水戸の花街物語 Episode 1 奈良屋町(茨城県水戸市)|おいらんだ国酔夢譚|

水戸の遊郭赤線奈良屋町東京・関東地方の遊郭赤線跡

「陸軍聯隊あるところ、遊郭あり」

「おいらんだ国酔夢譚」で何度も述べている、ひとり遊郭調査兵団をやっている経験からくる法則の一つです。軍隊と遊郭(女)は切っても切れない関係Win-Winの関係、これは陸海軍ともに同じです。

しかし、この鉄板法則に当てはまらない例外が、日本に3ヶ所だけ存在しました。その一つである高崎は、群馬県自体が

群馬県
群馬県

遊郭設置を認めません!

という廃娼県なので除外として、残り2つのうち一つは和歌山(市)。だからといって和歌山市は売春がないクリーンな町だったのかというと、全くそんなことはなく、逆に今でも「現役」の天王新地阪和新地、さらに偶然知った鼠島の私娼窟…これだけでも3ヶ所の私娼窟が存在していました。正直、まだ何ヶ所かあったくさいです…。

そして、残りの1ヶ所というのが、越後のちりめん問屋の光右衛門…もとい徳川光圀と納豆とケーズデンキで有名な茨城県の水戸。
本日は、そんな黄門様もびっくりの水戸の赤い灯のお話。

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水戸の遊郭設置話

水戸には遊郭が設置されなかった…と上でも申し上げたのですが、実はごく短期間、遊郭が設置されたことがあります。
明治5年(1872)、茨城県で遊女・貸座敷取締規則が制定され、水戸にも貸座敷営業地、つまり遊郭がつくられました。
ところが、その法律のインクも乾かぬ明治7年(1874)、水戸の細谷村(現在の城東5丁目)に移転、その翌年には平潟村、筑波町、磯浜村(現大洗市)など7ヶ所に限定し、水戸の遊郭は近代史上ではたった2年の命でした。

その後、陸軍の第2聯隊や第14工兵大隊が水戸に移転し遊郭設置話が持ち上がるのですが、結果的に遊郭が設置されることはありませんでした。

遊郭こそなかったものの、歴史的に水戸には4つの花街が存在していました。一つは下市(南部)にあった竹隈町、一つは上市(北部)にあった大工町、そして陸軍聯隊移設と同時に誕生した谷中(末広町)。
大工町と谷中に関してはまた独立してブログ記事にする予定ですが、今回の主役はもう一つの花街、奈良町のお話を。

奈良屋町の私娼史

東国常陸国なのに奈良という名前がつく奈良屋町、その町名の由来は

①ナラの木が多く生えていたため

②奈良屋という商人が町を開いたため

③江戸時代、京の商品を奈良物と呼んだ。京都の西五条奈良物町1の商品のことだが、この町で京の商品が売られていたため

(『今昔 水戸の地名』より)

このように諸説ありで確かなものは不明ですが、個人的には③がいちばん正解くさい。
由来がどれにしても町の歴史はかなり古く、正保2年(1645)の間口帳に奈良屋町の表記があるのでこの頃から存在していたようです。
正保2年は、のちに水戸藩主となるご老公さまは満17歳。江戸でグレてた不良少年だったのは有名な話ですが、ここあたりから180度ターンして改心し、藩主への道へ進むこととなります。

そんな奈良屋町、最初から私娼がはびこる色街だったわけではなく、明治までは特になんの変哲もない町だったようです。人口も明治末期は185戸のうち駅員が56戸を占める、水戸駅前という立地のせいか鉄道関係者が固まって住んでいた町だったようですが…ある時期から様子が一変します。

大正7年(1918)3月25日、汽車から出た飛び火が奈良屋町の豆腐屋の屋根に引火、それが強い南風にあおられ町の中心部の1100戸を焼き尽くす大火となりました。水戸の歴史では「水戸大火」と呼ばれています。

水戸大火で焼けた奈良屋町

上の絵葉書は、奥に千波湖(当時は水戸駅南部まで湖だった)が見えるのでおそらく手前が黒羽根町、その奥が奈良屋町と思われますが、見事に焼けています。

火事の後は元通り復旧したのですが、

「白粉をぬった闇の女がこの町に現れ、それが急速にふえはじめたのはこの大火後である」

『明治大正の水戸を行く』

この頃から、私娼が奈良屋町に集まるようになったようです。

しかし、市史を見るとすこし展開が違ってきます。
水戸には遊郭がなくなった明治初期から、既存の花街の他にも料理屋と称したモグリの私娼窟が数ヶ所発生していました。明治14年(1881)の新聞には(遊郭がない)水戸や土浦に私娼はびこり的な記述があり、市街の花街大工町も事実上の遊郭と化していたようです。

当局が頭を痛める中、風紀秩序や治安維持などの立場から、私娼を取り締まり一定の指定地に集める方策が採られました。
その集娼地の一つに、奈良屋町の名前がありました。奈良屋町が私娼窟になったのは自然発生的なものではなく、警察の集娼政策の結果だったのです。
おそらく、大火で焼け野原になったのを奇貨として、復旧ついでにここを「準遊郭」(当局黙認の私娼窟という意味の造語)にしてしまえと、私娼対策に悩んでいた警察が鉛筆なめなめしたのでしょう。
なお、この時に指定された私娼窟、実はもう1ヶ所あったのですが、それはまたおいおいと。

この頃水戸に住んでいた人物に、菊池仙湖という人物がいます。

本名菊池謙二郎。大学予備門から東京帝大へ進んだ水戸の秀才で、の水戸学の権威、そして水戸の教育界に貢献した人物です。
予備門時代の縁で正岡子規・夏目漱石・秋山真之と交流があり、『漱石全集』の書簡集にも彼の名前がよく出てきます。特に子規とはよくつるんでいたようで、子規本人が「親友」と呼んだ19人のうち、「厳友」として菊池が入っていたほどの仲でした2
子規が元気だった21歳の頃、東京から水戸まで歩き菊池の実家を訪れたこともあり、菊池宅の庭から眼下に見えた千波湖の風景に

という句を残しています。

大正時代、菊池は水戸駅西部の上梅香(青矢印。現在の梅香1丁目)という場所に居を構えていました。
夜に水戸駅に到着し帰路につく時、自宅へ戻る最短ルートが奈良屋町(赤矢印)近辺を通ること。これは現在でもほぼ同じです。
家に帰りたいだけなのに奈良町に巣食う白首たちにつきまとわれ、服を引っ張られ、家族へのお土産だったのか、山葵わさび漬を彼女らにひったくられてしまい閉口したという話が残っています。いくら水戸学の偉い人でも、白首女たちのバイタリティにはかなわなかった。

奈良屋町はその後大いに発展し、奈良屋町とくれば水戸のウフフな町として県内中に知れ渡っていたそうです。当時の言い方的には「水戸の玉の井」ってことでしょうね。

昭和初期の内務省衛生局の私娼窟リストにも「奈良屋町」として名前が載っており、昭和8年(1933)には戸数45軒、女性数111名という内務省の記録が残っています。その6年後の14年(1939)には133名となかなかの規模となっています。

水戸の奈良屋町の遊郭と赤線


昭和15年(1940)の地図を参照に、奈良屋町にあった私娼窟のエリアを現代の地図に落とし込み可視化してみました。
私娼窟は、遊廓と違いここ売春窟ですと公にはアナウンスできないので、いろんな業態に擬態して営業するのが常。今の風俗だって、「浴場」や「料亭」に擬態しているでしょ?それと同じです。
奈良屋町の場合は「料理屋」で、この界隈には何々料理屋と表記されない、謎の「料理屋」がつらつらと。見る人が見れば、ははんと察するのですが…こういうなんちゃって料理屋を、地元では「駱駝らくだ屋」と呼んでいました。なぜ私娼窟が駱駝なのかはわかりませんが、この名前は茨城県をはじめ北関東で主に使われていました。

その駱駝屋の数、昭和14年時点では45軒3ですが、翌年の地図には何軒記載されていたのか、実際にカウントしてみました。
するとその数39軒。資料の45軒とは相違がありますが、「料理屋」は警察から黙認とは言え、闇営業に等しい業態。警察が24時間365日がっちり管理している遊廓の貸座敷ですら数がピタリと合わないことの方が多いのに、ヤミなら合うわけがない。よって、6軒の差があるものの、自分の経験上、6軒くらいは誤差です。

そして時代は戦争に入ります。戦争中でもこういう世界は繁盛するもので、この奈良屋町の駱駝屋街も例外ではなかったと思われます。が、運命の「その時」がやってきます。

それは水戸の空襲。昭和20年(1945)8月2日、B29の編隊160機が水戸市を襲いました。意外なことに水戸市が公式に調べた戦災地図は図書館に残っておらず、水戸市平和記念館にも存在せず。唯一残っているのは、米軍による空襲直後の航空写真と、戦後の復興計画図だけでした。
仕方ないので米軍の航空写真でジャッジしてみると、奈良屋町界隈は焼けているものと判断しました。空襲では水戸駅が集中的にやられており、駱駝屋街の隣の東照宮も全焼しているので、奈良屋町もひとたまりもなかった…そう推定するのは間違いではないでしょう。

そして赤線へ

空襲で焼けた(と思われる)奈良屋町の私娼窟、戦後に不死鳥のように蘇ります。

その前に、戦争が終わり水戸にも進駐軍がやってきます。
奈良屋町は進駐軍用の特殊慰安婦街として指定され、日本人は別記事にする予定の谷中花街へ行けということになりました。進駐軍基地(元陸軍聯隊)に近い谷中が進駐軍の慰安施設に指定されたのかと思ったら、実情は逆だったようです。ただし、お店のすべてが進駐軍用になったわけではなく、何軒かを指定して御用達にしたとのこと。
それが翌年のオフリミッツを経て、赤線として繁盛することとなります。地元資料によると、奈良屋町は「特殊喫茶店」として営業許可が下りていたそうです。「特殊」という名前でもうお察しです(笑

戦後の赤線・青線ガイドに等しい『全国女性街ガイド』(渡辺寛著)によると、

「よく寝るというので『駱駝屋』という愛称を持つ私娼が奈良屋町一帯に40軒、酌婦も136名いる」

『全国女性街ガイド』

数字だけなら戦前とほとんど変わっていない模様ですが、ジモピーの回想によると戦後の方が栄えていたようで、その違いは明らかだったと。

赤線現役時の地図が存在しなかったので確証はできませんが、赤線時代はお店のエリアも多少違っていたと推定されます。

戦前の「料理屋」のエリア(赤線)にプラス、青線のエリアにも店がちらほらと散見しています。赤線+青線の部分がいわゆる「奈良屋町エリア」と言っても過言ではないでしょう。

そして昭和33年(1958)の売春防止法完全施行により赤線は廃止となるのは、他の赤線の例に漏れずです。
ふつうなら、赤線廃止と共に町は急激に廃れていくのが元赤線地帯の常なのですが、奈良屋町エリアは飲み屋街として少しは繁盛していたそうです。図書館に残る閲覧可能な戦後最も古い地図(昭和42年)にも、旧赤線地帯には「酒」と「旅館」が残っているので、水戸駅から歩いて5分程度、東照宮のお膝元という立地条件にも恵まれたのでしょう。

NEXT:奈良屋町の現在は

  1. 下京区と上京区に現存する地名
  2. 正岡子規『子規全集』より『筆まかせ』
  3. 厚生省予防局『業態者集団地域二関スル調 昭和14年』より
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コメント

  1. タカツカ より:

    みとっぽ、閉店してしまっていたのか、30代のころ会社の人間で何度か行った。ざっくばらんに飲める良い飲屋だった、たたみいわしが美味かった。
    しかし、水戸人である自分より水戸の細部に詳しくて驚き。

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