下関の遊郭たち
下関は、平安時代末期~鎌倉時代初期の源平合戦のエンディング、「壇ノ浦の戦い」の舞台でもあり、古くから陸の・海の交通の交差点として栄えました。
江戸時代には日本海沿いの街を回って大阪へ至る「北前船」が通る船のターミナル、下関を通らないと瀬戸内海や太平洋に入ることはできず、ほとんどの船は下関で一休みとなります。
逆に、瀬戸内海から日本海へ向かう時も下関を通ることになります。人がここに集まるのは必然です。言わば「日本のボスポラス海峡」と言える所でもあります。ボスポラス海峡とは、トルコのイスタンブールにある、アジアとヨーロッパを分ける海峡のことね。
時代が変わり明治時代になっても、船はもちろん鉄道も山陽鉄道(現在の山陽本線)が下関まで線路を伸ばしたことから、更に人・モノ・金が入ってくることになりました。
今でこそ関門海峡トンネルで鉄道がつながっていますが、開通までは東から来た列車は全部下関でいったん終点でした。
現在でも下関から韓国の釜山をつなぐ船がありますが、飛行機がない時代はヨーロッパまでは船か鉄道で行くしかありませんでした。
その昔、東京からフランスのパリまでの切符が買えたといいます。下関もユーラシア大陸へ向かう客が釜山行きの船に殺到し、ある人は大志を抱いて、またある人は日本を捨てるように、人様々な気持ちを抱きながら下関で一旦休止したことでしょう。下関は、数々の人間ドラマが詰まった国際都市だったのです。
下関がどれだけ栄えていたか。それは遊郭の数にも現れています。
下関にあった遊郭は、昭和5年(1930)発行の『全国遊廓案内』によると新地・裏町・豊前田の3ヶ所が記載されていますが、同時期に内務省警保局1調査によると、上記プラス5ヶ所のなんと8ヶ所。内2ヶ所は貸座敷免許地には指定されていても営業はしていない「幽霊遊郭」につき、実質6ヶ所となります。
また更に、工場地帯だったという彦島にも一時期、一時期は娼妓数140人を越えたという遊郭があったことが、下関市立図書館で史料漁っていたら明らかになったので、それを入れたら8ヶ所。一つの街にある遊廓の多さとしては、日本屈指ではないでしょうか。
遊廓もボランティアでやっているわけではありません。商売である以上、利益があがらないと死滅するのは必然です。
それだけ下関市民がエロい…のではなく、本州の東から、九州から、大陸から、そして船から様々な人が下関に集まり、モノも金も集まっていたという間接的な証左であります。つまり、大都市並に遊郭を増やしても成り立っていたというわけで。
そんな多すぎる下関の遊里を一気に書くのはさすがに無茶。こまめに分けていこうと思います。まず第一弾が、市内の北西にあった新地遊廓。
新地遊郭-下関最大の遊里
新地遊郭は、「新地」と名前がついとることからわかるように、何もなかった荒蕪地2を色街用に開拓したことから始まります。
下関の新地も例外ではなく、明治初期あたりは一面の沼地だったそうです。
ここがいつ開設されたのかは、はっきりとしたデータを持っておらず不明ですが、明治16(1883)年の『山口県統計書』の遊廓一覧には、既に新地遊郭の名前が掲載されています。
それによると、「貸席3軒、娼妓17人、芸妓4人」と、大正時代後期~昭和初期には娼妓・芸妓共に200人を超える下関有数の遊郭と化していることを考えると、この時は実にこじんまりとした所やったことが、数字を見るだけでもわかります。
明治30(1897)の『赤間関市統計書』は、「貸席数5軒、娼妓数12人、芸妓数1人」と、14年間ほとんど発展していません。
これが明治45&大正元年(1912)の『下関市統計書』になると、「貸席数31軒、娼妓数304人、芸妓数36人」と、15年前の数字が嘘のような大発展。15年を埋める史料がなくて一体新地遊郭に何があったのかはわかりません。が、これでわかることは、この間に新地遊郭は爆発的に発展したということ。
恐らく、日露戦争で大連・旅順が租借地になって満州への道が開かれ、更に明治43(1910)年の「日韓併合」などもあり、大陸への客足が急激に伸びて、大陸への玄関口である下関に人が集まった時代背景もあると推測しています。
大正後期のデータによると、
貸席数(軒) | 娼妓数(人) | 芸妓置屋数(軒) | 芸妓数(人) | |
大正11(1922) | 43 | 251 | 42 | 227 |
大正12 (1923) | 43 | 223 | 42 | 261 |
昭和5 (1930) | 32 | 83 | – | – |
(出典:『下関統計書』『内務省警保局内部資料』)
ある意味、ここあたりが新地遊郭の絶頂期やったと思います。
せやけど、この数字だけ見てもわからんことがあったりします。
『下関統計書』には「売上」「来客数」も書かれているのですが、それによると
大正11年 | 大正12年 | 増減 | |
来客数(人) | 35,422 | 34,291 | -1,151 |
売上(円) | 83,991 | 10,949 | -73,042 |
と、来客数は少し減少程度なのに、売上だけが前年比較で約8分の1。これは新地遊廓だけではなく、下関の遊廓すべてがこんな状態。さて、大正12年に一体何があったのか?
大正12年といえば、9月に関東大震災が起こった年です。これについては説明は不要でしょう。
東京の地震で何で下関が?と思うでしょうが、狭い視野で見ると重要なことを見落とすことになります。
推定ながら、東京が壊滅し海運などの流通が麻痺し、財布のひもが固くなったんはもちろん、東日本大震災の時みたいに「自粛ムード」が全国的に起こったのかもしれません。
この「大正12年売上ダウン現象」は、大阪や神戸でも減り幅は下関程ではないものの、同じ現象が見受けられます。
大阪の遊廓を例にすると、
大正11年売上 | 大正12年売上 | 増減 | |
五花街遊郭 | ¥7,087,094 | ¥6,257,248 | -¥829,846 |
枚方櫻町遊郭 | ¥818,256 | ¥313,140 | -¥505,116 |
貝塚遊郭 | ¥519,683 | ¥313,140 | -¥206,543 |
この期間に売上が増えていたのは、飛田と栄橋(堺市)だけでした。
枚方と貝塚に至っては、客数は微増しているのに売上はボロボロ。客単価は激減→客の財布のヒモがかなりキツくなっていたことがわかります。
これらの数字は、大正13年(1924)には概ね元に戻っているので、やはり関東大震災が経済的に及ぼした影響は全国レベルではないかと推測できます。
下関は交通の要所でもあると同時に、軍事的にも重要な所なのは書くまでもありません。当然、そのせいで先の戦争でアメリカ軍の空襲の対象になるのは必然。
空襲により下関の遊廓は跡形もなく焼けてしまったのですが、新地遊郭は郊外にあったせいか、唯一空襲を免れて焼け残った遊郭でした。
そのせいか、新地遊郭は戦後も営業を停止することなく営業し、周りに映画館なども出来た歓楽地になったそうです。それで客足の相乗効果が出たのか、赤線時代は駅前という絶対的な地理的条件を備えた豊前田遊郭以上に栄えたそうです。
そんな赤線時代の新地を、『全国女性街ガイド』は簡単にこう説明しています。
銭稼ぎで有名な林兼本店の近くにある新地で七十五軒に二百十名、洲崎型の小店が多い。
引用:『全国女性街ガイド』
実に簡単ですが、これ以上の説明は特になし。わかるのは数字だけ見るとけっこう栄えていたというてことかな。
ちなみに、ここに書いている「林兼本店」とは、おそらく林兼産業のことと思うのですが、ホームページを見てみると今の本社は新地遊郭があった場所とは全く別の場所にあるので、昔の本社はここあたりにあったのかもしれません。
もちろん、ここも売防法施行で廃止になるのですが、良い意味で都市開発から取り残されたせいか、私が訪問した10年前には赤線時代をしのばせる建物がいっぱい残っていました。
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