山形小姓町遊郭(山形県山形市)&おまけの私娼窟|遊郭・赤線跡をゆく|

山形小姓町遊郭東北地方の遊郭・赤線跡
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山形の遊郭

遊郭赤線

山形県山形市。ここにはかつて、「西の岐阜、東の山形」とその名を知られた遊里が存在していました。その場所は小姓町

小姓町の歴史は古く、名のとおり、最上氏時代に小姓衆が配置されていたことが由来とされ、江戸時代初期の地図にも表記されている、400年の歴史を誇る町名です。山形にはほかにも、「旅籠町」や「鉄砲町」など歴史と地理の深い関係を思わせる地名が多く残っています。
18世紀後半の1767年(明和4)、当時の山形藩主であった秋元久ともが衰退する藩の活性化を図るために、実際は町中に点在した売春業者の集約化でしょう、藩士はOFF LIMITS(立入禁止)という条件で遊郭を設置することを認めました。まあ、それも形骸化して入り浸った藩士も多かったのは書くまでもありません。

そして時代は明治へ。遊郭は人身売買であると明治5年(1872)にいったん廃止となりますが、これもほんの建前で、「どうしても食えない人のためのやむを得ない措置」として「貸座敷免許地」としての遊郭が復活します。
また、町中1に点在していた女郎屋を公娼として容認する代わりに、小姓町に強制移転させたのが明治17年(1884)のこと。遊郭としての歴史は江戸時代からあったものの、一般的に小姓町遊郭元年と認識されているのはこの年となっています。
明治27年(1894)5月26日、遊郭近くの蝋燭町(現在の十日町2丁目)から出火した火事が強風にあおられ遊郭にも引火、遊郭は全焼しました。が、その後作り直しの形で再生し復活。山形に陸軍歩兵第三十二聯隊が置かれたのも追い風となり、明治末期には「西の岐阜 東の山形」と呼ばれるほどの歓楽街に発展します

明治期山形小姓町妓楼配置図

上の地図は史料を元に作成した明治末期頃の妓楼配置図です。
この中で「野々村楼」の記録が断片的に残っています。野々村楼は七日町にあった「四山楼」という料亭の支店で、本店の「四山楼」の名付け親はここを訪れた伊藤博文。本店で飲み食いしてもらい、二次会は支店の遊郭へ…という流れで、本店支店で芸妓・娼妓がそれぞれ十数人いたそうです。
さらに、野々村楼の娼妓は京都から引き抜いたいわゆる花魁だったと言われ、小姓町遊郭でも高級中の高級店でした。
なお、本店は料亭「のの村」として戦前戦後を通して営業していましたが、2016年に惜しくも閉店となりました。

大正時代に入っても、第一次大戦の好景気もあいまって順調な発展をみせます。

山形の小姓町は、東北地方でも有名な大遊廓で、当時の政客や実業家の社交場であり、もっとも盛んな大正時代には、三十数軒の業者が軒を連ねて不夜城の賑わいを見せた。

後藤嘉一(郷土史家)『著作集 第4巻』より

小姓町は、資料を紐解くとたいそう栄えたと言います。山形県一、いや東北一だと書いている書物もありますが、大正期の統計書の数字だけを見てみると、貸座敷や娼妓数は商業都市である酒田遊郭もなかなかのもの。
ところが、売上は小姓町がぶっちぎりの1位。要は小性町の遊客の一人当たり消費額が高いということで、それだけ小姓町が栄えていた間接的な証拠です。

籠の鳥である娼妓は遊郭から出ることは許されません。外出が許されるのは月1回、決められた映画館で活動写真を見に行くのと、廓内の稲荷神社にお参りするくらい。それも、牛太郎と呼ばれた監視役が2人以上、必ず付き添いについていました。
しかし、遊郭の前に「稻舟」という鰻屋があり、そこだけは客と一緒に食事することが許されていました。その「稻舟」には裏口があり、裏道で心通じ合った男と女がこっそり会うことが許されていました。
ある村で恋仲だった男女がいました。女は貧困から遊郭に売られ、男性は20歳になり徴兵で第三十二聯隊へ。兵隊に支給される俸給など雀の涙以下で、同じ農村の兵士は籠の鳥の彼女に会いたくても会えぬ日々。しかし、この「裏口入廓にゅうかく」で男女は秘かに会い、いつか一緒になろうと。牛太郎も見て見ぬフリ、鬼の目にも涙、という話が山形に残っています。
また、大門や稲舟の前で兵隊と遊女が別れを惜しむような光景がよく見られました。遊客なら登楼すればいいのにと思ったそうですが、今考えたらおそらく出征前に最後の別れに来た兄か弟だったのだろうと。

そして時代は昭和へ。

昭和初期山形小姓町貸座敷配置図

資料から作成した当時の小姓町遊郭の妓楼配置図ですが、これらのうち数軒は昭和に入ってすぐに廃業しています。それはまた後述します。

合計24軒ある妓楼の中に、「花村楼」という名前が見えます。

山形小性町遊郭花村楼

当時の絵葉書に見える「花村楼」の正面。一流の貸座敷は人力車夫、今風に言えばハイヤーと運転手を自前で抱えていたそうですが、「花村楼」は一流の部類に入っていた大店だということは、この絵葉書一枚を見て納得がいきます。

山形小性町遊郭花村楼

同じ「花村楼」ですが、正面の絵葉書には「三階」と書いているものの、この絵葉書には「四階」と書かれています。正面から見たら三階(建て)だが、実は四階建てということでしょう。
3階建てでも珍しかった当時としては、四階建ては山形でも3つともない「木の摩天楼」。まるで城のように見えたことことでしょう。こんな妓楼が大通りの両側にずらりと並んでいたと推測したら、「東の山形」と呼ばれたその豪華さが連想できます。

ネエサン

小性町は確かに遊郭ではありましたが、そこの住人イコール廓の関係者ではなく、一般の人もふつうに住んでいました。子どもも例外ではなく、小性町で生まれ子供時分から遊郭を見て育った方の詳細な回想録が残っています。

子どもたちは遊女のことを「ネエサン」と呼んでいました。親からそう呼びなさいと教わったそうです。故郷に残した弟妹たちと重なるのか、「ネエサン」たちはとても優しくかわいがり、一緒に遊んでくれたりアイスクリームを買ってくれたりもしたそうです。
また、「ネエサン」が風船をくれたこともありました。が、やけに長細いな…と思いつつ家に持って帰ると母親に怒られたそう。「風船」はコンドームだったのです。そういう悪戯もあったけれど、親には遊郭へ近寄るなとか、「ネエサン」と遊ぶなと言われたことは一度もないと。
小性町の娼妓は非常に明るく、楼主から非人間扱いされている様子もなかったといいます。回想主も大人になり他遊郭で虐待されたとか自殺したとかいう話を聞く度、小性町ではそんな記憶はなく(恋仲になった客と心中ならあったそう)、遊郭と言えば暗い、じめじめしたイメージがなく廓全体がおおらかだったと回想しています。

この方は、のちに観光で金沢の遊郭を訪ねたことがあったのですが、小性町に比べたらなんと妓楼の小さいことよ!と違う意味で驚き、山形の遊郭の大きさと豪華さを改めて認識したそうです。

が、遊郭・赤線跡をゆく左沢編でも述べましたが、山形の遊郭は昭和以降、急激に衰退していきます。

山形小姓町遊郭貸座敷娼妓数推移

数字を見るだけでも、遊郭の衰退ぶりが顕著に見て取れます。山形の経済力が衰退したのであれば、表の右側の花街の数字も一緒に減るはずなので、遊郭に何かあったのだと思われます。あまりの急激な衰退ぶりに、最初は統計書の数字の方が間違っているんじゃないかと思ったくらいですが、山形県の遊里全体の傾向なので間違いはないはず。
他道府県にないこの現象はなぜなのか。それはわかりません。

そして衰退したまま戦争に突入、商売どころではなくなった遊郭ですが、資料によると終戦時にはほとんど営業していなかったそうです。

小姓町の戦後

そして戦争が終わり戦後に入るわけですが、山形にも進駐軍が来ることがわかり(終戦翌月には進駐)、つい先日まで鬼畜米英と吹き込まれ、その鬼畜がテッポウ抱えてやってくるということで山形は大騒ぎ。
山形県当局は日の出楼の楼主に相談し、日の出楼と、三楽という名になった旧花村楼の二つを再開させます。が、それは進駐軍用で日本人はオフ・リミッツ(立入禁止)。遊郭の再開は、山形の婦女子を鬼畜米英の魔の手に触れさせないためという名目でした。

しかし、それもすぐにGHQの命令で、進駐軍の方がオフ・リミッツとなります。どこでも同じように、性病が蔓延して兵士が軒並み戦闘不能に陥ったからでした。
そのどさくさに日本人向けの遊び場、つまり赤線が誕生しました。もっとも、遊郭が公娼の看板を外して復活しただけですけどね。
戦後に復活した旧貸座敷は、前述の二つの他、金萬・亀芳・銀嶺・萬亀・村田など計7つ。後述する「日の出楼」のように売春防止法施行確定と同時に足を洗ったところもありましたが、赤線時代の小姓町は概ね7軒で推移し、働く接待婦は30人ほどだったといいます。といっても、遊郭時代の100人とも200人とも言われた時代に比べれば、その規模3分の1以下でした。
山形県の赤線・青線は売春防止法完全施行開始の4月1日を待つことなく、県の指導で昭和33年3月20日で廃業届を出し赤い灯を消したのですが、当時の新聞によると最後まで営業していた遊里の一つが小姓町だったそうです。
赤い灯が消えた直後の風景を、又聞きながらこう記しています。

そのころ学生で小姓町に下宿していた人が、廃業した娼婦が置いていった家財道具が道ばたに積まれ、春画やエロ写真が散乱していた光景を覚えているという。

『やまがたキャバレー時代』

その後の小姓町は、伝説の大キャバレーの出現もあって飲み屋街として山形小姓町ありと東北に名を轟かせるのですが、それはまた後で。
とにかく、明治から続いた遊郭としての歴史は、ここで幕を閉じることとなりました。

NEXT⇒現在の小姓町を歩く
  1. 五日町や旅篭町、横町、円応寺町、鉄砲町など
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コメント

  1. 定マニア より:

    あと、鶴岡市の鶴岡遊廓も。鶴岡遊廓にいた遊女と鉄門海僧侶の話は泣けます?マガジンファイブ、とみ新蔵作「鉄門海上人伝〜愛朽つるとも」を参考までに。

  2. 佐藤光康 より:

    貴重な研究拝見しました。
    私は、旧制山形高等学校の社会科学研究会(社研)を調べています。
    亀井勝一郎なども参加していました。
    彼らは合宿をしながら、研究活動をしていたのですが、
    その場所が花村楼の別荘(諏訪神社の傍)だということがわかっています。
    小姓町に花村楼の貴重な写真がありました。

    別荘について、場所、当時の様子など、もしわかることがありましたら、教えていただけましたら幸いです。山高の生徒たちが使っていたのは、大正から昭和に移るころの短い期間ですが。
    宜しくお願い致します。

    • 米澤光司 より:

      >佐藤光康様

      はじめまして。拙ブログをご覧いただきありがとうございます。
      別荘についてですが、資料をひととおり見直してみましたが、それらしき記述はありませんでした。
      お力になれず残念ですが、また何かわかりましたらお知らせさせていただきます。

      • 佐藤光康 より:

        お忙しいところ、ありがとうございました。
        今日、小姓町を米澤さんのブログを思い出しながら歩いてみました。
        全く違った風景が見えました。
        私は高校の教員をしていましたが、米澤さんの研究に脱帽です。
        これだけ丹念に、調べ上げる力、何と素晴らしいことか。
        今後もご指導をよろしくお願い致します。

  3. S より:

    はじめまして。
    昭和48年に、小姓町に隣接する山形県山形市諏訪町1丁目2−25(取り壊した後、隣の仁藤豆腐店が土地を購入、豆腐店も今はなくなり大きなビルが出来ていました) だと思うのですが、元遊郭の建物と思われるアパートに、大学受験の予備校に行くために数ヶ月住みました。一階は大家さんの住居なので入ったことはありませんが、二階は、四畳半くらいの個室が左右に並んでいました。大通りに面した部屋だけは、広い部屋でした。その部屋には、小国町から出てきた三姉妹が住んでいました。作っていただいた地図で、これも入っているのかこれから確かめてみます。写真を撮っておけばよかったのに、浪人生でしたから、カメラはありませんでした。(;_;)

  4. S より:

    地図をみて、品川楼ではないかと判断しました。このあたりでした。

  5. S より:

    http://snack-ran.blog.jp/archives/1021841914.html
    を見ると、品川楼の隣に、一力楼もあります。一力、なんか聞いたような響きがあるので、こちらかもしれません。お陰様で昔を思い出しました。楽しませていただきました。ありがとうございます。\(^o^)/

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