性地巡礼−京口新地と旧大正楼
篠山遊郭、京口新地を訪ねる旅に行ってみましょう。
最初に京口新地へ行ったのは2007年。まだ筆者が遊郭・赤線跡調査兵団として駆け出しの頃でした。
その頃の写真を含め、2025年に18年ぶりに訪問した時の写真を含ませております。キャプチャーに「2007年撮影」と書かれていなければ、2025年撮影のものです。

「京口新地」の跡は、篠山の中心部、篠山城跡から南東の方向にあります。
昔の遊廓は、たいてい街の中心部ではなく郊外に作られたことが多いのですが、この「京口新地」の位置が当時の町外れという意味も持っています。


遊郭を仕切る水路が遊郭を囲んでいます。
遊廓は「廓」という文字を含みますが、これは「周りを(何かで)ぐるりと囲まれた場所」と言う意味。
意味合いからして、飛田新地の嘆きの壁のような壁や塀をイメージしますが、実際の遊郭(跡)はこんな水路で区切られていることが多いです。
この「京口新地」も、何か不自然な、田んぼに引く用水路でもなさそうな、明らかに人間が線を引いたような水路に囲まれた地域にあります。
「京口新地」自体はそれほどの大きさでもありません。大人の男が隅から隅まで歩いても、30分あれば十分な大きさです。
なので、お目当ての建物を見つけるのにも、時間がかかることはありませんでした。
大正楼跡は現在…
かつてここ京口新地を目指す人は、ある一点の元妓楼を目指していました。

これがお目当ての大正楼でした。
良くも悪くも地味な篠山の遊郭がクローズアップされたのは、「阿部定事件」で有名になった阿部定の影響を否定することはできません。

女が遊郭の娼妓になる理由は、元々貧困家庭だったり、親の事業の失敗など家の経済的都合なことが多い、というかほとんどです。
しかし、阿部定の家はどちらかというと裕福な方でした。が、なぜ苦海に身を落としたのか。
それはひとえに、お定本人が今でいうセックス依存症だったから。
彼女はは松島や飛田の「御園楼」、名古屋の中村遊郭など大遊郭の有名妓楼で働いていました。
が、元々持っているフェロモンが男を寄せ付ける上に、本人もかなり負けん気が強い性格で遊女仲間との折り合いが良くなく、流れに流れた結果、田舎の篠山まで流れ着きました。
大正楼は、その阿部定が身を寄せていた妓楼だったと伝えられています。
ここは「何しろ寒い冬の晩でも外へ出て、客を引っ張るような辛い勤めをしなければならない」(阿部定調書)ほど辛く、半年ほどで逃げ出してしまったようです。
が、セックス依存症の阿部定は男なしでは生きていけずカフェーの女給となり、やがてまたヤミの世界へと堕ちることになる…そんな女でした。
阿部定のことは『篠山町七十五年史』にもチラリと、
「一世を鳴り響かせた『お定事件』の主、阿部定も、ここ大正楼の娼妓であったのである」
『篠山町七十五年史』
と書かれています。
これは画像の角度が悪いのですが、意外と奥行きもある建物で、一発で「それ」とわかるもの。
しかしながら、車で4~5時間かけてはるばるやって来たお目当ての割には、撮った写真がこの1枚だけ。いつもならパシャパシャと何十枚も残すのに…。
かつてこの建物で数々の女性が泣いて笑って毎日を送ったと思うと、写真を撮る手も止まったのかもしれません。
なんて綺麗事を言ってますが、単に当時の自分が性地巡礼者として未熟だっただけです(笑
そんな大正楼も、私が訪問した2007年にはすでに主がおらず空家のまま放置されていましたが、2019年にお取り壊しに。

解体された後はしばらく更地でしたが、2025年10月時点でアパートが建っています(まだ未完成のようですが住人がすでに住んでいます)。

信じられないかもしれないですが、この写真、上記の2007年撮影とほぼ同じアングルです。
この変わりそう、あと10〜20年もすれば、おそらくここがかつて新地でも1〜2を争う妓楼、昭和史をざわつかせた一人の女性が住んでいたところだと知る人はいなくなるでしょう。
大正楼以外の建物
篠山遊郭跡には、


ある意味、「大正楼」よりインパクトがあったのはこの建物がこちら。
「大正楼」が和に対し、こちらは洋を強調したかのようなこの建物、周囲と溶け込んでいないところを見ると、おそらく赤線時代のカフェー建築っぽいものかなと。
昭和30年前後の赤線当時の業者名簿、それから20数年後の住宅地図を照合してみると、ここは「細見」という屋号の店であったことが判明。
大正初期と思われる京口新地の地図にも「細見楼」の文字があり、大正時代からの老舗だったことがわかります。

2007年撮影の写真を比べてみると、玄関ドアの取っ手や左側の装飾が脱落していたりなど、18年の年月を感じます。
まだまだ原型は保っているものの、確実に老いていっている感は否めません。
2007年当時から人が住んでいる気配はなかったのですが、1階と2階の間に板塀が張られたり、所々メンテはされているようです!?

改めてここを細かく見てみると、細部に装飾があって凝ってるな感があります。
しかし、このカタカナの「ハ」の形の装飾には、何の意味があるんだろうか?

玄関部分を玄関越しに撮影させてもらいましたが、中はまるで江戸川乱歩の小説に出てくる屋敷でした。
中は意外にも朽ち果てた感じもなく、画像にはないですが、ステンドグラスなどもそのまま残されているようで、保存状態は外観に比べたら非常に良い状態と言えると思います。
まだ修繕したら使えそうな家、金さえあったらリフォームして住んでみたい気分です。
…そんな金は18年経っても貯まる気配はありません(笑)

1階や内部は明らかに洋、カフェー建築のにおいさえ感じるこの建物、上を向いてみると2階部分は和。色街ならではのぼんぼりも残っていました。
2007年当時は、気づかなかったのか写真に撮っていません。こんなところを見チェックしていないとは、18年前の私はまだ甘ちゃんだった。

「細見」を水路外、裏から見てみました。
主を失ってだいぶ時が経つのか、荒れ具合は表よりひどいですね。

古びたテーブルが家の外に放置されていました。形からしてもしかして遊郭時代に使われていたものか!?と勝手に想像してはドキドキしています。
ところで、大正末期から昭和初期は天敵カフェーの隆盛や、因習に縛られオワコンとみなされた遊郭界、篠山とて例外ではなかったのは上述しました。

その打開策として、当時流行っていたダンスホールを妓楼内に作り、娼妓と踊るサービスを導入しようとした気配があります。
しかし、その申請はあえなく却下。
その後の展開は知りませんが、他の遊郭では大広間に蓄音機を持ち込んでそこで踊っていたという話もあるので、篠山でも同じだったのかもしれません。
だから、一部洋風に改造してダンスホールにしていた可能性もあります。「細見」に残るこれも、その備品かもしれない…なんて思うとボロボロのテーブルにも温度が生まれてきそうです。
京口新地を取り上げたブログは、この2軒でお腹いっぱいになるのか、はいこの2軒で終了!というのがほとんどです。
しかし、私のブログはそんなので終わりません。それだけのネタしかないなら、そもそも記事を書いていません(笑

「旧細見」の前の家、こちらも元妓楼で、遊郭時代は「喜楽楼」、赤線時代は「昭和」という屋号でした。明治時代の主と赤線時代の楼主の苗字が同じなので、同じ一族がやってたのでしょう。
「遊女屋に二代目なし」
遊郭時代を知る人から、こんな言葉を聞いたことがあります。
遊郭の貸座敷の経営者、俗に言う「遊女屋稼業」は賤業という後ろめたさをどこかで感じていたようで、子どもに継がせることはほとんどなかったそうです。
子どもには稼いだお金で上級の学校へ行かせ、「カタギ」の仕事に就いてもらい、遊女屋稼業は自分まで。その後は誰かに売り払うことが多かったと。
しかし、ここの主さんが遊女屋を始めたのはなんと明治42年(1909)8月。京口新地ができて1年後のほぼ創世記メンバーです。
しかも、売防法完全施行による赤線廃止まで残った中では最古参。つまり、この遊郭の始まりから最後まで見守っていたということ。おそらく「二代目なし」どころか三代目まで続いたのではないでしょうか。
しかし、ここも2025年訪問時には空地になっており、主の子孫どころか家すら残っておらず。
2007年訪問時は残ってたのは確定だっただけに(当然、写真なんか撮ってない)、18年前の己の調査能力の未熟さが悔やまれます。

そして、18年前の訪問時にもう一つ、見逃していたことがありました。それがこの丸窓。
ある家の側面にしれっと残っていたものですが、木造にこの丸窓はおしゃれです。
これも元妓楼で、赤線時代は「萬可」という屋号でした。遊郭時代は「可」ではなく「花」だったようです。

2007年訪問時には、こんな建物も残っていました。
大きさは「大正楼」より大きく、しかも門構えが立派。これは篠山一の大妓楼だったに違いない。
調べてみると、ここは赤線時代の「旭」という屋号の店で、遊郭時代は後に「楼」をつけて「旭楼」。
赤線時代の篠山の貸席組合こと赤線業者の会長だった人のお店で、しかも京口新地開廓から数年後の老舗。上記の「喜楽楼」に次ぐ古株メンバーです。
そりゃデカいはずやわ。
大正12年(1923)当時の電話帳2によると、ここの「篠山遊廓事務所」の名前で遊郭で唯一電話が敷かれており、名義はここの楼主の名前になっています。
おそらく、電話が敷かれていた唯一の貸座敷だったのでしょう。

家は奥行きもあり、正面だけでなく奥も広そうな感じでした。
おそらくですが、ここは勝手口ではなくお客が入る入口だったのではないかと推測しています。
ここも「大正楼」と同じ時期に解体されてしまった…と聞いたのですが、2018年前後に訪れた人のブログを見ても、この建物を写した人は大阪DEEP案内さん以外おらず。大正楼より大きいこの建物を他の人が、しかも全員が見逃すわけがない。
大阪DEEP案内さんの訪問が2012年、2013年訪問の古今東西舎さんのブログ記事を見ると触れていなかったので、その間に前後に解体されたのでしょう。
おまけ

私が篠山を再訪問したちょうどその時は、篠山名物「黒枝豆」の販売解禁日以降はじめての週末と重なりました。
篠山の道のあちこちに農家の簡易直売店ができており、けっこうなお客さんが来ていました。

黒枝豆(販売)解禁日だから高速のIC近くは車で激混みだから、(自転車で)近寄らないようにね
篠山口駅のレンタサイクルの人にそう言われたのですが、枝豆ごときでそんなに混むんか?とかなり疑っていました。
が!実際に行ってみると本当に渋滞していました(笑

恥ずかしながら、丹波の黒枝豆なんてこの日まで知らなかったのですが、関西ナンバー当たり前、名古屋岡山なんてまだまだ、なんと盛岡(!)ナンバーまである姿に、記念に買ってみるかと流行に乗ってみました。
そして帰宅後に早速茹でて食べてみると…これがめちゃ美味いのです!
これは「おかわり」したくなる美味さ。
このブログを書きながら、

遊郭じゃなくて枝豆買いにもう一回篠山行こうかな…
と迷っている自分がいます。
地元の人によると、「なくなり次第終了」とのことですが、たいてい11月の連休頃にはなくなるから、10月中に買いに来るのが吉とのこと。
興味ある方は、篠山へGO!(ただし10月ね)
※京口新地関連のものは青字、その他は色なしです。
新しいことがわかり次第随時追加、変更していきます。
■明治32(1899)年 町中心部の立町に篠山検番開設
■明治40(1907)年 歩兵第七十連隊、篠山に開設
■明治41(1908)年7月 篠山遊郭開設(妓楼1軒、娼妓7名)
■明治45(1912)末 妓楼10軒、娼妓数32名
■大正4(1915)年 篠山軽便鉄道開業(→昭和19年廃止)
■大正8(1919)末 妓楼11軒、娼妓数44名
■大正15(1926)年2月 遊廓廃止が議会に上がるが否決
■昭和4(1929)頃 妓楼2軒、娼妓数110名
■昭和7(1932)年頃 阿部定が篠山に娼妓として滞在
■昭和8(1933)年12月 遊廓を宝塚に移転する計画が上がるが許可されず
■昭和10(1935)年 娼妓総出の盆踊が行われたという
■昭和20(1945)年 敗戦
■昭和21(1946)年頃 赤線に移行か
■昭和30(1955)年 業者10軒、女性30名
■昭和33(1958)年1月 業者10軒、女性14人
■同年3月31日 売防法施行により解散・消滅
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