大阪の遊郭と聞いて、真っ先に思い浮かべる場所が二つあります。それが松島と飛田。
大阪、いや近代日本に君臨した遊郭界の木星と土星的存在であるこの二廓は、その巨大な重力によって大阪の歴史にも深く影響した巨大惑星であります。
貸座敷業、いわゆる遊女屋というのは、周囲から賤業と冷たい目で見られたため当事者にとっては黒歴史でもあります。全員ではないですが、過去の歴史を極力隠そうとします。私もカメラを向けたどころか、元妓楼を凝視しただけで怒鳴られた回数は数知れず。
滋賀県の某遊郭のように、遊里としての歴史を閉じる際に歴史の一部である文書を火の中に入れ、遊里であったことを永遠に消し去ろうとした所さえありました。図書館でその記述を見て、臭いものには蓋をするその行為に怒りを覚えたものです。
それとは逆に、遊里であった歴史を当事者の手でまとめ、文字として残そうと「歴史書」を作成したところがありました。それが今回のお題、松島です。
『松島新地誌』という本があります。昭和33年(1958)、売春防止法完全施行で松島新地1世紀の歴史が閉じられようとした時、組合の手によって発行された「公式歴史書」です。
遊里の歴史は県史や市史などに書かれていたり、元楼主などが個人で記したり文士がエッセイなどで書いたのは散在します。が、当事者の手によって記されたものは非常に珍しい。値段が書かれていないので、関係者向けに配られた非売品だと推定されます。
明治の誕生から昭和戦後の消滅までの、松島の歴史の一切が書かれているのですが、今回はこの本をベースに松島遊郭の歴史を書いていきたいと思います。
松島新地-遊郭としての歴史
松島の遊廓としての歴史は、江戸時代から存在した「モグリ遊里」の取締りと整理から始まります。
江戸時代には、上述の新町や堀江、難波新地など公許の遊里があったものの、世の常で他にもモグリ遊里があちこちに存在していました。看板こそ「うどん屋」「小料理店」「ぜんざい屋」など多種多様ですが、すべては陰で春を売っている妓楼もどき。驚くこともない、現在の飛田だって建前上は「料亭」なのだから。
こういったアングラ遊里は、度々お上によって禁止されて取り締まられたのですが、こういうものはいくら取り締まっても復活するのが世の常。ついにお上の方が音を上げて「黙認」となり、幕末まで営業を続けました。
そのうちの一つに、生玉馬場先町があります。今の上本町、生魂神社のすぐ横なのですが、約150年前に隠れ遊郭はなくなったはずなのに、今でもそこはきっちりラブホ街。血…いや地は争えないというのはこのことでしょうか。
そんな遊里も、明治初期のどさくさで禁止になったり、やっぱり許可になったり命令が二転三転した挙げ句、明治4年(1871)に改めて営業禁止のお触れが出た上で、松島への移転命令が発布されます。
既存の場所は、今後妓楼の増設はおろか女の数も増やすの禁止、でも松島新地内では自由に営業も出来る上に税金もしばらく免除、女性の数も増やして良い、というおいしいニンジンをぶら下げて大阪市内の遊里の整理に取り掛かります。
明治5(1872)年の『大阪新聞』によると、
「浪花の西方松島に新郭開け、旧冬廃せらるる遊里二十余カ所のもの共、追々ここに引移れり」
『大阪新聞』
とあり、松島に遊郭を集結させることによって各地にあった遊里を整理することに成功します。これが、事実上の松島遊郭の始まりです。
松島遊廓建設に携わった、とある意外な人物がいます。
大阪の民の活性化に尽力した五代友厚です。
連続テレビ小説でディーンフジオカ氏が演じたことで、「五代様」で一躍女子のハートをつかんだ人物ですが、上の写真を見てもキリっとした薩摩男児らしい端正な顔つきで、なかなかのイケメンです。
川口の外国人居留地住人(=外国人)の欲の処理のため、近くの地域(松島)を遊郭に選んだというのは五代本人。
当時は娯楽もなかったので、そういう処理を行う施設も必要だったのです。その旗振り役が五代でした、
世紀のイケメン様が遊郭を作った!
先日放送されたアニメ「鬼滅の刃 遊郭編」で、「遊廓」という文字に
遊郭けしからん!!!
と過剰反応していた自称フェミの方、さあイケメン五代様を叩いてみろ(笑
「松島」の由来
なぜ名前が「松島」か。
ここに遊郭を開くにあたり、木津川と尻無川の間にあった三角州に橋(新堀橋)を架け、北部の木津川町、寺島町、九条島町などの集落のうち、四町八反余りを遊郭の敷地としました1。
当時の松島には、樹齢三百年とも言われた松の木があり、島の先っぽにあったことから「松が鼻」と呼ばれていました。
そして、当時の地名の「寺島町」から一文字を取り「松島」という名前になったと言われています。
今でこそ、松島があった今の西区は大阪市内の中心部です。が、遊郭として開発された当時は昼間でも人を見ることがない所でした。遊里は「性欲のトイレ」として街の外れに作られるのが常道ですが、松島も最初は大阪の僻地of僻地に作られた遊里でした。
また、遊郭の南側は大正初期には埋め立てられて市電が走っていたので、ずっと陸続きかと思っていました。が、明治の地図で確認してみると、開設当初は南側も水路で島そのもの。川が娑婆と廓を分ける天然の境界線に…確かに遊郭を作るにはピッタリの場所でもあります。
(明治初期、出来たての松島遊郭。南から北方向の撮影)
人もロクに近付かない所に作られた松島の経営は、最初はかなり困難を極めたものでした。はじめは「新しいもの好き」の大阪人にウケたものの、交通の便の悪さもあってだんだんと客足が遠のき、その上私娼があちこちに復活して圧迫するばかり。
松島遊郭発展の起爆剤
そんな松島が転換期を迎えた出来事が、鹿児島で起こった西南戦争。
今なら鹿児島まで飛行機か新幹線であっという間(?)の距離ですが、当時は東京の軍隊が鹿児島まで行くには、1日2日では済まない超長距離日程でした。よって船で兵員を輸送することになるのですが、その集結地が大阪でした。
戦争に行けば生きて帰れる保証はありません。そんな兵隊は金離れが早く、「死ぬ前にせめて」と遊里に駆け込み松島は賑わうことに。
それは時代や国・民族を問いません。昭和の日中戦争~太平洋戦争の頃も、戦争に行く前に「男になろう」と兵隊や召集前の男子が大勢押し寄せ、『虎は千里を走る』→『武運長久』ということから『トラ(虎)』という名前がついた女性に人気が出たり、『怪我なし』→『毛がなし』とバイパンの女性の注文が多かったりしました。
今から見たら「アホか」と思うことでも、生きて帰れる保証が全くなかった時代のこと、彼らも本気だったのです。
また、ある遊女がある男に惚れ、最後とばかりに一晩過ごして「あるもの」ずっと持って彼の帰りを待っていました。
その「あるもの」とは使用済みコンドーム。乾いてカサカサになった彼の「あれ」が入った「もの」を袋に入れて肌身離さず、空襲も生き抜きずっと待ってたそうです。
しかし、彼はついに帰らなかったそうです。
遊女も女、恋をします。そして好きな男をずっと一途に待ってるいじらしさと悲しさが入り混じった、戦争さえなければ…という悲しいエピソードです。
西南戦争で息を吹き返した松島はその後、どんどん発展を遂げます。
「青楼500軒、娼妓4000人」と謳われたのが日清戦争が終わった19世紀末の話ですが、それはいささか誇張された数字で、『松島新地誌』によると実際の数はそれほどでもありませんでした。
ここで、戦前の松島遊郭の変化を数字で見ていきましょう。
大正~昭和にかけてが実際の松島遊廓の最盛期、その数と規模はかの吉原を凌ぐ勢いでした。この当時の、松島を除く全国の主な遊廓の娼妓数は、
貸座敷の数こそ吉原よりは少ないものの、その他はぶっちぎりのトップです。数字だけならダントツ日本一のスーパー遊郭。
それに輪をかけたのが、松島新地と川を挟んで直結していた商店街、「九条新道」の存在。遊廓で遊客はタダでさえ金離れが良いせいもあり、商店街も遊廓も共同体で大繁盛。人が集まるところに歓楽街あり、のちに映画館や劇場もつくられ「西の心斎橋」「第二の千日前」と呼ばれるほどの繁盛ぶりに。
ちなみに、今の「九条新道」は、地下鉄中央線と阪神高速が走る中央大通りで二つに分かれ、西九条方面は「キララ九条商店街」、旧松島遊郭方面は「ナインモール九条商店街」に分かれています。
史料から読み解く松島遊郭
松島遊廓がどういうものだったのか、二つの書物から引用してみます。
西区松島橋西詰より、西は梅本橋の東、北は松ヶ鼻より南は天神御旅所の横手の掘割までが松島遊廓の区域です。
此遊廓は、市内の遊郭の内で一番新しく(筆者註:当時飛田遊郭は存在していません)、維新後に開けたのですが、なかなかの繁盛を極め、(中略)貸座敷の数254軒、芸妓88人、娼妓は2657人、娼妓の数は各遊廓の内で此廓が第一です。
西区松島橋西詰より、西は梅本橋の東、北は松ヶ鼻より南は天神御旅所の横手の掘割までが松島遊廓の区域です。
此遊廓は、市内の遊郭の内で一番新しく(筆者註:当時飛田遊郭は存在していません)、維新後に開けたのですが、なかなかの繁盛を極め、(中略)貸座敷の数254軒、芸妓88人、娼妓は2657人、娼妓の数は各遊廓の内で此廓が第一です。貸座敷の内で、東京楼が第一位を占め、80余名の娼妓と数名の芸妓とを抱えてあって、芸娼妓とも和洋の両装をさせ、客の望みに応じて何処でも出すということです。 又家の大きい事は、大阪青楼の中で屈指だといふことと、又此楼では客の好みに依って、芸妓に舞台で伊勢の古市の音頭やうの舞を舞はせますが、前年案内者が頼れて、戯に筆を採りましたから、松島最寄の名所の案内かたがたお笑ひ草までに載せておきます。
『南海鉄道案内』(明治32(1899)年発行)より
「意気な三尺、尻垂れ結び、鼻歌プイプイ九条行き と、以ておぼろげながらこの廓のカラーをうかがうことができるであろう。
欧州戦(筆者註:第一次世界大戦)前夜からこの方面の急激な発展ぶりはすばらしいもので、松島から西へ九条通にかけた一帯の地は、第二の千日前と言われるほどの賑いであるが、夜桜で賑う廓は大阪ではここばかりだ。
が、家並は大小様々、新旧またとりどり、その間には小料理屋・飲食店・八百屋まで介在しているという具合で、混然また雑然、甚だしく花街としての美観を欠いている。
「意気な三尺、尻垂れ結び、鼻歌プイプイ九条行き と、以ておぼろげながらこの廓のカラーをうかがうことができるであろう。
欧州戦(筆者註:第一次世界大戦)前夜からこの方面の急激な発展ぶりはすばらしいもので、松島から西へ九条通にかけた一帯の地は、第二の千日前と言われるほどの賑いであるが、夜桜で賑う廓は大阪ではここばかりだ。が、家並は大小様々、新旧またとりどり、その間には小料理屋・飲食店・八百屋まで介在しているという具合で、混然また雑然、甚だしく花街としての美観を欠いている。
しかし、昭和2年12月末現在の統計によれば、大阪府下の娼妓数8,155人中、その4割をこの一廓で占めているという。府下随一はもちろん、おそらく日本第一の大遊郭である。 貸座敷 259軒 娼妓 3,701人 芸妓置屋8軒 芸妓133人。妓楼では第三円楼というのが、規模も大きく、格式も高く、それに美人が多いという評判で、まず廓一の妓楼と言われている」(筆者註:昭和8年の妓楼一覧には「第三円楼」なる妓楼の記載なし)。
(中略)
『全国花街めぐり』松川二郎編 昭和4年(1929)より
松島・飛田共に同一で、(筆者註:東京の遊郭のような)揚屋・引手茶屋の類はなく、直接貸座敷へ登楼し、芸妓もそこへ呼んで遊ぶのである。妓夫はすべて年増の女が勤めている。
ここで興味深い記述は、『全国花街めぐり』の最後の、赤字にした部分。
妓夫または妓夫太郎とは、店の前に立ち客寄せをする遊郭スタッフのこと。関東では「牛太郎」とも呼ばれ、遊郭をリアルで知る最後の生き証人だった桂歌丸師匠は、落語のまくらでそう呼んでいました。
吉原や洲崎など関東は、「太郎」と付いているように男の仕事です。が、松島じゃ女がやっている。よく考えると、吉原ソープランドの客引きは全員男でしたが、関西の「現役」はほぼ女。これにも東西の違いがあるのだろうか?大阪の遊里の伝統を引き継いでいるのだろうか?
ちなみに、松島は不明ですが吉原や洲崎の妓夫には細かいランクがあり、熟練した「妓夫太郎」になると歩合給込みで月給80~120円だった人もいました。当時の東大法学部卒の高級官僚の初任給が100円、学歴不問の職種にしてはかなりの高級取りなことがわかります。
コメント