水戸の花街物語 Episode 1 奈良屋町(茨城県水戸市)|おいらんだ国酔夢譚|

水戸の遊郭赤線奈良屋町東京・関東地方の遊郭赤線跡
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奈良屋町を歩く

水戸の遊郭赤線だった奈良屋町

江戸時代から存在した奈良屋町の名前は、残念ながら現存しておらず、現在は宮町2丁目及び3丁目の一部となっています。戦前までは存在していたようですが、昭和40年代の地図を見ると宮町になっていたので、戦後の住居表示の変更で変わったようです。
上を見上げないとわからない電柱の表示が、かつてここが奈良屋町だったことを静かに語っています。

水戸市の赤線跡宮町

色が少し濃い部分は標高が高い部分となっていますが、「宮町」と書かれた部分が窪地になっています。ここがかつての奈良屋町である私娼窟・赤線地区。
ブラタモリ的に見てみると、なんだかすごくわかりやすい立地です。

遊郭・赤線跡をたどる際のバイブル、『赤線跡を歩く』には水戸も掲載されています。

水戸の赤線跡に建つまりも

「まりも」と書かれた廃屋。元赤線の店だったかは不明。
赤線廃止後の住宅地図のパターンを見てみると、元赤線は大きく分けて「旅館」「酒」に転業しています。
「酒」とは飲み屋と思われますが、この「まりも」は後者のパターン。状況証拠しかないものの、おそらくクロだと思われ。

「まりも」だけに藻ならぬ草で覆われるとその名に恥じぬ風貌になるのですが、この調子だとそうなる前に家の方が朽ちそうですな。

水戸奈良屋町の私娼窟・赤線跡。

戦前の私娼窟時代、この路地にも「料理屋」がたくさん並んでいました。今は見る影もありません。

2006年に訪問した方のブログによると、この写真手前の左右に、いかにもという赤線時代の建物が建っていました。
往時の雰囲気が残っていそうなたたずまいで、この時に来たかったなと少し悔しさが。

水戸宮町の遊郭赤線跡

奈良屋町に残る小料理屋。昔の私娼窟の「小料理屋」もこんな感じだったのだろうか。
赤線廃止後に残る地図でも同名で記載されているので、こちらも建物自体は赤線時代のものと思われます。

この店も無人となっているだろう…いや違うぞ。私の嗅覚がこの家の「人の気配」を察していました。換気扇から料理のにおいがするのです。しかも、けっこう良い煮物のにおい…。
もしかして、ここ現役の小料理屋?
私のボルテージはだんだんと上昇、夜に再訪してみることにしました。

水戸奈良屋町の私娼窟・赤線跡。

どうやら暖簾がないので営業はしていないようですが、玄関から覗く明かりは明らかに人が住んでいることを示していました。

水戸の遊廓赤線

そんな夜の町並み。すっかり住宅街と化した界隈ですが、赤線時代は両側に店が建ち、道がピンクのネオンに彩られていたことを想像すると、手前の石畳ですら歴史を刻んだ証人なのかと感情が高ぶってきます。

水戸奈良屋町の私娼窟・赤線跡。

この建物も、リフォームはされているものの、この構造的になんだか怪しい。

ここあたりには、「水戸市睦料理屋組合」の事務所がありました。

水戸の私娼窟・赤線

すでに主のない建物、昔の地図によると飲み屋だった、の扉には「水戸飲食店組合員」の札が残っていました。

水戸奈良屋町のいちばんの見所、言い方を変えれば往事をしのばせる唯一の建物(他は推定)があります。

水戸奈良屋町の私娼窟・赤線跡。ふくとみ

一見すると、ただの民家のように見えますが…

水戸奈良屋町の私娼窟・赤線跡。ふくとみ

おそらく店の入り口と思われる建物には、何かラーメンのあれのようなデコレーションが。現地でよく見てみると、ラーメンではなく波をイメージした紋様ではないかと思います。ただの根拠なき推定ですが、その昔は奈良屋町のすぐそばまで迫っていたという千波湖の波をイメージしたのかもしれません!?

水戸奈良屋町の私娼窟・赤線跡。ふくとみ

建物には、昔の屋号が外壁に残されています。
ぱっと見、何が書かれているかわからないのですが、昔の地図を見ればこれは「ふくとみ」であることが判明。漢字ではおそらく「富久冨ふくとみ」か!?

どうも判明しないので、ここで借りるはツイッター知。ツイッターで

筆者
筆者

あなたならどう読む?

と「募集」をかけてみたところ、答えは大きく分けて二つ。

富久冨

布(婦)久冨

真ん中の「久」は確定として、さてどっちだろうか。

この「ふくとみ」、戦前、赤線時代、そして赤線廃止後も旅館として営業しており、旧奈良屋町の中では「老舗」のようです。

水戸奈良屋町の私娼窟・赤線跡。

建物の端に見つけた、電源のコードのようなもの。現役時代は、おそらくここに看板が立てられ、ネオン輝く看板が立てられたのだろうと想像力がたくましくなります。

もう一つの奈良屋町!?

さて、これで旧奈良屋町の探偵は終了。意気揚々と引き揚げ改めて地図を見てみると、気になるエリアが目に入りました。

筆者
筆者

あれ?ここおかしいぞ?

奈良屋町から隣接しつつも少し離れた場所にも、「酒」と「旅館」が固まっているのです。しかも、「飲食(店)組合」の事務所まである。
これは、まだ終わってないぞ…私の足はそこへ向かっていました。

水戸奈良屋町の私娼窟・赤線跡。

それが、黄色で囲んだエリア。現在は宮町3丁目ですが、昔は黒羽根町という町名でした。

旧奈良屋町から黒羽根町を見ると、このように標高が全く違います。その姿、まるで山のごとし。

水戸の遊郭

逆に旧黒羽根町から見た旧奈良屋町は、小山の上から見下ろすような形となります。昔なら私娼窟が上から丸見え状態です。

その坂の途中には、あやしい飲み屋の跡が一軒。すでに閉店しているようですが、ここ界隈にも「酒」の店が何軒かあったようです。

奈良屋町からの、いっそのことエスカレーターつけてくれと思ってしまうようなスロープのような坂道をあがると、そこは旧黒羽根町。
この道の両側にかつては、「酒」の店や旅館が立ち並んでいました。

現在、この界隈で旅館の看板を立てているのは、この「末広館」のみとなっています。
「末広館」は昭和40年代前半の地図にも記載されており、この周辺に「旅館」がいくつかありました。末広館はその最後の語り部だったのですが、見た限り暖簾はすでに下ろしている様子。

赤線とは関係ないと思いますが、上に派手なローマ字の看板が残っている木造の建物、ライブハウスか何かで使われたものだろうか…。

「SUN」と書かれていますが、後に調べてみると、元はNの後に「TOPIA」がついて「SUNTOPIA」だったことが判明。
こちらのサイトによると、かつて水戸駅前に「SUNTOPIA」というファッションビルがありました。水戸のファッション旗艦ビルとして長らく駅前に君臨していましたが、2007年に閉館。その最上階に取り付けられていた看板をここに移設したそうな。どおりでこの木造の建物と看板がアンマッチだと思った。
しかし、その異物感が、今や無人となっただろうこの建物の存在感を高めているような気がします。

「SUNTOPIA」の横道は、このように香ばしい香りがする路地となっています。

見た風だと熊さん八つぁんが出てきそうな下町の裏通りですが、そこから出ている空気は明らかにそれでない…ちょいとお邪魔しますよと歩いてみると、やはりというかまさかというか、一杯飲み屋のようなたたずまいの家が。ウィンドウにお酒が置かれているので、元飲み屋であることは間違いない。

他の家もそれっぽい感じがしたので、もしかして、ここは赤線のおこぼれにあずかった青線系!?
証拠は全くないですが、そんな直観が私の脳裏をかすめていました。

そんなかすかな艶なにおいを醸し出している路地を最後に、私はこの妖しい地を去り次の地へ。

『水戸市史 下巻(一)』
『水戸市史 下巻(二)』
『水戸(案内)』
『業態者集団地域ニ関スル調』(内務省衛生局)
『昭和15年水戸市住宅全図』
『1963年水戸市住宅詳細図』
『昭和42年 水戸市住宅地図(復刻版)』
『明治大正の水戸を行く』
『水戸大観 並に商工名鑑(1954)』
『今昔 水戸の地名』
『筆まかせ』正岡子規

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コメント

  1. タカツカ より:

    みとっぽ、閉店してしまっていたのか、30代のころ会社の人間で何度か行った。ざっくばらんに飲める良い飲屋だった、たたみいわしが美味かった。
    しかし、水戸人である自分より水戸の細部に詳しくて驚き。

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