なくてもネットの皆さんは掘りが浅いのか、重要なことに気づいていません。
「坂田楼」に坂田歯科医院…そう、名前が同じなのです。どうやら歯科医院は元坂田楼の楼主の子孫の方がやっており、前述の昭和初期の小姓町妓楼配置図の元データは、ここ「坂田楼」の方の記憶をもとに作成した地図でした。
ちなみに、石だたみなんとかロード沿いには「長嶋医院」がありますが、こちらも昭和初期にあった「長嶋楼」の子孫の方だそうです。
ところで、戦前の小姓町にはこんな記述があります。
数年前までは(貸座敷が)二十二軒あったのであるが、財界不況のあほりを食って大店が三軒共討死をしたのは一寸寂しいが(以下略)
『全国遊廓案内』
昭和初期、大正時代から続いた慢性的不況や、人権意識の向上による廃娼論が声高に叫ばれるようになりました。
その中で、「新盛楼」「岡野屋楼」、そして「坂田楼」の3軒が昭和3年(1928)あたりに廃業していることが、資料から明らかに。つまり、『全国遊廓案内』の記述は「数年前」「大店が三軒共討死」まで正しいのです。
この書物、ホント細かいところで間違いや誤字が多いのだけれども(ブログくらいならいいけど、論文で引用するときは絶対に一字一句裏を取った方がいい)、前回の左沢編といい、山形県の精度はかなり高めにできています(笑
(再び山形へ真夏の山形市・小姓町へくり出す レトロな風景を訪ねて様より)
その坂田楼…もとい坂田歯科医院を横目に十字路を横切ると、道が直角に左に曲がり、すぐまた右方向へ直角に曲がります。
この不自然な曲がり方は何か理由があるに違いないのですが、そこまではわかりません。
左へ90度曲がる角の突き当たりに、かつては娼妓の診断所、古い時代には「駆楳院」と呼ばれた遊郭の遊女専用の病院がありました。
遊郭の遊女には、最低週1回の性病検査が法律で定められていました。罰則付きで拒否ると罰金か警察に拘禁されます。公娼なので彼女らの検査代は基本無料でしたが、ここで性病が見つかると強制入院、稼業は営業停止になります。失業保険や有給休暇などはあるはずもなく、入院させられると前借金がふくらむだけで遊女にとってはとんだ地雷でした。
現在では注射一本、いや初期なら内服薬で治る性病も、抗生物質がない戦前は罹ってしまうと治療にえらい時間がかかりました。メランコリーという言葉がありますが、性病に罹った人は痛みもさることながら、そのメランコリーな気分になったといいます。
小姓町の性病検査は毎週水曜日だったそうで、その日の夜は遊客で押すな押すなの大盛況でした。水曜夜に営業が出来る遊女は言わば「シロ」。性病を恐れることなく遊べると男が殺到したというわけです。もっとも、遊郭側もこの日は料金割増にしたそうで、なんだか狐と狸の化かし合いのようです。
(再び山形へ真夏の山形市・小姓町へくり出す レトロな風景を訪ねて様より)
白いペンキに塗られた木造2階建ての洋館、いかにも古い戦前築だなと思わせるものですが、この建物が建てられたのは昭和でもなく大正でもなく、なんと明治。いや、21世紀でもなく20世紀でもなく、19世紀の代物でした。明治30年(1897)に駆楳院として建てられた施設ですが、小姓町遊郭は明治の大火で焼けリニューアルオープンしており、それとほぼ同時に建てられた、まさに遊里の歴史を最初から最後まで見届けた生き証人でもありました。
2階は娼妓たちの入院部屋でした。窓から伸びる彼女らの補足白い手が印象に残っていると地元の回想にあります。
戦後は遊郭(公娼制度)の廃止と共にその役目を終え、山形県立の学校の女子寮を経て「山形県生活衛生会館」として使われ、100年間小姓町の変化見つめ続けていました。内部はほとんど手つかずそのまんまだったそうです。
小姓町遊郭を書いたブログには、建物が現役の事務所として使われている姿が見受けられ、現在でもあるような錯覚さえ覚えます。が、残念ながら2018年3月に解体。遊郭最古かつ最後の生き証人は、その思い出と共に成仏されました。前に生える銀杏の大木が、何か物言いげに鎮座しているのみとなっています。
今一歩遅かったか…ただ口惜しい気持ちだけが更地と化した建物跡に残りました。
小姓町の北側には「小姓町公園」があります。
何の変哲もない公園ですが、ここはかつて「新芳楼」という貸座敷がありました。この公園、街中の公園にしてはけっこう大きいのですが、公園の敷地イコール「新芳楼」だったんだとか。
前述の回想によると、「新芳楼」は小性町一の大店「花芳楼」に負けず劣らずの規模だったそうなのでさもありなんと思うのですが、念のために過去の航空写真で確認することにしました。
写真Aが「新芳楼」なのですが、Google mapと比べてみても庭を含めると、確かに現在の公園くらいの大きさはありそうです。
(『鈴木邦緒写真集小姓町界隈50年史』より。1976年の写真)
これが「新芳楼」の門だそうですが門構えからしてかなり敷居が高そうです。小姓町遊郭の貸座敷は甲乙丙の三ランクに分かれていたそうですが、「新芳楼」は甲の上だったのだろうなと、この門構えを見て感じます。
なお、航空写真を追っていくと、「新芳楼」は写真の数年後の昭和55年(1980)には現在の公園になっていました。上の写真は「新芳楼」がこの世から姿を消す前の最後の姿だったというわけです。
遊郭と稲荷神社
遊里史を研究すると、遊郭とお稲荷さん(稲荷神社)は一セットのようなものになっていることがわかってきます。遊里と稲荷神社の関係…それはわかりませんが、遊里跡には大なり小なり稲荷神社がインストールされており、逆に消えた遊里跡を突き止める目印になったりもします。
小姓町も例に漏れず稲荷神社があります。が、ここは「東前稲荷神社」といい、山形城主だった松平下総守忠弘公によって17世紀に建立された神社。近隣農民の五穀豊穣を祈念した社で、近代に成立した遊郭とは関係ありません。
今はいないようですが、戦前には宮内庁から宮司(実は国家公務員)が派遣され、昭和7年(1932)に就任した宮司が遊廓時代のことを回想しています。
この神社に奉仕した時、その頃を思い起こせば町内は華やかであり活気に満ちあふれておった。若い者の中には遊興の巷として足繁く通い、特に夜間はあたかも不夜城の如く別天地であった。
『わが町の昭和史』
正直、不夜城と言われても現在の小姓町を見ても信じられない光景が、80年前にあったのです。
稲荷神社の隣には、「旅館 菊清」があります。遊郭時代には「萬亀楼」が同じ場所に建っており、戦後の赤線時代にもその名を確認できるので、廃廓後は旅館に転業した、赤線時代の生き残りかもしれません。
そのお稲荷さんには、裏道があったりします。地元では「遊郭裏門通り」「いなり様裏通り」と呼ばれている道で、名前のとおり遊郭の大通りの裏道です。ここでも恋仲の男と女(遊女)がこっそり一目をしのんで会っていた悲哀があったそうです。
(『鈴木邦緒写真集小姓町界隈50年史』より)
昭和47年(1972)の裏通りです。左側に祠が見えるとおり、柵の向こうが稲荷神社です。
48年後の2020年に似たようなアングルで撮影してみました。道が狭すぎてこれ以上自分自身がバックできず、このアングルが限界だったのですが、コンクリ塀とアルミ柵になったりして様相は様変わりしています。
誰も見向きもしない道を一人、部外者がこんなところで何をしているんだという視線に突き刺されながら歩いていると神様はご褒美をくれるようで、裏道にはこんなものもありました。
ここは遊郭大門通りの真裏、庭園の跡らしきこの石の墓場は、大通りの元妓楼の裏にあたります。これは妓楼にあった庭園の跡ではないだろうか。表はすっかり消えた遊里跡ですが、ここには「遊郭」が残っている気がしてなりません。
現在はセブンイレブン諏訪町1丁目店になっているこの場所には、大通りからは外れているけれども、小性町一の大きさだったという「花芳楼」がありました。絵葉書に残っている「花村楼」より大きく、庭だけでも300坪以上あったそうです。
建物も、玄関前の大階段は大人四人が並んでもまだ余るほどの広さがありました。航空写真では残念ながら建物は壊され倉庫や民家になっていましたが、真ん中に空いた庭と思われるスペースが、かつての大店の壮大な姿を想像させます。
コメント
あと、鶴岡市の鶴岡遊廓も。鶴岡遊廓にいた遊女と鉄門海僧侶の話は泣けます?マガジンファイブ、とみ新蔵作「鉄門海上人伝〜愛朽つるとも」を参考までに。
貴重な研究拝見しました。
私は、旧制山形高等学校の社会科学研究会(社研)を調べています。
亀井勝一郎なども参加していました。
彼らは合宿をしながら、研究活動をしていたのですが、
その場所が花村楼の別荘(諏訪神社の傍)だということがわかっています。
小姓町に花村楼の貴重な写真がありました。
別荘について、場所、当時の様子など、もしわかることがありましたら、教えていただけましたら幸いです。山高の生徒たちが使っていたのは、大正から昭和に移るころの短い期間ですが。
宜しくお願い致します。
>佐藤光康様
はじめまして。拙ブログをご覧いただきありがとうございます。
別荘についてですが、資料をひととおり見直してみましたが、それらしき記述はありませんでした。
お力になれず残念ですが、また何かわかりましたらお知らせさせていただきます。
お忙しいところ、ありがとうございました。
今日、小姓町を米澤さんのブログを思い出しながら歩いてみました。
全く違った風景が見えました。
私は高校の教員をしていましたが、米澤さんの研究に脱帽です。
これだけ丹念に、調べ上げる力、何と素晴らしいことか。
今後もご指導をよろしくお願い致します。
はじめまして。
昭和48年に、小姓町に隣接する山形県山形市諏訪町1丁目2−25(取り壊した後、隣の仁藤豆腐店が土地を購入、豆腐店も今はなくなり大きなビルが出来ていました) だと思うのですが、元遊郭の建物と思われるアパートに、大学受験の予備校に行くために数ヶ月住みました。一階は大家さんの住居なので入ったことはありませんが、二階は、四畳半くらいの個室が左右に並んでいました。大通りに面した部屋だけは、広い部屋でした。その部屋には、小国町から出てきた三姉妹が住んでいました。作っていただいた地図で、これも入っているのかこれから確かめてみます。写真を撮っておけばよかったのに、浪人生でしたから、カメラはありませんでした。(;_;)
地図をみて、品川楼ではないかと判断しました。このあたりでした。
http://snack-ran.blog.jp/archives/1021841914.html
を見ると、品川楼の隣に、一力楼もあります。一力、なんか聞いたような響きがあるので、こちらかもしれません。お陰様で昔を思い出しました。楽しませていただきました。ありがとうございます。\(^o^)/
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