高野山…千年の歴史を持つ悠久の宗教都市。
今や外国人観光客が殺到する世界的観光地ですが、高野山の名前が現在のように有名になったのは、フランスで発売された写真集がきっかけと言われています。実際、コロナ前の入山外国人の最多はずっとフランス人がトップだったんだとか1。
私がバックパッカーとして世界中をバガボンドしていた20数年前には、その種火のようなものが見えていました。
当時、欧米人バックパッカーから3つの日本の地名をよく耳にしていました。
一つは鹿児島。というより桜島と言った方が正解で、あんな街から見える活火山は世界でも珍しいとのことでした。二つ目が沖縄。理由はもちろんマリン関係。あの沖縄でさえ、クールジャパンと外国人が殺到する前は「知る人ぞ知る世界の秘境」だったのです。
そして残り一つが高野山。
コーヤサンってとこ知ってるか?どうやったら行けるんだ?
とよく聞かれたものですが、私も関西人なので高野山は説明できる。あそこは宗教都市でお寺がいっぱいあるうんぬんと説明したことを覚えています。
おっと、私は観光の話をしようとしているのではありません。本記事のジャンルは「おいらんだ国酔夢譚」。つまり遊郭の話。
物欲煩悩など仏力で霧散させそうな聖地中の聖地に遊郭、そんなアホな!?と思ってしまうのも仕方ありません。
が、色街跡に行っただけなら全国各地3桁は確実に行っている(具体的な数はもう忘れた)私のインスピレーションは、むしろ逆でした。
絶対あったはずや…
遊里史を古代から紐解いていくと、宗教と色里はそれなりに密接な関係があります。高野山の神道版と言い換えることができる、伊勢神宮や出雲大社の門前にさえ色街があったのだから、そりゃあ「般若廓」(仮称)の1つや2つあったでしょと。
高野山に色街があった間接的な証拠に、高野山への参詣道である高野街道沿いに色街がほとんどないということ。これも明らかにおかしい。近代遊里史的に考えると、今でも高野山への中継地にあたる橋本あたりに遊郭かモグリ私娼窟があってもおかしくない。いや、橋本に遊郭あったやん…って節子それは「橋本」違いや。
いや、河内長野(長野新地)があるじゃないか。お前もブログに書いてるだろという声もあります。
が、これは南海電鉄がつくった直営の公園で、作られた歴史的経緯が全く違う。
そこで時間をかけて尻尾をさぐってみると…やはり存在しました、高野山の「遊郭」が。
高野山に遊廓があった!?
江戸時代までは聖地として「関係者以外立入禁止」だった高野山も、明治になり以前は御法度だった女性や外国人の入山も始まりました。
そうなると、彼らを受け入れる設備が必要となります。
女性参拝客には、明治15年(1882)に女性のための参籠所(今の宿坊的なもの)が設けられそこに集約されることとなりました。その地域を、地元では「上の段」、または「上段」と呼ばれていました。以後、この地は「上の段」に統一します。
その上の段には、地図を見ると警察署や役場もありますが、次第に宿や飲食店が集まる繁華街となりました。そして、次第に料理屋の2階は「女郎屋」となり、高野山唯一かつ最大の歓楽街として栄えることになりました。つまり、高野山の「遊郭」は明治時代から存在していたのです。
食欲・性欲・睡眠欲は人間の生き物としての根源の欲求とよく言いますが、性欲はその中でも最大級の煩悩。まさに煩悩のラスボスが高野山にも存在していたのです。
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