岩手県の遠野。遠野と聞くと、柳田国男の『遠野物語』でお馴染みの民俗学・民話の故郷をイメージする人が多いかもしれません。また、「河童」や「ざしきわらし」などの妖怪をイメージする人もいると思います。
「遠野」の名は、アイヌ語の「トーヌップ」が由来です。直訳すると「湖の丘」。「日本の原風景」と称される遠野ですが、「湖の丘」には日本を越えて北欧のゲルマン伝説の香りが漂います。『遠野物語』にも、
「遠野郷の地大昔はすべて一円の湖なりしに、其水猿が石川となりて人界に流れ出しより、自然にかくの如き邑落をなせしなり」
とあり、自然地理学・地質学的にも数万年前には湖だったことは確定とのことです。
今回は、民俗学や民話好きにとっては聖地とも言える遠野の遊郭のお話。
遠野の遊郭
そもそも遠野は江戸時代、遠野南部藩15,000石の城下町として隆盛を極めていました。
言っちゃあ悪いが、鉄道がある現在でも行くのが一苦労なこの地に城下町が設置され人が集まったのかというと。
釜石や大船渡、仙台藩領だった気仙沼など三陸海岸沿いの町からは海産物、盛岡や花巻など内陸からは米や醤油・鉱物などがぶつかる中継地点であり、そこからの街道も交わる交通の要衝だったからなのです。今では鉄道や車で釜石や宮古まで日帰りですが、昔は遠野で一休みという人が多かったのです。
そんな人・金・モノが集まる町に遊里ができないわけがない。
元禄の頃にはすでに出合茶屋があったとされ、天保年間の頃には昼でも客引きしていたほどの遊女屋が存在していたと伝えられています。遠野に来る人は、商人も旅人も必ずここで一休みし泊まりとなります。そうなると遊女屋で女のぬくもりを味わいながら一泊…となるのがオスの本能。遠野の遊里が非常に繁盛したと1。
江戸の南部藩時代には、盛岡・宮古、そして遠野が「三大遊郭」だったと伝えられています。
そして明治と時代が変わっても、遠野遊郭は繁盛を続けます。
明治初期にも大慈寺前などの門前に、茶屋という名目の遊女屋が8軒存在していたと市史には書かれています。明治10年(1877)には、岩手県が布告した貸座敷娼妓取締規則第二条により遠野は貸座敷免許地、近代法制下での遊郭として認められました。
ところが、明治11年(1878)の火事で裏町(現在の中央通り)が焼けてしまい、同18年(1885)に茶屋をここに集約。遠野の遊郭は事実上これにて始まりとされています。
上述したとおり、遠野遊郭の貸座敷は茶屋として営業しており、当時存在していた茶屋は以下の通り。
これに後年、紫明館が加わり9軒となりました。
この数字は、統計書の数字にもだいたい一致し、明治23年(1890)の遠野遊郭の貸座敷の数は8軒となっています。それ以降はところどころ虫食いのようなデータなしが存在しているのでなんとも言えないですが、だいたい6~8軒で推移しています。
遊女の数も、市史には『百人を超えた』と表記していますが、統計書の数字では2~30人を行ったり来たり。統計書の数字の方が正しいと思われます。
ところで、柳田国男が編纂した『遠野物語』の続編と言えるには、以下のことが書かれています。
遊ぶ人 綽名と屋号
二五二 青笹村の関口に、毎日毎日遠野の裏町に通って遊ぶ人があった。その遊女屋の名が三光楼であった故に、土地の者は此人をも三光楼と呼ぶやうになったが、しまひには其が家号になって、今でも其家をさう謂うて居る。引用:『遠野物語拾遺』
引用:『遠野物語拾遺』
遠野の遊郭について書かれた数少ない文章ですが、問題は三光楼という貸座敷は存在したことがないということ。おそらく「三階楼」と呼ばれた恵比寿楼をもじって「三光楼」と呼んだのではないかと、拾遺の注釈には添えられています。
ここで話を少し脱線します。
今回私が、宮城県からでもかなり遠く感じる遠野へやって来た理由は、遊郭探しではありません。
遠野が生んだ偉人伊能嘉矩の足跡をたどり、資料を集めにやってきたからなのです。
伊能は「日本初の台湾研究家」「世界で初めて台湾を科学的に調査した人」であり、『台湾志』という史上初の台湾通史も作成した人物で、台湾史を語るには絶対に避けて通れない人物です。
彼はまた遠野の郷土史家としての功績も大で、『遠野物語』の編纂にも間接的にかかわっています。『遠野物語』の語り部佐々木喜善にとっては郷土の大先生のような存在、柳田国男が遠野に来た時には、すでに伊能は遠野の大先生。柳田はいの一番に伊能のもとへ挨拶に訪れ、民話収集の協力を要請したほどの存在でした。
そんな伊能は貴重な遠野史コレクションを遺していますが、その一つにこんなものがありました。
伊能は歴史資料として昔の遠野の新聞コレクションも現代に遺してくれたのですが、その一部に当時の貸座敷の広告が残っていました。福田楼…明治の貸座敷に記載がある妓楼の一つです。
遠野の遊郭の優先順位は低く。そもそもブログに書くつもりもありませんでした。
が、台湾史の勉強に来たつもりが伊能と遊郭がぶつかってしまい、これはおもろいことになってきたと優先順位が一気にアップ。台湾と遊里史という知の原子核どうしが衝突し、脳内で核融合が起こったかのような衝撃を感じました。
閑話休題。
そんな遠野の遊里も、時代を経るにつれ徐々に衰退していることが、統計書の数字を追っていくとわかります。
数字としての遠野遊郭のピークは、19世紀から20世紀に時代が移行した明治30年代。貸座敷の数も7~8軒、娼妓数も40人以上を数えていました。
そして大正時代、貸座敷や娼妓の数は減るものの、売上や遊客数は大正前期、特に第一次世界大戦による「戦争バブル」の時期に遊郭は大きな光を放ちます。隣…とは言いがたいけれど、近くの花巻遊郭もこの時期がピークとなっています。
遊郭だけではなく、遠野自体がよほど光景に湧いたのだろうと、容易に予測できます。
しかし、そのバブルの夢がはじけ、一転戦後恐慌に陥ると、数字は坂道を転げ落ちるように下降線を辿ります。
関東大震災という不幸も続き日本経済が慢性的な不調に陥ると、遠野遊郭の売上はバブル時代の半分に落ち込みます。遊客数に至っては3~4分の1と、不況の津波を大いにかぶってしまったようです。
そして昭和へ。昭和は上記の慢性的な不況から始まり、さらに金融恐慌で泣きっ面に蜂のようなどん底の時代を迎えます。
この経済状態自体は、犬養毅内閣の蔵相、高橋是清による金融政策につき息を吹き返します。要は歴代内閣の金融・経済政策が間違っていたのですが、これにより日本は実質昭和7年(1932)末~12年(1937)まで、今風に言えば「神モード」に入ります。当時の平均経済成長率は約8%。昭和40年代の高度経済成長には叶わないものの、1980年代のバブルの平均5.6%をしのぐ好景気。軍部の暗い陰がーなどと言われていますが、それを吹き飛ばすほど、戦前日本が最後に輝いた時代でもあったのです。
ただ、この好景気、東北には全くの無縁でした。
東北では1930年の豊作すぎ米価大暴落から始まり、ここから大凶作や地震による津波など大きな苦難を味わうことになります。例えるならば、5年連続で東日本大震災がやってきたようなものです。
岩手県も、昭和9年(1934)の冷害の大凶作の影響を食らい、後世の歴史家が「壊滅」と言わしめたほどの被害をもたらしました。その中でも遠野がいちばんの被害を受け、米の収穫高は「実質ゼロ」とまでなってしまったと市史には記されています。
岩手県には国からの公的援助も入るものの、昭和12年に息を吹き返すまで「死亡」となりました。なお、翌年には再び冷害で青森県が「実質死亡」となり、終戦までその傷が癒えることがなかったと言います。
昭和初期の東北地方の困窮ぶりは、学校の歴史の授業でやったこともあってざっくりとは知っていたものの、具体的に深く調べてみるとその酷さは予想以上。
こりゃあかんわ…
資料を見ながらつぶやいてしまうほどの壊滅ぶりでした。
そんな中、遠野の遊郭はどうなったのか。
■貸座敷数3軒
■娼妓数:9名
■遊客数:2,695人
■売上:5,369円
(出典:『岩手県統計書』及び内務省警保局内部資料より)
翌年も、数字はほとんど変わりません。
残念ながら昭和7~9年の統計書が存在しないので(岩手県立図書館にはあると思うけど)、この間の数字はわかりません。
が、3年の空白が明けた昭和10年(1935)になると…
■貸座敷:1軒
■娼妓数:4名
■遊客数:537人
■売上:1,160円
(出典:『岩手県統計書』)
OMGとしか言葉が出ないほど、衰退著しい状態に。翌年からは娼妓数も1人だけとなり、これでは「実質死亡」と言っても過言ではありません。
そして、そのまま戦争へ。これ以後の数字としての記録は存在しません。
戦後の遊郭と現在
戦後に遠野遊郭がどうなったのか。赤線となったのか。それを物語るものは何もありません。
売春防止法完全施行がカウントダウンに入った頃、地元新聞に7回にわたり赤線の特集コラムが組まれました。岩手県の赤線地帯のリストもあるのですが、そこに遠野の名はありません。青線として生き残った可能性も考えられますが、少なくても赤線としては残らなかったことが、この新聞記事からわかります。
何かないのか〜手ぶらで帰るのはやだ〜!
という私のわがままを聞いてくれた遠野市立図書館・博物館のご尽力で、昭和29年(1954)の遠野市街地の手書き商業地図が発見されました。そこで遊郭があったとされる場所を、それこそ目を皿にして見てみました。
貸座敷が立ち並んでいたとされる通りには、お菓子屋や醤油屋、そして劇場に電話局など、遊里跡とは思えないふつうの通りと化しています。屋号も「○△菓子店」とごくふつうです。
が、その中に決定的な名前を発見してしまいました。
市史に記載されている「紫明館」の文字が!
もちろん、屋号そのままに転業済みの可能性もあるので、これだけで遠野に赤・青線があったという証拠にはなりません。
また、屋号からは何屋かさっぱり見当がつかぬ店も数軒捕捉。場所が場所だけになんか怪しい…。
残念ながらとどめとなる資料は見つからなかったのですが、これが見つかっただけでもラッキーとしておきましょう。
現在の遠野遊郭跡です。現在は仲町通りと呼ばれているところですが、その西半分はかつては裏町という町名で、そこに貸座敷だけでなく、芸妓の置屋・料亭が集まっていました。遠野遊郭は、全国的には小規模でしたが、花街と融合した「複合型遊里」だったことが、市史などの資料から垣間見えます。
他の遊里跡の例に漏れず、遠野も遊里があったという面影は何もありません。往時をしのばせる建物もなく、観光地化された広い道だけが、ここの両端に妓楼が並んでたんだろうなと想像させるにすぎません。
『遠野物語』に記されたごくわずかな紙片を残し、遠野遊郭は現在も歴史の地層の中に埋もれて静かな眠りについています。
岩手県の他の話はこちらをどうぞ!
・『遠野物語拾遺』 二五二 柳田国男著
・『遠野物語研究 第六号』
・
コメント
[…] 遠野遊郭(岩手県遠野市)|おいらんだ国酔夢譚 裏町遊郭 – 「じぇんごたれ」遠野徒然草 遠野(遠野遊廓跡地)現在、仲町と呼ばれているあたりが、「裏町」でした […]