稲荷町・裏町遊郭を歩く
下関のホテルは、すでにあるホテル一点に絞っていました。それがここ↓
東京第一ホテル下関ですが、見た目はただのホテル。しかし、今回のシリーズと大いに関係があるどころか、ここそのものがキーワードなのです。
このホテルは稲荷町・裏町遊郭の中心地にあり、その昔「大坂屋」という大妓楼があった場所でもあります。
「大坂屋」は江戸時代からあった全国的に有名な妓楼で、当主は代々木村太良右衛門を名乗り、木造3階建ての当時としては超高層建築の摩天楼な建物は、江戸時代はここまで海が迫っていたせいか、非常に目立つ建物でした。
また、300人が収容できる歌舞伎の舞台も中にあったらしく、舞台は江戸の湯島芝居よりも広かったと、長久保玄珠は『長崎紀行』(明和年間)に記しています。
大坂屋自体は近代になり、いつかは定かではないものの、廃業したそうです。が、その「木の摩天楼」は丘の上にずっとそびえ立っていたそうです。第二次大戦の空襲で焼け落ちるまでは…。
「大坂屋」が歴史に名を残したのは、もちろん稲荷遊郭きっての大妓楼だったのもありますが、幕末の動乱の時代に、伊藤博文、高杉晋作、坂本龍馬などの維新の志士たちが常連としてここで遊び、外国列強に対して日本をどうするべきか語り合った政治談議の場所でもあったからです。幕末・維新好きな人にとっての聖地でもあり、東京第一ホテル下関に宿泊することがそのまま聖地巡礼になると。
中岡慎太郎は慶応元年(1865)1月9日に大坂屋に宿泊したと日記に記し、慶応3年(1867)に坂本龍馬が伊藤博文と大坂屋で密談をしたと記録にあります。
また、高杉晋作の愛人”おうの”は、大坂屋の三味線芸者でもありました。
女好きの癖さえなければ100%だったのに…
と司馬遼太郎に評された伊藤博文は、血気盛んな頃にここ大坂屋で豪快に女遊び。倒幕資金を散在し、桂小五郎か高杉かに怒られたことがあるそうな。
そして明治に。総理大臣になって栄華を極めた伊藤博文は、懐かしさからフラっと、アポなしで「大坂屋」に立ち寄りました。
若い時にやんちゃした時の場所って、何故か年を取ると懐かしくなるもの。伊藤もそんな若い時の思い出が詰まった大坂屋を見て、はるか昔のあの時が恋しくなったのかもしれません。目はたぶん志士時代のあれに戻っていたかも。
しかし、大坂屋のスタッフはその老人を伊藤博文とは思わず、冷やかしと思った店のスタッフに塩対応されることに。少しセンチな気分になった(?)伊藤博文は怒らず黙ってその場を立ち去り、視察先の満州へと向かいました。
そしてその数日後、ハルピンで暗殺されてしまいます。
「大坂屋」にふと現れたのも、何かの知らせだったのかもしれない…なんて考えるのも歴史のロマンの一つであります。
幕末のゴタゴタした時期に、歴史に名を残した数々の偉人が訪れた大坂屋も、前述のとおり、先の戦争の空襲で跡形もなく焼けてしまいます。戦争がなかったら、もしかしてまだその建物が残ってたかもしれないなと思うと、嗚呼もったいない。戦争のバカヤロー。
すでに書いたとおり、東京第一ホテル下関は昔の稲荷町・裏町遊廓の敷地内にあるのですが、このホテルの裏側には「末廣稲荷神社」なるものがあります。
大同4年(809)に建てられたとされる、下関で最も古い神社だそうです。なんとなくお察しのとおり、稲荷町遊郭の「稲荷」はこの末廣稲荷神社のことであります。
戦前までは、この神社の門前や周りに妓楼などの建物が並んでたそうなのですが、遊郭も神社も戦争で焼け今は…
ホテルの上から稲荷神社を眺めても、全く何の面影もなさそうです…。しかしながら、これは全くの予想内。ホテルの部屋に荷物を置き、すぐにホテルの裏、というかかほとんどホテル敷地内同然の稲荷神社に足を運んでみました。
ここがどうやら神社の入口らしい!?右側の建物がホテルですが、やはり「ほとんど敷地内」みたいな感じでした。その入口かホテルの敷地に入るのか、よくわからないような道を奥へ進むと。
着きました、境内へ。
この稲荷神社、今はこじんまりとした敷地です。が、空襲で焼ける前の敷地は今より全く広かったらしく、境内には「お稲荷さんの桜」と呼ばれた桜並木があったそうです。もちろん、戦争で跡形もなく焼き払われ、現在は何も残っていません。
神社自体は昭和28年(1953)に再建されましたが、今の社殿は昭和60年(1985)に建てなおされたものだそうな。どうりでやけに新しいはずや。
で、戦争で焼けたといっても、何か稲荷遊郭の面影があるかもしれません。
そこで真っ先に調べるんが玉垣。昔々に妓楼が寄進した玉垣が残っていることがあり、それが遊里に関するわずかな手がかりになったりもします。
ここの玉垣の文字は、長年の風月で(?)ほぼ判別不能になってしまいました。古そうな玉垣は数多くあったものの、、明らかに判別できたのは、
「万月樓(楼)」
と書かれたこれくらいでした。
他のサイト見ると、江戸時代の「上臈」さんの名前が書かれた玉垣があるそうですが、未熟者の私には発見できませんでした。
末廣稲荷神社を違う角度から写した写真です。神社の下は今は駐車場になっています。
しかしながら、このレンガの古さといい、神社から駐車場までがボロボロになりつつも「道」になっているような気がします。おそらくですが、戦争で焼ける前はここも境内だったのではないか。
現在の稲荷町・裏町はこんな風に。下関市立図書館で見た資料によると、前述のとおり遊郭周辺は綺麗サッパリ焼失した上に、戦後に大幅に区画整理されたそうです。
戦後数十年経ってから、かつて稲荷町遊郭の常連だったという古老に今の地図を見せ、
「どこからが稲荷町でどこあたりが裏町でした?」
と聞いたところ、あまりに道が変わり果ててしまったせいでさっぱりわからなかったそうです。
他の旧遊郭の例にあるように、戦争で更地になっても旧遊郭は戦後、赤線として復活しました。が、ここ稲荷町と裏町はどうやら戦後赤線になることはありませんでした。少なくても、稲荷町などに赤線があったって資料はなく、『全国女性街ガイド』にも下関は新地と豊前田しか載ってません。
平氏の落武者ならぬ「落女官」が春を売った伝説が残り、その末裔を名乗った遊郭は、伝説と共に爆弾によって破壊され、以後復活することはありませんでした。
市が作ったモニュメントが唯一、「ここあたりが稲荷町でした」ってことを指し示しています。
遊郭跡は良くも悪くも日本の歴史の一部分。それを「黒歴史」として消すのか、それとも「日本史の一部分」として残しておくのか、それは自由です。稲荷町や裏町遊郭は幕末の志士たちが常連として通った「表の日本史」の一部分でもあり、こうしてスポットライト浴びています。建物は全然ないにしろ、ここはちゃんと税金で(?)モニュメント作られている分、まだ幸せな方かもしれませんな。
ほとんどの遊郭跡は、自己主張もできないまま黒歴史として蓋をされ、地元の人にさえ忘れられてしまった所の方が多いので。
上のモニュメントにはよく見ると、昔の稲荷町・裏町の写真が埋め込まれています。
これを拡大すると!
これが稲荷町。
こっちが裏町。
まあ、特に目新しい建物もないので一回りしてホテルに戻るかと戻ってみると!
ホテルの壁にこんなんがありました。昭和15年(1940)から昭和19年(1944)頃のホテルの周囲の復元地図で、地図の左上あたりが当時の稲荷町になります。
稲荷町と思われる場所をアップすると。
画像右上あたりが末廣稲荷神社で、そこの前がもう稲荷町と裏町の遊郭でした。なるほど、平行に走る道界隈を「稲荷町」「裏町」と呼んでたんやなと。
建物の名前を一つずつ見てみると、遊郭の妓楼らしきものは数軒程度。ほとんどは芸者の置屋かふつうの商店のよう。今は区画が全く変わってしまっているので、復元地図は立派な貴重な歴史資料には間違いない。
で、これで本編は終わり。最後に一句で締めましょう。
桜花 廓の跡の 涙かな
下関の遊郭記事はこちらもありんす
コメント
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